第17話 決められた人②
※ ※ ※
~スレイの視点~
昇恒六時。
私の朝は、夜明けと同時に始まる。人工光が、研ぎ澄まされた木肌を寸分の狂いもなく照らし出す。この木造の部屋は、普通の人なら不自由だと嘆くだろう。だが、私にとっては経済的効率、最適化、そして自己研鑽のための絶対的な場所だ。小鳥のさえずりを模した電子メロディーが、冷静な空気の中で静かに響き、私の意識を眠りの底から確実に引き上げる。脳に直接送り込まれる特定の周波数帯の振動が、覚醒中枢を刺激し、意識を眠りの底から強制的に引きずり出す。これは、企業が定めた完璧な一日の起動シグナルだと、私は微塵の疑いもなく、それを受け入れている。
自動で音もなく開く遮光カーテンの隙間から差し込む疑似朝日には、叙情的な要素など皆無。それは、建築家や科学者が綿密に計算した、朝日よりも効果的な「光刺激」であり、網膜を介した視交叉上核への正確な情報伝達に過ぎない。全智典が示す通り、この光はメラトニン分泌を抑制し、体内時計をリセットする。同時に、セロトニン前駆体の合成を促し、その分泌を最大化する。窓の外では、専属の庭師が手入れした庭園が、秩序ある緑として広がり、朝露に濡れた草花の甘く爽やかな香りが、そよ風に乗って部屋へと正確に運ばれてくる。これは最適なリフレッシュ効果を持つよう成分調整されており、この空気が、嗅覚受容体を刺激し、部屋へと正確に循環供給されている結果に過ぎない。脳の酸素飽和度を最大値に保ち、思考力と集中力を向上させるという全智典の教えは、私の日常において欠かせない一部となっている。
特殊な※睡眠カプセルから体を起こすと同時に、幼い頃、脊柱に埋め込まれた神経デバイスが覚醒した。それは熟練のマッサージ師の如くなどではない。脳幹に直接アクセスし、神経伝達物質(ドーパミン、セロトニンなど)の放出を瞬時に制御する起動パルスだ。心拍、体温、脳波、そして微細な筋肉の緊張に至るまで、すべてが企業成長のため、個人のスキルアップのため、そして今日一日を最高のパフォーマンスで遂行できるよう、寸分狂わず調整される。
起床早々、磨き上げられた木製の勉強机に向かうと、クリスタルガラスのコップに注がれたオレンジ色の液体が待つ。これは単なる絞りたてではない。最高級のオレンジジュースに最適な栄養素が合成された栄養補助飲料だ。一口含むと、脳内の特定の受容体を刺激する爽やかな刺激が口内に広がり、眠っていた細胞という細胞が、企業の使命のために一斉に覚醒する。全智典の知識通り、豊富な合成ビタミンCが免疫細胞の活性を最大化し、ストレス応答ホルモン(コルチゾールなど)の分泌を最適化することで、ストレス耐性を極限まで高める。
「おはよう、Ⅶ。今日も髪色が決まってるね」
部屋を出た先は、何十階と吹き抜ける広大なホールだ。隣室から現れた黒髪のⅪが、まだ眠気をこらえているような表情を見せ私にいつもの挨拶をする。彼は大きく伸び、あくびを噛み殺しながら首を回している。同じ学年の仲間たちが、次々と姿を現し、その顔には厳格な朝の光が映し出されている。
外に出ると、待ち受けるのは完璧に管理された庭園。それは、ただの庭園ではない。計算された生理的負荷を与えるための訓練場だ。朝露に濡れた草花と土の香りは、空気循環システムによって最適化された複合アロマ化合物。肺の奥深くまで浸透する清々しい空気は、血中酸素濃度を最適化し、脳活動を極限まで高めるための調整の結果に過ぎない。私たちは、マジックミラードームに囲まれたこの庭園の外周を、厳格なペースで、そして分単位で管理された心拍数でジョギングする。全智典によれば、早朝の有酸素運動はBDNF(脳由来神経栄養因子)の分泌を極限まで促し、神経可塑性を高めることで、記憶力や学習能力を飛躍的に向上させる。すべては、効率的な駒として最大のパフォーマンスを発揮するための、絶対不可欠な準備なのだ。
運動後、シャワールームでのコールドシャワーは、自律神経系を刺激し、ノルアドレナリンやドーパミンレベルを上げ、その後の活動効率を強制的に引き上げるための生体刺激を与えてくれる。清潔なタオルで体を拭うその瞬間すら、体温調整と皮膚感覚の感覚入力の最適化が図られている。壁に埋め込まれたクローゼットからは、知能機関アリアが選定した今日の最適な制服が自動的に、そして音もなく出現する。それを身につける私たちに、選択の余地などない。なぜなら、一日に使用できる気力——すなわち、神経伝達物質やホルモンが適切なバランスで機能し、脳が最適な状態で活動できる認知資源には限界がある。会社に貢献する主要な思考活動以外はすべて自動化し、認知負荷を最小限に抑えることで、業務中に経済合理的に高いパフォーマンスを継続的に出すことができるからだ。
部屋に戻ると、机の上には完璧な栄養バランスの朝食が、木製食器に盛られて運ばれてくる。彩り豊かな野菜サラダ、完璧な半熟の目玉焼き、香ばしい全粒粉のパン、濃厚な無糖ヨーグルトに散りばめられた宝石のようなベリーなど、すべてがそれぞれの身体の体質、活動量に合わせて個別に計算され尽くした栄養素とカロリーだ。そして、通常の食事では得られない特別調合のアミノ酸ピル。食事中、ホログラフィックディスプレイ越しに、今日の授業の予習、昨晩の世界経済の動向、そして週末の緊急業務予定が、強制的に共有される。食事が終わると同時に、私たちは感情を排し、会場へと向かった。
私たちの学び舎は、宿舎と一体化した厳格なる最適化のための訓練施設になっている。昇恒中の授業では、経営学、経済学、政治工学、政治戦略、リーダーシップなど、将来一族の巨大企業を「支配」するために必要な知識が、徹底的に、そして高速で伝授される。知能機関の教官ダリアは、私たちの理解度や集中力を脳波とアイトラッキングで鋭く監視し、精密なフィードバックを脳内インプラントを通じて送達することで、次なる目標へと強制的に導く。この肯定的フィードバックは報酬系回路に作用し、ドーパミンを人工的に促し、学習効果を飛躍的に高める。例えるならばそれは学習ではない、効率的な情報インストールと呼ぶべきものだ。
昇恒中は、グループセッションや実践訓練で仲間たちと競い合う。しかし、それは協力ではない。互いのパフォーマンスを最大化させるための最適化された競争に他ならない。個々の成果は、リアルタイムで厳格なアルゴリズムに基づいて評価され、序列化される。
昼食は、広大なダイニングホールで規律正しく摂られるが、芸術品のような料理は、五感を統制し、次の活動への最適なエネルギーチャージと化す。食事作法やエチケットも徹底されるが、それは優雅さのためではない。効率と秩序の中で、政治工学に基づき、最適な「人間性」を形成するための訓練なのだ。
降恒は、経営シミュレーション、マーケット分析、ロボット操作、データ解析といった最先端の専門訓練で、未来のリーダーとして機能するために鍛え上げられる。時折、資本家一族の重鎮たちによる講義や模擬会議が開かれるが、彼らの言葉はただの指針などではない。それは、私たちの思考と行動を特定の方向へ導くための絶対命令であり、熱意をかき立てるのではなく、行動変容を強制的にインストールするものだ。
夕方になると、一日の成果は厳格な数値データとして評価され、教官からのフィードバックは、次の日の行動を最適化するための「指示」として背中につけられたデバイスに記録される。夕食後の自由時間など存在しない。個人端末での交流は、心身を効率的にリフレッシュするための最適化された情報交換であり、娯楽の要素は生理的に排除される。
夜、定時消灯前には、ホログラフィック映像による脳波同期プログラムや、再現された自然音、あるいは特定の周波数帯のヒーリングミュージック、そして精神統一のための強制グループ瞑想セッションが実施され、私たちは深い眠りへと誘導される。良質な睡眠は、記憶の固定化、細胞レベルでの疲労回復、成長ホルモン分泌を促すための生体システム再起動プロセスであり、翌日の「高パフォーマンス遂行に向けた準備」に欠かせない。
そして睡眠カプセルに身を包みながら、私は天井を見上げた。私たちは、厳格な規律の中で効率的に育成され、企業のための「最適な部品」として将来が決定されている。与えられた任務を忠実に遂行し、組織の利益を最大化することこそが、私たちの絶対的な宿命なのだ。
ふと、私は窓の外を見る、いつもの様に星空は規律正しく広がる。(この気象風景もコントロールされている) 明日もまた、一分の隙もないほど計画された一日が始まる。この厳しい生活に悲鳴を上げ、逃避していく仲間もいる。だが、私はこの格式高く、システマチックな生活が、会社のため、社会のため、そして私自身の成長に繋がると確信し、静かに、そして生理的に安定した状態で眠りについた。
*アセンションセルではない企業専用に開発された睡眠カプセル
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