第1話 暗雲の中で①
D.C.2255年 4期7日 昇恒9時00分
天気:曇り
場所:東アメリア高等士官学校正面玄関
生ぬるい液体が僕のリンパ節を浸している。見上げた先には、底なしの絶望が広がっていた。いや、結果が出る前から、無意識のうちに心のどこかで分かっていたのかもしれない。あの日、あの時の、胸騒ぎにも似た異様な感覚が、今、確かな形となって全身を打ちのめす。
そう、僕は士官学校の試験に落ちた……。
アメリア軍は東西南北の士官学校生、国立アメリア連邦防衛大学(略称: AFDU)に進学する人を対象に毎年の三期下旬にキャリア組の試験を行う。この試験に合格すると、大学入学時から少尉の階級が与えられ、これにより、キャリア組の生徒たちは最終的には中将、大将、提督という階級を目指して突き進んでいくことが出来る。そんな試験に僕は落ちたのだ。
さきほどまで僕は合格発表の電子掲示板の前で、自分の受験番号を探していた。取り組んできた過去問の出来も良かったし、今までの模試の結果も悪くなかった。周りの友人たちからも「お前なら大丈夫」と言われていた。だから、掲示板を見るまでは、合格を疑っていなかった。ただ、これは番号を確認するだけの、形式的な行為だと思っていた。少しの胸騒ぎを感じながらも……。
僕は何十回、何百回と目を凝らして、電子掲示板全体を隈なく見回した。上から下へ、右から左へ、斜めにも何度も何度も見た。それでも、どこにも、僕の番号はなかった。永遠の時間が経過した。ふと意識が途切れると、他の受験生たちの歓声が、否応なく耳に飛び込んできた。
「やったー」「マジでよくやったな、俺たち!」
「でも、この学年、ほんと変な奴ばっかだったよな」
「この三年間、色々あったもんな……」
「ああ、あったあった。その子途中で一人辞めたんだろ?」
「そうそう。確か、あいつが一番成績良かった時期あったよな?」
「そうだったか? あと、今回の試験、この前の定期試験のトップだった子来てなかったらしいぞ」
「え、マジ?こんな時代に 試験すっぽかすとか、ありえないんだけど」
「何か個人的な事情があったんじゃないか?まあ 知らんけど」
「ここの軍に入っておけば人生安泰なのに、勿体ない話だよな」
「まあ、人生いろいろってことだろ」
「そうだよな、僕らは僕らで次のステージでも頑張ろうぜ! 合格したんだ、これから祝賀会があるから楽しまないと!」
友達と話を弾ませる者、喜びを爆発させる者、抱き合い泣く者、フレモ(スマートフォンの進化版ウェアラブル端末)で誰かに報告する者。その燦然とした光景が、まるでスローモーションのように、僕の目の前をゆっくりと浮遊していく。遠くでは、落胆の声も聞こえた。しかし、それらの声は、まるで別世界の出来事のように、僕には何も聞こえない。ただ、四期の冷たい風が吹き抜け、電子掲示板に表示されている白地に黒の文字がただの意味のない数字の羅列に見えた。
「番号がない」——その事実が、じわじわと、しかし確実に、まるで静かに進行する病のように僕の全身を蝕んでいく。ついに頭の中は真っ白に染まった。唾液さえ苦い。これまで費やしてきた時間も努力も、全てが無価値だったかのように感じられた。全てが揺らぎ、ふらつき、立っているのがやっとだった。まるで、自分が立っていた地面そのものが音を立てて崩れ落ちていくかのように、これまで信じて疑わなかった自分の力、自信、そしてわずかな誇りまでもが、がらがらと乾いた音を立てて崩壊していく。あの時……試験本番後、解答用紙と問題用紙はすぐに回収されてしまい、見直す機会はなかった。
——もしかしたら、問題のあそこの項目のマークの部分をずらしてしまったのか?記述のあの部分か?いや、それよりも……試験本番中に感じた、あの奇妙な違和感が原因だったんじゃないのか……。
さまざまな疑念が頭をよぎる。今となっては全てが遅い後悔と、どうしようもない自責の念となって、とめどなく心に溢れ出してくる。あれほど準備してきたからこそ、この結果がどうしても信じられない。自分が、こんなにも脆く、そして無力な存在だったのかと、初めて知った。
僕は誰の目にも触れぬよう、自分の存在を隠すように門を出て寮へと戻ろうとしていた。進む足取りは重く、力が入らない。その時、背後から聞き慣れた明るい声が僕を引き止めた。
「おーい、待てよ!」
一瞥すると、肩越しに彼が見えた。落ち着いた暖赤色の髪、白皙の肌、整った楕円形の顔立ち。はっきりとした輪郭を持つ、背が高く精悍な青年。ジャンだ。彼は士官学校の試験に向けて、共に机を並べてきた勉強仲間の一人だ。そんな彼は手を振りながら、こちらへにこやかな表情で向かって走ってくる。だが、僕の沈んだ表情をすぐに察したのだろう。彼は少し顔を曇らせ、走る速度を緩め、歩いて近づいてきた。僕は彼を無視するように、わざと足早に歩き出す。それに気づいたジャンも、すぐに早足で僕との距離を縮めてくる。それはまるで無言の追いかけっこのようになり、しばらく走り歩きし続けた。この光景は周りの人間から見れば、さぞ奇妙だろう。
——埒が明かない……。
ついに僕は諦め、足を止めた。するとジャンがすぐに追いつき、彼の手が僕の肩に軽く触れた。
「待てよ、みんながお前のこと、待ってるぞ。顔だけでも、少し……」
「みんな」とは、この厳しい試験を突破するために、互いに励まし合い、知識を共有してきた他の三人の勉強仲間のことだ。ジャンは何か言葉を続けようとしたが、僕が創り出した張り詰めた心境を察したのか、言葉を飲み込んだようだった。
僕はジャンの遠慮がちな口調から、何となく状況を理解することができた。きっと、彼らは試験に合格しているのだろう。試験勉強は団体戦だとよく言われる。けれど、本番の解答画面に協力して書き込むことはできない。結局、結果に対して責任を負うのは、自分一人なのだ。その冷徹な事実を、僕は嫌というほど知っていた。だからこそ、商売のために美辞麗句を並べる受験業界のあの謳い文句が、心底嫌いだった。今、その言葉の重みが、鉛のように僕の胸にのしかかっていた。
「あれは……今日の為にみんなで協力した、ただそれだけのものでしょ! 僕はその今日の結果いや、今後の人生も報われない。ただそれだけ、もう僕にかまわないでくれる……」
僕は苛立ちを抑えきれず、振り返り、少しばかり厳しい言葉をジャンにぶつけてしまった。
「そうなのか……ごめん。シンのこと、もう少し気にかけて声をかけるべきだった……。本当は、去年の年末、シンの誕生日を試験前だからってやらなかっただろう? だから、その分も合わせて祝おうと思ったんだ……本当に、悪かった……」
ジャンは懸命に言葉を選ぼうとしていたが、上手く言葉が続かない。彼の戸惑う様子を尻目に、僕は足早に自分の寮へと引き返した。歩きながら、先ほどの言葉は少し言い過ぎたかもしれないと反省の念も湧いたが、それ以上に、人生を賭けて臨んだ試験に不合格だったという事実が、粘液のようにまとわりついて頭から離れなかった。
ふと空を見上げる。フローカー(浮遊型常用自動車)がハエのように飛び交い、山々をも超える巨大なビル群が、僕を威圧するように見下ろしていた。それは、暗い未知への入り口のようにも見えた。
寮に着いて自室のドアに近づくと、ポケットに入っていたフレモが認証され、ドアが自動で開く。すると、待っていましたとばかりに暖かくまとわりつくような暖気が僕の体を覆う。数時間前までは何とも思わなかった部屋が、今はまるで特別な、僕の全てを許してくれる聖域のような場所に感じられた。床に積まれた参考書、いつも勉強で使っていた、昇降式の古びた机、覚えるべき単語を図にして張っていたトイレ、いつも学校から疲れてきて寝落ちしてしまうお風呂、そして数カ月間ほとんど使わなかったベッド……。そのどれもがとても懐かしいものに感じられた。ドアを閉め、背を預けると、安堵とも落胆ともつかない、複雑な感情が胸に押し寄せる。部屋の隅に置かれたままの、試験勉強に使っていた参考書やノートが、僕を嘲笑うかのように静かに積まれていた。しばらく経って、それらを避けるように、久しぶりにベッドに着服したまま倒れ込んだ。天井を見上げると、照明の鋭く白い光が目に突き刺さる。目を閉じても、合格発表の掲示板の光景が、網膜の裏にこべりついたかのように何度も脳裏に蘇る。
——何で……何で……あの時……まだ努力が足りなかったのか……。
しかし、もう遅い。自分の番号がないという冷たく重い現実が、網膜の裏に張り付いて離れない。目に埃が入ると自然と涙が溢れるように、気づかぬうちに僕の目から熱いものがあふれてくるのを感じていた。
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