『銭差しと黄金のプレスマンとプレスマンの芯の山』
盛岡の外れの村に善平という男があった。貧しかったが、正直者だと評判だった。評判になるほど正直者だから貧しかったという見方もできる。内実としては、多分、後者が正しいが、外見上は前者だと思われていた。
善平の村では、四年に一度、伊勢参りをする風習があった。もちろん、信心からではない。途中で楽しいことがたくさんあるのである。村の男たちは、四年間貯めてきた銭を持って、いそいそと出かけていった。善平も誘われていたし、行きたかったが、四年間で貯まった銭が、皆の半分にも満たず、泣く泣く泣く泣く諦めたのである。草枕ではなく、家の枕を濡らしたのである。
村の男たちが出立してから、善平は、気持ちを抑えられなくなり、あり金全てを持って、皆を追いかけた。街道を走っていけば、仙台に着く前に追いつけるはずだ、そう思って走り続けたところ、どういうわけか、どんどん山深くなっていく。もう、自分がどこにいるのかわからないので、いっそ頂上を目指した。山で遭難する人は、早く下山しようとして、低いほう低いほうを目指し、滝から落ちて痛い目に遭うと聞いたことがあったので、とにかく高いところを目指したのである。本当は、もとの道を戻るのが堅実な方法であったのだが、それをこんなところで言っても何もならない。
遠くに沼が見えた。湖というほど広くはないし、同じようなものが近くにないからため池ではないし、とにかく、山の中にあったから、善平は沼だと思ったのだが、よく考えたら、村から出たことのない善平は、三日月湖も間欠泉も見たことがなかったので、本当に沼と呼んでいいのかはわからなかった。ただし、話の進行上、それはどうでもいいことである。
善平は、その沼を、有名な、仙台の姉沼だと思って、まっすぐに沼を目指して進んでいった。途中、下り坂になったり、木々にさえぎられて、見えなくなることもあったが、善平は、まっすぐ姉沼を目指して進んでいった。途中、前が見えないほどの土砂降りとなったが、この日のうちに追いつくためと思って、見えないながら、道を急いだのだった。
善平が姉沼に着いたとき、日暮れにはまだ随分あったが、まだ雨雲がかかっていて、夜になったかと思うほどであった。ふと見ると、沼のほとりに、一人の女が立って、手招きをしている。善平がためらっていると、女のほうからこちらへ寄ってきて、私はこの沼の主である。お前を呼び止めたのは、ほかでもない。頼みがあるのだ。呼び止めたというのは正しくない。お前が山道で迷ったのも、峠からこの沼を見たのも、途中で雨に遭ったのも、全て私がしたことだ。どうしてもお前に来てもらって、頼みたいことがあったのだ、と言う。善平がもしやと思って、ここは仙台の姉沼ではないかと尋ねると、女はからからと楽しそうに笑って、秋田の黒沼だと教えてくれた。伊勢に行くには、かなりの見当違いである。
女は、この沼へ嫁いでから三年にもなるが、実家の沼に里帰りもできていない。お前は三国に名のとどろくほどの正直者だから、私の手紙を、父母の住む実家の沼に届けてほしい、と言って、善平に手紙を託した。それから、と言って、実家の沼というのは、大阪の赤沼というところなのだが、お前は、関八州まで名のとどろくほどの貧乏だ。この銭差しをやろうから、使ってくれ。百文が差してあるが、全部使ってはいけない。五文でも一文でも残しておけば、次の朝にはもとの百文に戻っているから、と、銭差しをくれた。
善平は、秋田の港へ出て、船で大阪へ行くことにした。また迷って、青森に出たりしてはかなわないからである。
大阪へ着いたのは、十日後であった。本当は、もっと早く着けないこともなかったと思われるが、荷を運ぶ船に便乗させてもらったので、荷積みに時がかかったのである。赤沼を訪ね歩いて、ようやく着くかと思ったころ、にわかに雨雲がかかって、あたりは真っ暗になり、歩くのも大変になった。それでも何とか沼に着くと、小舟の上に老人が立っている。手招きをするので近寄ると、舟に乗れという仕草をする。舟に乗ると老人が手を打ち、あっと思うと、善平は御殿の前に立っていた。
老人は、善平殿か、御足労をおかけした、まずは一献、と酒を勧められたので、いえ、まずは娘子からの預かり物を、と言って、手紙を差し出すと、さすがの正直者、と感心された。手紙を読んだ老人は、目に涙を浮かべ、善平殿のおかげで、娘の無事がわかった。ささやかながら馳走させてもらいたい、といって、ナマズの刺身やら、テナガエビの天ぷらやら、食べたことのない沼っぽいごちそうを振る舞われた。老人は、泥臭い馳走で、口に合うか、と笑ったが、比喩なのかどうかわかりかねた。
その夜は、したたか飲んで、寝てしまった。翌朝も馳走され、善平は、老人にいとまを願った。老人は、何日でもここにいてほしいと言ったが、善平は、伊勢に行きたいこと、伊勢に参ったら、すぐに戻って、秋田の黒沼に寄って、娘子に老人の無事を伝えたいことを告げると、老人は、善平の心根に感じ入り、泣きながら娘への手紙を書いた。善平が、老人の手紙を預かり、出立しようとしたところ、老人は、黄金のプレスマンと、朱塗りの盆に山ほど持ったプレスマンの芯を土産に持たせてくれた。舟で沼のほとりまで送ってくれ、見えなくなるまで見送ってくれた。
善平は、急いで伊勢を目指したが、少しばかり迷ってしまい、気がついたら神戸にいた。船に乗れば迷うまいと思って船に乗ったら、讃岐に着いた。せっかくだからと金比羅様に参ったところ、郷里の男たちに会った。互いに驚き、懐かしがった後、村に戻った。善平は、秋田の黒沼に行って、沼の主である娘に、老人から預かった手紙と、黄金のプレスマンと山ほどのプレスマンの芯を渡そうとしたが、これは父からお前への礼の品だから、と、手紙と、プレスマンの芯の半分だけを受け取り、残りは善平に持って帰らせた。銭差しを返そうとしたが、これは私からの礼だから、と、これも善平に持って帰らせた。
善平の正直ぶりはいやが上にも世に聞こえ、しかし、銭差しのおかげで長者となった善平は、黄金のプレスマンを使って、じいさまになるまで速記をして暮らしたという。
山ほどのプレスマンの芯は、善平が死ぬまでに使い切ることができなかったという。
教訓:正直は、美徳である。方向音痴など、欠点にもならない。