(5)消えない体温、消えない予感
雨の日以来、理永の世界からは「退屈」という文字が消えた。
図書館のいつもの席。
隣に由良がいることが、呼吸をするのと同じくらい自然で、けれど心臓が跳ねるほど特別なことになっていた。
レポートを書くふりをして、理永は隣の横顔を盗み見る。
由良はいつも古い革表紙の本を読んでいる。その指先は白く、陶器のように滑らかだ。
「……由良くん」
「ん?」
「由良くんって、たまにすごく遠くにいるみたいに見えます」
ふいに漏れた言葉に、由良がページをめくる手を止めた。
蜂蜜色の瞳がゆっくりと理永を捉える。
その瞳の奥には、理永の知らない膨大な時間が沈んでいるようで、
胸が、わずかにと痛んだ。
「遠くないよ。ここにいる」
「でも……」
理永は、雨の日に触れた彼の袖の冷たさを思い出していた。
あんなに優しいのに。あんなに側にいてくれるのに。
時折、彼が霧のように消えてしまうのではないかという、根拠のない恐怖が襲ってくる。
「私、もっと由良くんのことが知りたいです。大学のことじゃなくて、もっと、普段何してるのかとか……好きなものとか」
由良はわずかに目を細めた。その表情は、愛おしそうでもあり、ひどく悲しそうでもあった。
彼は静かに本を閉じると、理永の手に、自分の手を重ねた。
指先から伝わる、わずかな温度。
いや、それは温度というよりも、彼という存在が放つ静かな拍動のようだった。
「理永。俺は、
君が思っているような人間じゃないかもしれないよ」
「え……?」
由良の蜂蜜色の瞳が理永を見つめる
「それでも、君は俺の隣にいたい?」
その問いは、
何度も繰り返されてきた儀式のようだった。
重くて、
切実。
理永は息を呑んだ。
彼の言葉の意味は分からない。
けれど、
確信したことが一つだけあった。
(この人は、私が捕まえておかないといけない)
直感が叫んでいた。
彼が抱える孤独の深さは分からないけれど、その孤独に触れていいのは自分だけだという、傲慢で純粋な確信。
「……いたい、です。理由なんて、分かんないけど」
理永の声が震える。
由良は驚いたように目を見開いた後、
ふっと、これまでに見たこともないような柔らかな笑みを浮かべた。
「……本当に、君は......」
その呟きは、理永には届かずに
図書館の静寂に溶けて消えた。
その日の帰り道。
夕焼けに染まるキャンパスを歩きながら、理永は自分の拳をぎゅっと握りしめていた。
「好き」という言葉が、喉の奥までせり上がってきている。
顔が綺麗だからじゃない。
偶然会うからでもない。
まるで魂のどこかが、彼を呼んでいるみたい。
運命なんて信じていなかった。
けれど、今、目の前を歩く彼の背中を見つめているだけで、涙が出そうになるこの感情に、名前をつけなければいけないと思った。
(次に会ったら……ちゃんと言おう)
理永は、オレンジ色に染まる彼の琥珀色の髪を見つめながら、心に決めた。
彼がどんな秘密を抱えていても、
自分から手を離すつもりはない、と。




