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第8話 クレアの助言④

 放課後、授業終了のチャイムが校舎に鳴り響くと、僕はケンの腕に引かれるようにして歩き出した。僕ら二人が辿り着いたのは、少しばかり年季の入った木造二階建ての、ケンの家の前だった。ふと視線を横に移すと、隣には庭が広がっている。しかし、手入れがあまりされていないのだろう、草が勢いよく地面を覆い隠し、風が吹くたびにざわめき、かすかな土の匂いが鼻をくすぐった。


「ただいま」


 ケンが声を上げ、木製の玄関扉を開けると、古めかしいギィという軋む音が、家の歴史を物語るようだった。一歩足を踏み入れると、外の明るさとは対照的に、廊下はひんやりとした薄暗がりに包まれた。古い木造家屋特有の、どこか懐かしく、ほんのりと湿ったような木の香りが鼻腔を掠める。すると奥の方からは、明るく朗らかなケンのお母さんらしき声が漂ってきた。


「おかえり」


 僕たちが廊下を歩き、古い木の階段に足をかけようとした時だった。


「あら、お客さん?」と声が聞こえ、二人が振り返ると、エプロン姿のケンの母親が、キッチンの窓から差し込む夕焼けの光を浴びながら台所から顔を出した。その笑顔は、薄暗い廊下をもぱっと明るく照らした。


「ああ、シンだよ。僕の『ワクワク』が知りたくて来たんだ。少しだけなら大丈夫?」


「ケンのお友達なんて珍しいじゃない? 入ってもいいわよ」



 ケンはお母さんに笑顔で答える。その笑顔は、お母さんへの安心の贈り物のように、優しかった。


 母親は僕に軽く会釈し、僕もぺこりと頭を下げた。


「ありがとう、お母さん」


 ケンが返事をすると、僕はケンの家を見上げた。そして、ケンの後について二階へと上がった。


 二階に上がると、ケンの部屋はすぐ左隣にあった。ケンがドアのボタンを押すと、ウィーンという音とともにドアが横にスライドする。部屋の中は、様々な本や宇宙全体の星の場所が分かるホログラフィック地図、宇宙儀など、ありとあらゆる宇宙グッズで溢れていたが、彼の性格を反映させているのか綺麗に整頓されていた。


 僕は思わず手に取った本を覗き込んだ。中には「ψ」や「D」など意味不明な記号の羅列が並んでいて、思わず吹き出しそうになり本を閉じた。代わりにもっと興味がわきそうな、他の読みやすそうな本を探していると、部屋の隅から二つの視線を感じた。ふいに見ると、男の子と女の子がドアの両側から顔を覗かせ、僕を興味深そうに見ている。


「ああ、この二人は僕の弟と妹のユウとサラだよ。二人ともシンに挨拶しなさい」


 ケンが声をかけると、二人は恥ずかしそうに顔を隠して何処かへ行ってしまった。


「まあいいや、それよりもこれを見てみなよ」 ケンが見せてくれたのは、さっきの「ψ」が載った本だった。僕が「これは何を表すものなんだろう?」そう考えていると、ケンが言った。


「これは昔、科学者が世界の根源的な小さなものを表すために使っていた文字だったんだ。確か……波動関数とかフィールドって言われていたんだ」


「ハドウカンスウ……フィールド……?それで、これはどういう意味なの?」


 僕の疑問を解消するように、ケンは解説した。


「世界で一番小さいものを量子っていうんだけれど、これはね、世界で最も小さいものは波と粒で表せるってことなんだよ」


「え、世界で一番小さいものが波と粒? 意味が分からないよ」


  僕の頭の中は混乱していた。一方のケンは僕の困惑ぶりを見てか少し笑っているようだった。


「そりゃそうさ。人間の直感では、二つの性質を言葉や図で表すことは難しいんだ。だから、仕方なく人間は関数「ψ」として表現したんだ。ただ僕たちにははっきりとはわからない他の例え方をすれば何となく理解できるよ。う~ん、イメージするとしたら、雲をイメージすればいいんだ」


「雲、?」 僕は不思議に思い聞き返した。


「そう。雲って、遠くから見るとぼんやりとした塊に見えるよね。これが波の性質。でも、近づいてよく見ると、水蒸気の粒が集まっているのがわかる。これが粒の性質。量子も同じで、わかりやすく例えると見る角度や状況によって、波だったり粒だったりするんだ」


「な、なるほど……」 僕は少し理解できたような気がしたが、まだ完全に納得したわけではなかった。するとケンは興奮したように続ける。


「僕が本当に教えたいことは別にあってね、量子には他にも不思議な性質があって……量子もつれっていうのを知ってる?」


「量子もつれ? 何それ?」僕は初めて聞く言葉に首を傾げた。


「簡単に言うとね、二つの量子が特別な繋がりを持つことなんだ。片方の量子の状態が変わると、どんなに離れていても、もう片方の量子も瞬時に変わるんだよ。まるでテレパシーみたいだろ?」


「え! そんなことありえるの?」


「これは本当なんだ。大昔の人もエリオス様から教えられて、最初は『気味が悪い』って言っていたらしんだけどね」


 ケンは楽しそうに笑った。


「気味が悪い? なんで?」僕はますます混乱してきた。


「昔の人は、エリオス様に教えられる前は、局所実在論っていう考え方を信じていたんだ。簡単に言うと、遠く離れた二つの物体は、お互いに直接影響し合わないってこと。でも、量子もつれは、この考え方に矛盾するんだよ」


「矛盾する? どういうこと?」僕はケンに矢継ぎ早に質問した。


「例えば、二つの量子をもつれさせて、片方をアメリア連邦国の首都ハイネセンに、もう片方をレガリス共和国家の首都レガリアに置くとしよう。この時、ハイネセンの量子の状態を変化させると、どんなに離れていても、レガリアの量子も瞬時に変化する。これは、光よりも速く情報が伝わったことになるんだ」


「なるほど……」


 僕は少し理解できたような気がした。量子もつれは、常識では考えられないような、不思議な現象なんだということを。


「つまり、もしかしたら僕らは、宇宙の果てまで離れていても、考えていることを一瞬で理解し合える可能性があるんだ。もしかしたら、その先だって……!」ケンは興奮気味に言った。


 ——!


 すると突然、ケンが僕の掌を握り、まっすぐ僕の目を見つめてきた。僕は彼の突然の色物めいた行動に一瞬、心臓がは跳ね上がった。


「今、僕が考えていること、わかる?」そう彼が言うので、僕は少し考えてから、当てずっぽうに言ってみた。「量子って最高に面白いな……って考えてる?」するとケンは言った。


「違うよ。今、僕はアンパンが食べたいと思っていたんだ」


 ——!


 僕はケンの突拍子もない考えに少し呆気に取られたが、ケンはすぐに真剣な表情に戻って続けた。


「まあ、真面目な話をするよ。僕らは今、これだけ近くにいて、手を合わせさえしているのに、君と僕は完全には理解し合えていないんだ。なんでだかわかるかい?」


「わからない」僕は彼が何を言っているのか、ますます理解できなくなっていた。


「なぜなら、僕と君との間には、見えないけれど確かに存在する壁があるからなんだよ」


「どんな壁だって……?こんなに近くにいるじゃないか。壁なんてどこにも見当たらないけど……」ますます僕の脳内の混乱は増した。するとケンは諭すように言った。


「僕らには、生まれた時代、生まれた日、生まれた場所、生まれた環境、生まれた時の容姿、そして家柄といった、目に見えないけれど大きな壁があるんだ。そして、たとえこうして手を触れ合わせたとしても、その間には数えきれないほどの細胞や分子が存在する。これだけ多くの壁があるから、僕らは完全には分かり合えないんだ。今の時代。人と人との間にさらに多くの情報や感情の壁が生まれ、分断が進んでいるように感じる。だから僕はいつか科学者になって、この壁を取り除き、誰もが真の意味で理解し合えるような技術を作りたいんだ。そして、それと共に色々なことを知りたい。宇宙の果てとか……もしかしたら幽霊だって、天国だって、本当に存在するかもしれないし、僕が発見できるかもしれない……」


 ——テンゴクね……。


 さすがにそんなものは無いだろうと思いつつも、僕は彼の話を聞く。


「——そして、いつかエリオス賞を受賞することが、僕の夢なんだ。これほどワクワクすることって、他にないと思わないかい?」


 そう言ってケンは強く握り閉めていた僕の手をゆっくりと手を離した。


 僕はケンの壮大すぎる夢に圧倒され、今まで自分が考えていたことが、とても小さく、まるで滑稽なもののように思えて愕然とした。そんな僕の様子を見てか、彼は優しく微笑む。


「大丈夫だよ、君には絵があるじゃないか」


 ——僕には絵がある……?


「君は自分が思い描いている世界を、その手で絵にする“カタチ”にすればいいんだよ。その夢は、僕の夢よりももっと壮大で、ワクワクするようなものじゃないか!」   ケンの言葉に、僕は心の奥底でくすぶっていたプラズマが勢いを増し、大きな炎となって燃え上がった。そんな感覚を覚えた。


 ——僕には……絵があるんじゃないか……。


「僕は君の描く絵をもっと見たいんだ。だから明日から放課後、僕の家にまた来て、絵を描いて見せてくれないか?」


 ケンが僕にした提案で、僕の心は不思議と温かい光で満たされた。こんな気持ちになったのは初めてで、僕は抑えきれない喜びに突き動かされた。


「ありがとう……!ケン!ちょっと 僕、描いてみるよ!」


 ついに僕は溢れる情動を抑えられなくなり、思わずケンの部屋を飛び出し、家へと走り出した。


「あ、ちょっと! シン! どこ行くの」


 ケンから引き留めの言葉が聞こえるがこの時の僕はそんなことお構いなしだった。


 ——僕には……ある、絵がある!


 走る。走る。走る。


 進むたびに受ける風はとても心地よく、僕の体を優しく包み込んでいた。




 次の日の放課後から、僕は学校の棚から絵の具セットを取り出し、逸る気持ちを抑えながらケンの家へと向かった。家に着くと、ケンはすでに庭で待っていて、恒星のような笑顔で僕を迎えてくれた。彼は日当たりの良い場所に僕を案内し、「ここで描こう」と促した。言われた通りに絵の具セットを広げ、ケンが差し出してくれた画用紙に向き合った。 するとある疑問が湧いてくる。


 ——それで僕は、何を描けばいいんだろう?


 そう思いながらケンに尋ねると、彼は家の縁側に腰掛けながら、少し考えた後、ふと提案した。


「うーん、じゃあ僕はここで読書をしているから、その姿を描いてほしいんだ」


 僕は画用紙を画板に固定し、水を含ませた筆に絵の具をそっと乗せ、画用紙の上を滑らせ始めた。人物画を描くのは、保育園以来のことで、上手く描けるか少々不安はあった。しかし、描き始めると僕の筆はまるで誰かに導かれるように、驚くほどスムーズに動き出した。すると自然と、目の前の光景も落ち着いて見ることが出来るようになった。特に、ケンが読書に没頭している時の、穏やかで知的な表情は、僕の心を強く惹きつけた。頭や胸の奥に感じていた、言葉にできない感情が体全体に広がるように感じながら、筆を走らせた。その時、僕とケンを包む空気は、まるで温かい陽だまりのようだった。


 しばらくして、絵が完成した。ケンに見せると、彼は目を輝かせ、満面の笑みで僕を見つめた。


「こんなに素晴らしい絵を描いてくれて、本当にありがとう、シン!僕の宝物にするよ」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の心は温かい多幸感で満たされた。


「明日もケンの家に来て、絵を描いてもいいかな?」そう尋ねると、ケンは嬉しそうに頷き、


「もちろん、いいよ」


 そう答えてくれたのだ。


 こうして僕たちは、小学校を卒業するまでの間、毎日ではなかったけれど、時間のある放課後はいつもケンの家で絵を描いて過ごした。しかし、そんな穏やかで温かい時間は長くは続かなかった。僕たちは中学生になると別々の道を歩むことになり、僕は再び社会のレールに戻るため、競争に勝ち抜くために、再び勉強に邁進していくことになった。

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日にちが開いた場合も大体0時か20時頃に更新します。


また

https://kakuyomu.jp/works/16818622174814516832 カクヨミもよろしくお願いします。

@jyun_verse 積極的に発言はしませんがXも拡散よろしくお願いします。

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