第9話 突然の赴任!④
シンはエアリアさんの授業を見学していた。授業が終わるとエアリアさんは唐突にシンの元に近づいて…。
僕はエアリアさんの授業を最後まで聞き、参考に出来ることはないかとメモを取っていた。エアリアさんの授業は子供たちの興味を引き付けるような内容で、様々な工夫を凝らし、教養を身につけさせると同時に、さらなる学びへの意欲を掻き立てる様なものだった。
そう僕はそのメモを参考にどう授業をしようかと思索しているとエアリアさんが、前の電子黒板の前から僕の方に近づいてきて、頼みごとをしてきた。
「ごめん、私、家に弁当を置いてきてしまったから、取りに行ってくれない?車の鍵を渡すからお願いね!」
僕は唐突に頼みごとをされ少々驚いたが、「はい、わかりました」と素直に答え、急いでエアリアさんの大きな車に乗り込み、エミュエールハウスへと向かった。
盆地の市街地を抜けるにつれ、車窓の景色はコンクリートから緑へと移り変わっていく。道なりに進むと、木々はだんだんと密度を増し、やがて深い森へと姿を変えた。しばらく走ると、木々の合間から空が覗き、光が差し込む。そこにエアリアさんのエミュエールハウスがひっそりと佇んでいた。僕は玄関前に車を止め、急ぎ足で家の中へと向かう。
玄関のドアを開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。室内に電気はついておらず、隙間からこぼれる昼の陽射しだけが頼りない光源となり、薄暗がりの中、木の匂いが静かに満ちている。僕は、玄関を上がってすぐ右側にある台所の上を確認した。エアリアさんの分の弁当が一つだけ、ぽつんと置かれている。それを急いで手に取り、ふとリビングへと視線を戻した。
そこで目に飛び込んできたのは、デニムとTシャツ姿のスレイだった。彼女はいつも食事をする机に向かい、青竹色のショートカットを目の前に揺らしながら、黙々とペンを走らせている。その横顔は、何かを射抜かんばかりの真剣な眼差し。僕は思わず息を呑み、引き込まれるようにその様子に見入ってしまった。一体何を書いているのだろうと、好奇心に駆られ、僕はそっと彼女の手元を覗き込んだ。
——!
すると、そこには、あの光景が広がっていた。僕が昔、ケンの家で見たのと同じ、高等数学でも明らかに使うことのない、記号が羅列された問題。スレイはそれを、まるで何かに取り憑かれたように、ひたすらに解き続けている。その瞬間、僕の頭の中に直接映像を埋め込まれたように入り込んだのは、勉強だけがこの世界で生きる術だと信じて疑わなかった小学生時代の自分自身の姿。そして、言いようのないざわめきが胸に広がった。彼女の姿は、あの頃の自分と重なって見えたのだ。
僕はスレイが学校に来ない理由が、今になってようやく理解できた気がした。これだけのレベルの問題を解くことができる彼女にとって、エアリアさんの授業は、きっと退屈で仕方がないのだろう。野暮な考えだがさすがに富裕層の元に生まれ、今は捨てられた身とはいえ、過酷な英才教育を受け、厳しい競争を勝ち抜いてきた彼女だ。その学力は、想像をはるかに超えている。しかし、その表情は、何かに夢中になっているときの輝きとは程遠い。むしろその目は、獲物を狙う獣のように鋭く、僕はさすがに心配になり、思わず声をかけずにはいられなかった。
「——スレイ、大丈夫か?」
心配と、そしてある種の既視感から、僕は優しく声をかけた。しかし、スレイは、まるで氷のような冷たい視線を僕に向け、静かに、しかし、はっきりとこう言う。
「静かにしてくれる?」
「でも……スレイ、その目、大丈夫?」
「何、文句ある?」
「でも……」
僕は彼女の冷たい一言に言葉が詰まり彼女は言葉を続ける。
「私にはこれしか生きる価値がないの。女としての価値も、何もかも失った私にはもう、これしかないのよ!シンにはこの気持ちが分かるの?」
「——でも、まだ子供なんだし……まだ……」僕は言葉を絞り出そうとするが次の言葉が出てこない
「でも、シンは自分から逃げたんでしょ!越えなければいけない壁から現実から逃げて今があるんでしょ?私はそんな風になりたくないだから、今、努力しているの邪魔しないでくれる!」
その強い言葉は、不意打ちのように僕の胸を抉った。
「でも、そのメンタルのままでは……」
そう言いかけたが、続く言葉が喉の奥で突っかかり、出てこない。彼女の、獲物を狙う獣のように鋭い目。それは、勉強だけが生きる術だと信じて疑わなかった、振り返るとあの頃の自分自身の目と、あまりにも似すぎていた。ケンとは違い、何かに夢中になって胸を高鳴らせているのではない。彼女の目は、まるで何か、そう、自分自身の不安や苦悩を、目の前の問題にぶつけ、押し殺そうとしているかのように見えた。スレイの目と、その言葉は、僕から反論する気力すら奪い去り、深い傷跡のように心に刻まれた。
——僕は、自分から逃げたんだ……。
社会のレールから外れ、自分は今ここにいる。その事実をスレイに改めて突きつけられ、言いようのない苦しみがふつふつと込み上げてくる。人生の真理を突くような彼女の言葉に、僕は返す言葉を失い、ただ黙ってその勉強風景を見つめるしかなかった。
どれくらいそうしていただろうか。ふと、自分がエアリアさんの弁当を取りに来たことを思い出し、我に返った。僕は急いで車に乗り込み、アリエス小学校へ戻らなければならない。心の重い感情を抱きつつも僕は急いで玄関を出て、前に停めてある車に乗った。
昼休憩が終わるチャイムが、哀愁深く廊下に響いた。僕はエアリアさんに弁当を渡しアリエス小学校の職員室、その片隅に用意された自分の席に戻り、資料集を開く。しかし、視線は紙面の上を滑るばかりで、頭の中には入ってこない。どんな授業をすれば、子どもたちの心に響くのか。その答えを探すふりをしながら、僕は先ほどのエミュエールハウスでの出来事を反芻していた。
スレイのこと、そして彼女の言葉が、僕の心に重くのしかかっていた。彼女の放った「シンは自分から逃げたから、今があるんでしょ?」という言葉。それは図星だった。軽々しく意見を言える立場でないことは、僕が一番よくわかっている。それでも、何か彼女のためにできることはないだろうか。あの、獲物を狙う獣のような鋭い目つきを、ほんの少しでも和らげることはできないだろうか。
僕は、半ば自問自答するように、自分の持ちうる限りの選択肢を頭の中から絞り出していく。
——僕には、何がある?何ができる?
ふと、昨日のクレアとの会話が脳裏をよぎった。そうだ、僕には絵があるじゃないか。クレアに諭され、見失いかけていた自分自身を思い出させてくれた、あの絵が。彼女が一生懸命に、しかし、苦悶の表情で勉強に打ち込む姿。あの姿を、少しでも笑顔に変えられたら……。僕は、昨日買ったばかりで、偶然にも今日持ってきていたスケッチブックを、衝動的に開いた。そして、真っ白なページに、笑顔で勉強しているスレイの姿を思い浮かべ一心不乱にペンを動かした。それしか僕に出来ることがなかったから。
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