(1) 静かな温度
あの夜から、世界は少しだけ形を変えた。
由良は、吸血鬼。
それは恐ろしいはずの事実なのに。
不思議と、怖くなかった。
むしろ。
(だからだったんだ)
初めて会ったときから感じていた、あの違和感。
甘くて、冷たい香り。
人なのに、人じゃないような距離。
懐かしいのに、触れられない感じ。
全部、腑に落ちる。
いつもの図書館の窓際。
隣に座る由良の横顔を盗み見る。
視線が合いそうになって、慌てて逸らす。
(落ち着いて……)
「……どうしました?」
穏やかな声。
やっぱり気づかれる。
「な、なんでもないです」
少しだけ声が上ずる。
由良がわずかに目を細める。
「顔、赤いですよ」
「赤くないです」
即答してしまって、さらに恥ずかしくなる。
沈黙。
静かな図書館の空気が、やけに意識される。
吸血鬼だと知ったはずなのに。
怖いどころか。
隣にいるだけで、心臓がうるさい。
(好きって、こんなに落ち着かないんだ)
帰り道。
少しだけ距離が近い。
肩が触れそうで、触れない。
「……寒くないですか」
由良の声が低い。
「大丈夫です」
本当は少し寒い。
でも、それ以上に。
隣にいることの方が落ち着かない。
「理永」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸が跳ねる。
「……はい」
顔を上げると、視線が絡む。
由良の方が、ほんの少しだけ先に目を逸らす。
「……無理はしないでください」
その言い方が、やけに優しくて
理永は小さく笑う。
「由良くんの方こそ、です」
照れながらも、ちゃんと言える。
静かな時間。
ぎこちなくて。
でも確かに、甘い。
このやり取りが、もう当たり前になりつつある。
特別な約束はない。
けれど、帰り道は自然と隣にいる。
でも。
帰り道が一緒になり。
連絡が自然に増え。
手はまだ触れないけれど、距離は近い。
気づけば。
「今度、映画でも行きませんか」
言ったのは理永だった。
一瞬だけ、由良が止まる。
ほんの一瞬。
「……いいですね」
微笑みは優しい。
けれど、その奥にわずかな影。
理永は気づかない。
(幸せだな)
胸の奥があたたかい。
吸血鬼でも、関係ない。
由良が由良であることが、ただ嬉しい。
一方で。
由良は、隣を歩く理永を見つめる。
夕暮れの光が彼女の髪を染める。
――守れるのは、今だけかもしれない。
けれど。
(もう少しだけ)
この穏やかな時間を。
壊したくない。
指先が、わずかに動く。
触れそうで、触れない。
それでも。
「理永」
呼ぶ声は、やわらかい。
名前を呼ぶことだけは、もう躊躇わない。
静かな時間が、ゆっくりと流れていく。




