第八話 歪み
その夜、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、
あの光景が浮かぶ。
カレンの胸に浮かんだ、意味の分からない模様。
そして、力を失って倒れた身体。
(……偶然なわけがない)
そう思えば思うほど、
剣の重さが、頭の中に残った。
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翌朝、訓練場に向かった。
いつも通りの時間。
いつも通りの景色。
木剣を受け取る。
……はずだった。
手が、伸びない。
「どうした?」
訓練係の男が、怪訝そうにこちらを見る。
「今日は……休みます」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「珍しいな」
男はそれだけ言って、視線を外す。
理由を聞かれなかったことに、少しだけ救われた。
訓練場を離れる。
腰の剣が、やけに重い。
剣を振れば、強くなれる。
それは、疑いようのない事実だ。
でも。
強くなった瞬間に、彼女は壊れかけた。
その因果を、
もう無視できなかった。
(……なら)
答えは、ひとつしかない。
――剣を振らなければいい。
臆病で、逃げている選択だと、分かっている。
それでも、今の自分には、他の道が見えなかった。
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街道の先に、人だかりができていた。
「勇者様が来てるらしい」
その言葉に、胸が跳ねる。
足が止まり、
それでも、引き寄せられるように近づいてしまう。
カレンは、そこにいた。
以前と変わらない鎧姿。
人々に囲まれ、笑顔で応えている。
倒れたことなど、
誰も想像できないほど、いつも通りだった。
(……元気そうだ)
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
カレンが、こちらに気づいた。
目が合う。
「シュン」
迷いのない声。
その一言で、
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「……どうしたの?」
近づいてきた彼女が、首を傾げる。
「最近、剣……振ってないでしょ」
言われると思っていた。
だから、何も言い返せなかった。
「……少し、考え事があって」
「考え事?」
心配そうな目。
言えない。
言えば、彼女は立ち止まってしまう。
「無理、してない?」
「してません」
即答してしまった自分が、情けない。
カレンは、少し黙り込んでから言った。
「……シュン、強くなったよね」
胸に、刺さる言葉。
「一緒に戦ったとき、分かった。
ちゃんと、前に進んでる」
それなのに。
少しだけ、言葉を選ぶように間が空いた。
「……なんだか、前と違う気がする」
その一言が、胸に残った。
近づけば、壊れる。
離れれば、傷つける。
どうして、こんな選択しか残っていないのか。
「……ごめんなさい」
絞り出した言葉は、それだけだった。
「謝らないで」
カレンは、少しだけ強い口調で言った。
「理由が分からないのが、嫌なだけ」
正直な言葉だった。
彼女は理由を知りたい。
でも、その理由は――
知ってはいけない。
しばらくの沈黙のあと、
カレンは一歩、距離を取った。
「……私は、先に行くね」
それは、突き放す言葉じゃなかった。
でも、引き止めてほしいとも言っていない。
少し間を置いてから、彼女は続けた。
「また、どこかで会えると思うから」
約束じゃない。
それでも、完全な別れでもない。
赤いマントが、人混みの向こうへ遠ざかっていく。
引き止めることは、できなかった。
剣に手を伸ばしかけて、止める。
その仕草ひとつで、
もう答えは出ていた。
強くならない選択を、
自分は選び始めている。
それが正しいのかどうかは、分からない。
ただ。
彼女が、今日も前を向いて歩いている。
それだけが、救いだった。
そして同時に。
この距離が、
簡単には戻らないことも、
はっきりと分かってしまった。
こうして。
勇者に恋した僕と、
勇者である彼女の関係は、
目に見えないところで、
確かに歪み始めていた。




