(1) 偶然のふり
「第2幕:地上編(恋愛・過去編)開幕。
午後の図書館は、眠たくなるほど静かだった。
高い窓から射し込む陽の光が、長机の上に四角い影を落としている。
理永は積み上げた本の山を前に、ため息をついた。
「レポート多すぎ……」
文学部二年。
平凡で、忙しくて、少しだけ夢見がちな女子大生。
それが彼女だ。
自分が何かを忘れているなんて、考えたこともない。
けれど――
最近、同じ夢を繰り返し見る。
目が覚めるたび、胸の奥だけがざわついていた。
知らない風景。
遠い月。
泣きそうな誰か。
でも思い出せない。
ページをめくろうとした瞬間、向かいの椅子が引かれる音がした。
顔を上げる。
そこにいたのは、見覚えのない男だった。
長身。端正な横顔。
そして——
陽の光を受けて、琥珀色の髪がきらりと輝く。
一瞬、息が止まった。
綺麗、という言葉では足りない。
光を含んだ飴色。
まるで、時間そのものを閉じ込めたみたいな色。
男は静かに本を開く。
仕草がやけに洗練されている。
古い時代の肖像画から抜け出してきたみたいに。
(こんな人、うちの大学にいたっけ……?)
気になって、つい見てしまう。
すると視線に気づいたのか、男が顔を上げた。
琥珀色の髪の下、深い蜂蜜色の瞳。
目が合う。
心臓が、強く打つ。
「……何か?」
低く、落ち着いた声。
理永は慌てて視線を逸らした。
「い、いえ。すみません」
声が少し上ずる。
なんでこんなに緊張してるんだろう。
初対面なのに。
まるで。
ずっと前から知っている人みたいに。
沈黙が落ちる。
ページをめくる音だけが響く。
なのに、空気が妙に熱い。
しばらくして、理永の手元から一冊の本が滑り落ちた。
「あっ」
同時に、男の手が伸びる。
指先が触れた。
ほんの一瞬。
それだけなのに。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
懐かしい。
そんなはずないのに。
男の瞳が、わずかに揺れた。
「……君、名前は?」
自然すぎる問い。
でも、どこか確かめるような響き。
「理永、です」
口にした瞬間、なぜか胸が温かくなる。
男はほんのわずか、目を細めた。
その表情は——
安堵。
「そうか」
小さな吐息。
その表情は——
ほんの一瞬だけ、何かがほどけたように見えた。
でも理永は知らない。
彼が千年生きる吸血鬼であることも。
この出会いが“偶然を装った必然”であることも。
男は本を閉じる。
「由良だ」
名乗る声は穏やかだった。
「隣、いいか?」
「は、はい」
なぜか断れない。
断りたくない。
由良が座る。
距離が近い。
体温は感じないのに、存在だけがやけに鮮明。
理永はページを開いたまま、文字が頭に入らなくなっている自分に気づく。
ちらりと横を見る。
真剣な横顔。
整った睫毛。
静かな呼吸。
ただ、惹かれている。
まだ何も知らない人のに。
——好きかもしれない。
いや、ちがう。顔が良いから錯覚してるだけ。
由良は視線を本に落としたまま、ほんのわずかに唇を緩めた。
(……やっぱり、そう来るか)
——小さく息を吐く。
最初に距離を縮めてくるのは、 いつだって彼女のほう。
恋に落ちるのは、彼女のほうが先。
それでもいい。
図書館の静寂の中で、
新しい恋が、静かに始まった。




