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第17話 決められた人①

 ~数日後~ 昇恒10時15分  

 天気:晴れ      

 場所:エアリアさんのエミュエールハウス


 今日も僕は、エミュエールハウスのダイニングテーブルの上に、ただひたすら突っ伏していた。夏の熱気がまとわりつき、窓の外から響く蝉の声が部屋に満ちる。僕の体は鉛のように重く、ただひたすら怠惰に沈み込んでいた。まるで臓器一つひとつに金属の塊を詰め込まれたように、身動き一つとれない。僕の一部だったリアンが失われたのだ。生命活動の半分を担っていた何かがごっそりと削ぎ落とされ、虚無感と無気力感だけが、胸の奥に重く沈殿している。しばらく僕に発破をかけていたロミやクレアも、見かねたのか諦めたのか、何も言わなくなり、いつもと変わらない日常を送っていた。

 僕という存在を形作っていたもののほとんどが消え去り、久しぶりに、ただそこに在るだけの、無機質な塊になったようだった。それは、まるでリアンの亡骸のように、感情も意思も、何もかも失った、ただの物だ。ここ数日エアリアさんが、以前のように頻繁にリビングに顔を出すようになった。机に突っ伏し、微動だにしない僕を心配してか、時折優しい声で話しかけてくれ、二期に一度に減っていたカウンセリングが、今、再び始まっていた。


「シン、体調はどう?」


 エアリアさんの声が、遠くから聞こえてくるようだ。僕は、机に埋めた顔をわずかに動かし、小さく首を横に振った。


「——普通、です」掠れた声が、口から漏れる。


「そう……。何か今、感じることある?」


「——何も……」


 すると、エアリアさんは音もなく僕の隣に腰掛けた。強張った背中に、温かい手がそっと置かれる。ゆっくりと円を描くように、優しく撫でられる。


「——そうね、何も感じないよね。……でも、少しずつでいいから、話してみて。何か言葉にすることで、楽になることもあるから……」


「……」


 僕は、押し黙ったまま、何も答えることができなかった。言葉にしようとすると、胸の奥底に鉛のような重たい塊が詰まって、呼吸さえ苦しくなる。


「無理に話さなくてもいいのよ。……ただ、あなたは一人じゃないってこと、忘れないで」


 エアリアさんは、そう言って、しばらく僕のそばに寄り添っていてくれた。温かい手のひらが、僕の背中を優しく触れる。その、かすかな温もりさえ、今の僕には、空虚なものに感じられた。


「……シン、もう少し、質問してもいいかしら?」


 沈黙を破って、エアリアさんが静かに問いかける。


「……はい」


「リアンが亡くなって、今、一番、何を感じてる?」


「——分からない……です。何も……感じない……。ただ……」


「ただ?」


「何も感じない……?」


「——はい。……ただ、空っぽ……な、感じで……」


 エアリアさんは、深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと時間をかけて吐き出した。まるで、僕の心の空洞を埋めるかのように。


「——そう。……じゃあ、他に何か、考えていることはある?」


「——考えていること……」


 僕は、重い鉛のような頭を、ゆっくりと持ち上げた。視界が涙や汗で滲み、ぼやけて、エアリアさんの表情がよく見えない。


「——僕は、……一体、何のために……生きているんだろう……って……」


「……」


 エアリアさんは、何も言わず、ただ静かに、僕の言葉を待っていた。


「——ここに来て得たのに、また失ってしまった……。今の僕にはもう……何もないんです……」


「——そうね……」


 僕は朧げながら、心の奥から湧き出る問いに囚われていた。この世にあるべき存在を、いとも簡単に無へと帰してしまう世界の理不尽さ。その深い虚無感と、失われた何かを求める喪失感。その二つを埋め合わせる、ほんの小さな糸口を、僕は探し求めていた。


「——生きてる……意味……って、……何なんですか……?」


 その問いに、エアリアさんはすぐには答えなかった。長い沈黙が、部屋の中に重くのしかかる。そして、静かに、絞り出すように、口を開いた。


「——それは、私にもはっきりとは分からない。でも、自分が今できること、目の前のことをただやる……それしか道は開けないと思うわ」


「……」


 エアリアさんの言葉は、まるで抑揚のない音声のように、僕の心には届かなかった。それは、空虚な空間に吸い込まれていくようだった。その後は僕らの間にただただ、「無」の時間が流れていた。

 しばらく時間が経ち、何かを感じ取ったのか、エアリアさんはステラリンクを確認する。ホログラフィック映像が映し出され、「はーい、どなたですか」といつもの調子で応対した。

 僕は失礼ながら映像を覗き込む。そこには玄関の映像が映っており、誰かが逡巡した様子で佇んでいた。その瞬間、エアリアさんの表情が凍り付く。普段の穏やかな笑顔は消え失せ、代わりに深い緊張が走る。彼女が玄関に向かう足取りは、ひどく重々しかった。しばらく下を向き、何かを深く考え込んだ後、彼女は「ど、どうぞ……」と、まるで呼吸するのさえ辛いかのように、か細く声を絞り出し、ゆっくりと扉を開けた。

 そこに立っていたのは、見るからに疲弊しきった様子の黒髪短髪の女性だった。デニム、白いTシャツ、スニーカー姿の。エアリアさんより年上、三〇代後半だろうか。その彼女の様子に部屋にいた皆が彼女に注目していた。すると、本を読んでいたスレイが、目を見開いた。いつもは冷静な表情を崩さない彼女が、小さく息を呑む。次の瞬間、ゆっくりと、しかし迷いのない足取りで、女性の方へと歩み寄る音が、空間の距離を縮めていった。


「お母さん!」


「スレイ!」


 互いの名を呼び合い、スレイは駆け出し、二人はしっかりと抱き合った。その姿は、長い間離れ離れになっていた親子が、ようやく再会を果たしたかのようだった。重い空気に花が咲くように、暖かい空気が二人を包み込んだ。

 その光景を、僕は机に突っ伏したまま、ぼんやりと、まるで遠い世界の出来事のように眺めていたが全く状況が掴めない。しばらくの抱擁の後、エアリアさんが女性を二階の方向へ促し、「どうぞ、こちらへ」と声をかけた。どうやら、スレイの部屋で話をするつもりらしい。僕に近づいて来たロミとクレアは三人で目を合わせ僕がいつもここに来て泊まる部屋へ移動し、壁に耳をぴったりとつけて聞き耳を立てた。

 微かに聞こえてくる会話から、女性はスレイの母親で、彼女を連れ戻しに来たのだと理解した。スレイの母親と思われる人物が、エアリアさんにスレイの引き渡しを強く迫っている。


「それで、あなたたちだけでどうやって生きていくの……?」


 エアリアさんの詰問するような声が、静かな空間に響く。


「——どうにかして……スレイと一緒に暮らしたいんです……」


 絞り出すような母親の言葉は、懇願する幼子のようだった。それに対し、エアリアさんは毅然とした態度で反論する。スレイがこの家でようやく安らぎを見出し、心身ともに回復に向かっていること、彼女の幸せのためにはエミュエールハウスに留まることが最善であることを、切々と訴える。しかし、話が進むにつれ、乗り越えられない壁があるのか、次第にエアリアさんの声は小さく、途切れ途切れになっていった。僕らは、その重苦しいやり取りを、息を潜め、まるで時間が止まったかのように聞き続けていた。

 その時、ふいに、誰かが僕のすぐそばまで近づいてきた気配がした。次に“つん”と軽く、僕の服の裾が引かれる感触。「何だろう」と顔を向けると、そこには今日、白いワンピース姿のクレアが立っていた。彼女は何かを察したように、僕にそっと手招きをしている。一体何があったのか、僕は身を屈めて彼女に耳を近づけると、クレアは周囲を警戒するように小さく囁いた。


「シン、実はスレイちゃんはね……」


 クレアが話してくれたことは、静かに、しかし抗いようのない力で、僕の胸に深く突き刺さり、思考の全てを瞬時に凍りつかせた。


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日にちが開いた場合も大体0時か20時頃に更新します。


また

https://kakuyomu.jp/works/16818622174814516832 カクヨミもよろしくお願いします。

@jyun_verse 積極的に発言はしませんがXも拡散よろしくお願いします。

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