(3)触れてはいけない熱
理永の背中が人波に紛れて見えなくなるまで、由良は動かなかった。
夕暮れはすでに夜へと変わり、駅前の灯りがひとつ、またひとつと灯っていく。
右手の指先に、まだ彼女の体温が残っている。
冷たいはずの自分の手が、 あの瞬間だけは、焼けつくように熱を持った。
「……言わせるわけには、いかない」
小さく吐き出す。
あのまま続きを聞いていたら。
あの二文字を、最後まで言わせていたら。
きっと、自分は――
理永を抱き寄せていた。
喉の奥が、鈍く疼く。
甘い匂いがした気がした。
違う。
気のせいだと、何度も言い聞かせる。
由良は目を閉じる。
彼女が震えながら言葉を紡いだ姿が、鮮明に蘇る。
嬉しかった。
どうしようもなく。
あんな目で見られて、
あんな声で呼ばれて、
平静でいられるはずがない。
それでも。
「まだだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
彼女が本気で踏み込めば、
もう戻れない。
自分の側に立つということが、
どういう意味を持つのか。
今はまだ、知らなくていい。
知らないまま、笑っていてほしい。
駅前の時計塔を見上げる。
時は進む。
止めることはできない。
それでも。
せめてもう少しだけ。
あの穏やかな時間を守りたい。
由良はそっと右手を開く。
指先の記憶が、ゆっくりと夜気に溶けていく。
「……好きだよ」
誰にも届かない声。
それは、彼女に向けた告白であり、
同時に――拒絶だった。
夜風が、長い髪を揺らす。
由良はようやく踵を返した。
彼女の知らない場所へ。
彼女を巻き込まないために。




