第18話 光がなくても①
*分からなくなったら目次にある用語集を参考にお読みください
23期3日 昇恒11時50分 天候:雨
見上げれば緑の針葉樹が天蓋のように頭上を覆い、目線を下げれば土砂降りの雨が視界を遮る。私は今木の下で雨宿りをしている。着ていた白いスウェットの上下は泥に汚れ、まるで現代アートのオブジェのようだ。しかし、今は冬。外気の冷たさが、体中に無数の針を刺すような鋭い痛みとなって容赦なく襲いかかる。雨で濡れた服が、その痛みをさらに増幅させる。それでも、体の震えと激しい鼓動は、生体維持機能が必死に活動している証拠だと、そう自分に言い聞かせていた。
追手から逃れて二時間ほどだろう。私は見知らぬ敷地内をひたすら走り続け、ようやくこの場所を見つけた。雨風をしのげる、つかの間の休息地。しかし、もう限界は近い。体はまだ動こうとしているのに、寒さで私の心は完全に折れかけていた。
今まで生まれてから私は会社のために多くの教育を受け、いつか会ったことのない父に貢献することを夢見て、兄弟姉妹との激しい競争を勝ち抜いてきた。それなのに、生まれつきの体の育成が停止したせいで、すべてが無駄になろうとしている。それでもなお、私の体は私の意思と反して生きようとしている。その現実が悲しく、まるで体が十倍にも重くなったかのように心が沈んだ。このままでは、今まで築き上げてきた全てが無駄になる。どうすることもできない自分への苛立ちからか、もはや、言うことを聞かない体に対する殺意すら湧きかけていた。
どうしようもない、拘泥とした思いを胸にしばらく私は目線を外に預けていた。
ふと視界外から一台の巨大なリムジンが入って来た。しばらくそれは遠くでぐるぐると動き回っている。私は不思議なその動きに少々疑問を抱えながら、それと共についに捕まるのではという恐怖も抱えることになった。車が視覚内で曲がるたびに心臓の鼓動は高まる。
——!
すると、唐突に向きを変えて、音もなく私の目の前に滑り込んできた。
一時、心臓の動きが止まった。永遠の時間、私は何も出来なかった。
ドアが開き、中から現れたのは、コンシェルジュドローンを従えた、茶色にウェーブヘアの女性だった。息をのむほど美しい。冬の冷気など意に介さない高級な装いは、周囲の視線を奪うほどに派手やかだった。
「あら、ご息女様。こんなところで、どうされましたの? よろしければ、お車の中で事情をお聞かせ願いできます?」
「はい……お願いします……拾って下さり……ありがとうございます」
心臓は再び動き始めた。女性の声は、凍てつく身体にじんわりと広がる湯のようにぬるかったが、それでも警戒心は消えない。ただ、その優しさに心がわずかに揺れるのを感じ、私は彼女の誘いに従い、リムジンへと足を踏み入れた。
車内は、豪華絢爛という言葉がふさわしく。そこはまるで移動する宮殿だ。宝石がさりげなく散りばめられた内装、肌触りの良い異素材を組み合わせた車内用インテリア。外は真冬だというのに、車内は春のように暖かく、濡れた服をセンサーが感知したのだろう。すぐに乾燥モードが作動し、エアコンの吹き出し口から力強い温風が噴き出した。瞬く間に体も服も暖まり乾いていく。しかし、泥で汚れた私の服を見た女性は、心配そうな表情を浮かべた。
「お召し物、お着替えをご用意いたしましょうか?」
「いいえ、お気遣いなく……」
私の言葉を尊重し、女性は無理強いしなかった。代わりに、運転用知能機関に静かに指示を出した。「私が合図をするまで、停車しないで」
“ピコン”と電子音が鳴り、指示が確かに伝わったことを告げた。そして、彼女は興味深そうな眼差しを私に向け、穏やかな口調で問いかけた。
「ねぇ、どうしてあんな場所にいらしたの? 普段、お嬢様は居室でお過ごしのはずでしょう?」
——!
一瞬、心臓が掴まれる感覚を感じたが、私はすぐさま冷静になる。
——確かに、私は普段、屋敷の外に出ることはない。ここで軽率なことを口にすれば、後々面倒なことになる。私はジャダム家の跡継ぎに相応しい、知性と教養を兼ね備えた子供を演じなければ……。そう考え、咄嗟に私は今まで知的探求に没頭していた、という設定を思いついた。何かいい言い訳はないかと目の前の景色、窓外の木々の葉に目をやりながら、ふと思いつきの言葉を選んで話し始めた。
「私、葉の……」
言葉を紡ぎ始めた私を、彼女は好奇心に満ちた表情で見つめている。私はもう一度呼吸をする。
「葉の様子を観察し、光合成の過程における、色素の吸収スペクトルと反射スペクトルの差異について、考察しておりました」
女性は、私の言葉を噛み締めるように、しばらく目を伏せて考え込んでいた。しかし、すぐに顔を上げると、ぱっと表情を明るくし、身を乗り出して私の顔を覗き込んだ。そして、私の手を両手で包み込むようにして、優しい声で言った。
「あら、素敵だわ、あなた……お医者様を目指していらっしゃるのね。素晴らしいことですわ。そのために、わざわざ外へ?」
——この人は、本当に理解しているのだろうか……?
私が話したのは、あくまで生物学の、それも植物生理学の領域だ。医学や生理学とは、直接的には結びつかない。しかし、彼女ほどの知性を持つ人物ならば、専門用語を並べれば、それらしく聞こえるのかもしれない。それに、通常、私たちのような特別な子供は、家業を継ぎ、経営者を目指すものだ。医学の道に進むなど、考えられない。しばし疑問は湧いたが、ここで不審を抱かれてはならない。私は内心の動揺を押し隠し、彼女の言葉に合わせることにした。
「そ、そうなんです。わたし、お医者様になるのが夢で、今、必死になって毎日勉強しているんです。今日はその一環で外で過ごしていたら……急に雨が降ってきてしまって……本当に迷惑かけてすいません」
彼女は、感嘆したように手を合わせ、目を輝かせた。
「まあ、素晴らしい。そんなにお医者様にご興味がおありでしたら、わたくしと一緒に、医術を学ぶことができる施設へ行ってみませんか? きっとお嬢様のお役に立てるはずですわ」
彼女の申し出は、願ってもない好機だ。私は内心で小さく叫びながら、このまま従順で利口な子供を演じ、激しく頷いた。女性は満足げに微笑むと、運転席に向かって指示を出した。
「シードマザーがいらっしゃる施設へ、向かってください」
彼女の言葉に、知能機関が即座に反応し、リムジンは滑らかに走り出した。
しばらくすると窓外に広がる広大な施設が見えてきた。私はその景観に息を呑んだ。私たちの住居エリアでさえ、巨大な陸上競技場がいくつも入るほどの広大な敷地だったが、ここは、それとは比較にならないほど広大だった。自分が今まで、いかに狭い世界で生きてきたのか、井の中の蛙だったのかと思い知らされる。改めて、父の途方もない財力と権力を思い知らされた。
リムジンは、どこまでも続くかのような、手入れの行き届いた緑豊かな並木道を進んでいく。整備された二車線の道路を、音もなく、しかし驚くほどの速度で滑走していく。時折、天を衝くように聳え立つ巨大なビルが視界に飛び込んできた。私は思わず尋ねた。
「あの、ここは……もう外の世界なのでしょうか?」
「あらあら、ご息女様ったら、冗談がお上手ですわ。いいえ、まだ中でございますよ。ご息女様ほどの御方なのに、ご存知ないのですか? この施設は、小さな町一つが丸ごと入ってしまうほどの広大な敷地を有しているのです。生活に必要な施設は全て揃っていますし。ここで一生を過ごすことだって、容易にできてしまうほどなのですよ」
私は、その事実に改めて衝撃を受け、言葉を失った。広大な施設、シードマザー、医術を学ぶ施設……。次々と現れる未知の言葉に、私の胸は高鳴る。だが、それと同時にこの女性への警戒心も、依然として消えてはいなかった。私は彼女の顔色を窺い、一挙手一投足を見逃さないように神経を尖らせていた。
しばらくすると、巨大なガラス張りの立方体建造物が現れ、リムジンはゆっくりと速度を落とし、その内部へと吸い込まれていった。
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