90 労わってやってはくれまいか
ハルニナの親書から、お館様、九尾の狐、月隠の白君はしばらく顔をあげなかった。
お供の狐も正面を向いて目を合わせようとせず、微動だにしない。
お言葉を待つ。
現代人にとっては、慣れない無言の時間。
やがて、お館様が、フッと笑った。
「ミリッサ殿」
「はい」
お館様と目を合わせて話すのは、いまだにまったく慣れることはない。
瞬きできないほどの圧を感じ、己さえ知らない心の奥底まで見透かされていることを感じる。
「のう、ランとは、幸いに過ごしておるか」
言葉に詰まる。
が、すぐに答えなければ。
一言で。
「たまには一緒に食事をいたします」
「たまに、とは?」
困った。
三月おきくらいに、では、まずいのでは。
妖怪時間では三月など、一瞬。
ほぼ別居状態ととられるのも困る。
しかし、お館様の前では嘘はつけぬ。
「つい先日も」
嘘ではない。
しかし、ごまかしがあると言えば、ある。
「のう、ミリッサ殿」
やはり、見透かされていた。
「もう少し、も少しでよい。ランを、な。人の言葉で申せば、なんと申すのじゃろう。労わってやってはくれまいか」
はい……。
返答の代わりに、平伏するしかなかった。
とても、言葉にしようもない。
愛して? 好いて? 構って? 楽しませて? 遊んで?
幸せにして?
どんな言葉も、少し違う。
それに、そんな言葉で表現できるほど、お館様の言葉は軽くはない。
労わって……。
「では、ミリッサ殿。ハルニナ殿に伝えられよ。これで、月隠、貴殿の申し出、快く承ったと。すぐにでも、屋敷を用意いたそう、と」
え?
見返りは?
ええっ?
これで?
今のが要求事項?
ランと、その、もっと仲睦まじくやれ、というのが?
え、え、ええっ!
ここは、反論してもいいのか?
違う。
お館様は、はっきりおっしゃったのだから。
短い言葉なれど、ランを労わってやってはくれまいか、と。
参った!
参りました!
お館様!
わかりました!
「ありがとうございます。ハルニナにそのように伝えます」
と、再び頭を下げた。
くそ!
あ、いや、そうは思っていません。
見透かさないでください。
頼みますよ。
本当に。
顔に出ていたのだろう。
九尾の狐は、また、仄かに笑った。
そして、立ち上がった。
ミリッサ殿、風呂に入っていかれよ。
服も顔も、ドロドロじゃ。
その風采では、ランが泣くぞ。
あ。
あ、あ、あ!
なんという無礼を!
貴人の御前に出る格好ではなかった。
三度、平伏するしかなかった。




