52 最初からそう言えばいいねやんか
翌月曜朝、珍しくランが部屋に訪ねてきた。
「全然、競馬、行けなくてごめん」
と言いながら、靴を揃えるラン。
「いい、いい。それよりオマエ、最近、黒い服多いな」
「は? それ、どういう意味? なんか、不満?」
「なにか、オマエの仕事に、関係してるのかなって」
ほんの世間話のつもりだったが、失敗だったようだ。
「せっかくミリッサのごはん作りに来たのに。最初の挨拶がそれ?」
ランの両涙袋の下、二つ並んだほくろ。
今、小さくはない。
むしろ、今まで最高レベルの大きさ。
ランの機嫌のいいときは小指の爪ほどに大きくなり、機嫌の悪いときは爪楊枝の先ほどに小さくなる、不思議なほくろ。
「さ、上がって上がって。待ってたよ!」
「最初からそう言えばいいねやんか」
久しぶりだ。
最初、昨年秋、ランが訪ねてきた時も、お昼ごはん作りに来た、と言った。
その時は、レトルトのサワラの味噌漬けとむかごご飯だった。
よく覚えている。
あの時、すでに、ランは猫妖怪だとは知っていた。
妖界と人間界の話、お館様の話などをしたものだ。
人間の言葉を覚えるのに苦労したとか、大阪弁をしゃべれるようになった、とか、そんな話もした。
そして、このお守り。
いつも首から下げている錦の袋。
これ、私だと思って、肌身離さずつけていて、とラン自ら首にかけてくれたのだった。
あれから、ランがやって来たのは三度ほど。
訪ねてきては、昼ご飯を作って一緒に食べ、ランはランの、俺は俺の仕事の話などをしては一、二時間ほどで帰っていく。
本来、学生と一対一ではどんな店にも入らない、を自分に課した絶対に守るべきルールとしてきた。
かわいい女子大生と中年男。
あらゆる誘惑を遠ざけ、罠をかいくぐり、どんな問題も起こさず、女子大の講師を続ける。
それが、この仕事を紹介してくれたヨウドウへの最低限のマナーだし、大人として律すべきことと考えていた。
しかし、昨年の一連の出来事によって、そんな常識的すぎるだけの考えは、みごとに粉砕されてしまった。
ラン、アイボリー、ハルニナ。
この三人は、訪ねてきた理由を、思いを語り、同時に、直面する課題を乗り越えるための方策を語った。
アイボリーは泊まっていくとまで言った。
その過程で、己のふがいなさの根幹をあらわにされた。
最後には、ハルニナに、でんでんむしとまで言われた。
ヨウドウやガリや、サークルメンバー、妖界のお歴々が集う場で。
講師だからって勝手に壁を作って、閉じこもって、頓珍漢な想像をしてるのよ。
まるで、でんでんむし。
ちょっと触れただけで、殻に引っ込んじゃう。
全然、分かっちゃいない人、の典型。
この人は、女の気持ちとかに全く気がつかない人。
心が柔らかくない。
と、バッサリ。
だからと言って、自分ががらりと変わったとは思わない。
受講した学生らは、多かれ少なかれ親しみを持ってくれてはいる、と思う。
しかし、彼女いない歴四十年以上。
これは厳然たる事実。
変わりようがない。変えようがない。
ただ、ランを部屋に入れること。これに抵抗はなくなった。
なにしろ、お館様の御前で偽の祝言まで挙げさせられたのだから。
それだけのこと。
「ラン。このお守り。呼べば、オマエに通じるのか?」
ランは、今日はフライ麺と餃子をレンジに入れている。
「うん。というか、そのお守り、私そのもの、私自身。そう、言わなかった?」
「聞いた気がする」
「フン、上の空、やったんか」
「すまんな。で、今日は何の話? あの話の続き?」
しまった。
話の順を間違った。
ランはこうして、一緒にお昼ご飯食べようと来てくれているのに。
気の利いた台詞でなくてもいい。
ランの思いに寄り添った話をしなくてはいけないのに。
ランは黙って、カットサラダの袋を開け、大皿の上にぶちまけている。
怒らせてしまった。




