第二話 名前を知っただけ
森を抜けるまで、あまり言葉はなかった。
先を歩く彼女の背中を、少し離れた位置から追う。
赤いマントが、木々の隙間を縫って揺れている。
歩き方に迷いがない。
この森を、何度も通ってきたのだと分かる。
「……さっきは、本当にありがとうございました」
沈黙に耐えきれず、そう言った。
「気にしないで」
振り返らずに、彼女は答える。
「たまたま通りかかっただけだから」
それが謙遜だということくらい、分かった。
あの動きは、偶然助けられるものじゃない。
それでも、これ以上は何も言えなかった。
しばらく歩くと、木々の間から道が見えてきた。
踏み固められた土の道。
人の往来がある場所だ。
「ここを真っすぐ行けば、街に出る」
彼女は立ち止まり、そう言った。
「私は、別の方向だから」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
もう、ここで終わりなのだと分かってしまった。
「……あの」
言葉が、喉につかえる。
名前を聞きたい。
せめて、それだけは。
でも、理由を説明できない。
彼女は、こちらを見た。
「なに?」
促すような声。
「……名前、聞いてもいいですか」
一瞬だけ、間があった。
断られるかもしれない、と思った。
ただ助けただけの相手に、名乗る義理はない。
それでも。
「カレン」
彼女は、あっさりと答えた。
「……カレン」
口の中で、そっと繰り返す。
それだけで、胸の奥に何かが残った。
「あなたは?」
聞き返されて、少し驚く。
「あ……シュンです」
「シュン」
自分の名前が、彼女の声で呼ばれる。
たったそれだけのことなのに、
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
「街に着いたら、気をつけて」
カレンはそう言って、剣の柄に手を添えた。
「この辺りは、まだ安全とは言えないから」
「はい」
本当は、もっと話したかった。
どうしてここにいるのか。
これからどうすればいいのか。
でも、それを聞く資格が自分にあるとは思えなかった。
「……それじゃ」
カレンは、軽く手を振る。
そして、そのまま別の道へ歩き出した。
赤いマントが、木々の間に溶けていく。
見えなくなるまで、
その場から動けなかった。
名前を知っただけ。
一緒にいた時間も、ほんのわずか。
それでも。
知らない世界で、
初めて繋がった糸が、
静かに胸の中に残っていた。
(……また、会いたい)
その気持ちに、嘘はなかった。
理由も、根拠もない。
ただ、そう思った。
腰の剣に、そっと触れる。
この世界で生きていくなら、
きっと、何かを選ばなければならない。
何を選ぶのか。
どう進むのか。
まだ、分からない。
でも。
カレンという名前を知ったことだけは、
確かに、僕の中で何かを始めていた。




