第13話 迷えるロミ③
~秋~
肌寒さを感じるような季節になった二学期末試験前の昼休み。皆が弁当を広げ、和やかな時間を過ごす中、僕はフレモを展開し画面に表示される資料集と問題集に挟まれる。そして片手でサンドイッチを頬張りながら勉強に没頭していた。そんな中、隣の教室から何やら騒がしい声が聞こえてきた。好奇心に駆られた生徒たちが、隣の教室へと押し寄せていく。僕もその流れに乗り、群衆をかき分け、ドアの隙間から中の様子を伺った。
そこに広がっていたのは、以前公園で見た光景と酷似した、目を覆いたくなるような惨状だった。ボロボロの制服を着た以前の公園の青年が、ヨブ、ブラド、ガイの三人に囲まれ、バケツの前に跪かされている。
「お前、期限はとっくに過ぎてるんだよ! さっさと金返せよ、このクズが!」
ヨブの怒号が、教室中に響き渡る。ロン毛で天然パーマの青年は、顔面蒼白で、懇願するように頭を下げ、震える声で訴える。
「ごめん……本当にごめん! あと、ほんの数週間だけ待ってくれ! 必ず数倍にして返すから! 頼む、こっちは命がかかってるんだ……!」
しかし、その悲痛な叫びは、ヨブの冷酷な心には届かない。
「そんな泣き言、聞き飽きたんだよ! お前はもう借りてから四期も経ってんだぞ。利子も倍に膨れ上がってんだよ! もう我慢の限界だ! そろそろ、その命で償ってもらうしかねぇな!」
——命で……? まさか、そんなことが許されるのか?
僕の心臓が、嫌な音を立てて高鳴る。しかし、その不安を打ち消す間もなく、ブラドとガイが、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら、水がなみなみと入ったバケツを青年の前に置き、両側から青年の腕を掴み、逃げられないように押さえつけた。ヨブは、青年の伸びた髪を掴み上げると、容赦なくその顔をバケツの中に押し込んだ。
こぽこぽと、小さく虚しい泡が、バケツの水面から立ち上る。青年は必死に息を止めようとするが、数分も水中で息を続けることなど、できるはずもない。やがて、大きな泡がボコッと音を立てて弾け、それを合図にしたかのように、青年の全身が激しく痙攣し始めた。それはまるで、肉食動物に食べられ命の炎が消え入りそうな小動物が、この世界の残酷さに直面し、もがき苦しむ姿のようだった。
教室中に、生徒たちの悲鳴やどよめきが響き渡る。しかし、誰一人として、ヨブたちを止めようとはしない。もし彼らに逆らえば、次は自分が同じ目に遭うかもしれない。それどころか、資産家であるヨブの父親の力によって、家族にまで危害が及ぶ可能性だってある。数人の生徒が、この状況を打破しようと、教師を呼びに行こうとするが、他の生徒たちが、必死にそれを引き留める。教師でさえ、資本家の影響力には逆らえないのだ。僕たちは、ただ固唾を呑んで、この残酷な私刑を見守ることしかできなかった。しばらくしてヨブは、一度バケツから青年の顔を引き上げ、歪んだ笑みを浮かべながら、息も絶え絶えの青年に問いかける。
「ねぇ?い・つ・か・え・す・の・?」
「——……ごめ、……来週……」
「今すぐね!」
ヨブは、青年の返答を聞き終える前に、再びその顔をバケツの中に沈め込んた。しばらくして、青年は再び痙攣し始めた。だが、それは先程のような、生命力に満ち溢れた痙攣ではない。まるで、今にも消え入りそうな、弱々しい、命の灯火が揺らめくような、死に際の小魚だった。
僕は、その光景を目の当たりにし、この世界の残酷さを、まざまざと見せつけられた気がした。学校という、本来ならば教師が生徒を導くべき場所で、目に見えない巨大な力が、秩序を歪めている。もし教師が積極的に介入すれば、不当な評価を受け、社会から抹殺されるかもしれない。金という絶対的な指標が、人の価値、物の価値、全てを決定づけてしまう。こんな世界に生まれてしまったことを、僕はどう受け止めればいいのか? そして、この理不尽な犠牲を目の前にして、僕に何ができるというのか? 結局、僕は、社会という巨大な枠組みが生み出した、この不条理な現象を、ただ傍観することしかできなかった。そうする以外に、『無』へと帰する以外の選択肢などないのだから。
ヨブたちの常軌を逸した行為は、執拗に繰り返された。
「「うぇ~~~~」」
「「ギャー!」」
やがて、青年の体から排泄物が漏れ出したのだろうか、ズボンは茶黒く汚れ、周囲にはツンと鼻を突くアンモニア臭が漂い始めた。その凄惨な光景と、耐え難い悪臭に、叫び散らかす者、数人が嘔吐を堪えきれずトイレへ駆け込み、嗚咽を漏らす者も現れた。ヨブは彼の醜態に顔をしかめた。
「ちっ」
ヨブは忌々し気に舌打ちを一つ。
「いくぞ!」ようやく満足したのか、ヨブは使い古した雑巾でも捨てるかのように、青年の体に茶色のバケツの水を浴びせ、嘲笑とともに、その場を立ち去って行った。
教室には、重い沈黙が張り付いていた。
青年は下半身を茶色に染め、しばらくその場に倒れ込んでいた。誰もが顔を見合わせ、助けるべきか、授業はどうなるのかと、ただ躊躇うばかりだった。
その時、僕の目の前で、一人の黒髪の痩せた青年が倒れた彼に駆け寄った。弱々しいながらも、必死に抱き起こそうとする。
「さあ、早く保健室に行こう、先生が来ると迷惑だし……。でも……本当にごめんね……。何もしてあげられなくて……力がなくて……ごめんね……ううっ……」
うずくまりながら、祈るように声をかけたあと保健室へ向けて運ぼうと。ゆっくりとゆっくりと茶髪の彼を肩にかけ進む。だが彼だけでは力不足だったのだろう教室の出口に差し掛かった時、黒髪の青年はよろめき、倒れ込んでしまった。その拍子に、天パのロン毛が揺れ、彼の顔がこちらを向いた。
——!
目が合った。
色彩を失い、生気を吸い取られたような片方の瞳。そこには、世界への絶望と拭い去れない憎悪が渦巻き、底なしの闇が広がっていた。その瞳は、まるで焼き印のように僕の記憶に深く、鮮烈に刻み込まれ、根源的な恐怖が全身を駆け巡り、体が粟立った。
彼は再び黒髪の青年に支えられ、ゆっくりと保健室の方へ歩き出した。二人の後ろ姿は、ひどく頼りなく、今にも消え入りそうに見えた。その姿を見送りながら、僕は言葉にできない複雑な感情に胸を締め付けられていた。胸を支配したのは、根源的な恐怖。そして、嫌悪と、拭いようのない罪悪感だった。それらが絡み合い、重苦しい塊となって、僕の心にのしかかっていた。
その後、風の噂で、彼が冬に学校を辞めたと耳にした。それ以上、僕は彼のことを知る由もなかった。
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