第5話 空から堕ちた先で①
~2期後 12期中旬~ 降恒7時40分
天気:雨
場所:レガリス共和国家イオニア県郊外
闇の中、降りしきる淫雨が冷たく僕の身体を打つ。まるで雨水が僕の形を溶かし、この世界からゆっくりと消し去ろうとしているかのようだった。
その時だった、深い暗闇の奥から、まるで希望の光のように二つの強烈な光芒が近づいてくるのが見えた。雨と闇を切り裂き、無残な残骸と化した僕を探るように、慎重に光が照射される。やがて、重々しい質量を伴う車体が水たまりを踏みしめる音を立てながら静かに停止した。それと同時に機械的な静けさの中で、小型のコンシェルジュ・ドローンが水面を低空飛行しながら接近してきた。すると降り注いでいた雨粒の感覚が唐突に消え、代わりに、身体の下に広がる水たまりの容赦ない冷たさだけが、意識の隅に鮮明に残った。その瞬間だった、まるで優しい囁きのような、暖かく、乾いた僕の胸をじんわりと膨らませるような、安堵に満ちた女性の声が聞こえた。
「おはよう」
——おはよう……? 今は一体……? そして、この声の主は……?
意識が混濁する中、僕はかろうじてそう思った。
「大丈夫? もう少しだけ、ここで待っていてね」
女性はそう言うと、なぜかアメリア軍の隊員しか所持していないはずのステラリンク。それと酷似した、デバイスを優しく僕の左手首のステラリンクに近づけた。しばらくして、“ピコリ”という微かな音がした。接続が完了したのだろう。女性は自身のステラリンクから、鮮明なホログラフ映像を展開し、浮かび上がった無数の情報を素早く確認し始めた。この時、何かを理解したのか?彼女はホログラフィック表示に映る何かを見て、目を一瞬大きく見開き、しばらくの間、何かを躊躇するように唇を噛みしめていたが、意を決したように口を開いた。
「貴方のお名前は……シン、ね」
この時の僕は全身の感覚が鉛のように麻痺し、かろうじて意識の糸を保っている状態だったため、言葉を発するどころか、彼女の問いかけにまともな反応すら返すことができなかった。しかし、女性は僕の僅かな反応を敏感に読み取ったのか、女性は車の方を振り返り二人の名前を呼んだ。
「ええ、シンね。ちょっとロミ、クレア! 車から出てきて少しこの子の引き上げるのを手伝ってちょうだい!二人ともできる?」
すると、さきほど車の後部座席から、退屈そうに、しかしどこか興味津々といった表情で僕を観察していた子供たちが、互いを確認し合うと首を僕の方に向け頷く。そして勢いよくドアを開け、水たまりを避けつつも “ぱちゃぱちゃ” と音を立てながら、小さな足音を立てて駆け寄ってきた。
——十歳くらいだろうか……?
頭髪、容姿共に活発そうな少年と、少し大人びた雰囲気の少女が、何やら不満げな口調を雨粒に響かせながらこちらへやってくる。
「いやだよ! こんなに汚いもの運ぶなんて!」
「仕方ないでしょ! エアリアさんの指示なんだから。それに、しっかり目を凝らして見て見てよ! 腕が二本、脚が二本きちんとした人なんだって!」
そう不満を漏らしながらもエアリアさん、ロミ、クレアと呼ばれる三人は僕に対して善処してくれるようだった。体を密着させるように近づくと溶解しかけた僕の左脚と右腕をまるで壊れ物を扱うかのように、丁寧にかつ慎重に持ち上げようとした。
「「せーの!」」
しかし、子供たちの小さな体には、その重さはあまりに厳しかった。水の重みを含み、鉛のように感じる僕の体が、重力からわずかに解放されたかと思うと “パシャリ”と水たまりに沈み、また上げようとしても“パシャリ”と音を立てる繰り返しだった。
「ちょっと、これ無理だよ! 重過ぎる!」
「ちょっと重いわ……!スレイちゃんも手伝ってくれない? お願い……」
クレアと呼ばれた少女が、少し遠慮がちな声で車に向って声をかけた。すると、助手席に座るショートボブが可愛らしい少女。彼女は少し不機嫌そうな表情を浮かべ、一息ため息をつく。そして、ゆっくりと車を降り、比較的損傷の少ない僕の左腕と右脚をそっと支えた。何とか体は持ち上がり、息を切らしながらも、僕の体を車輛の後部座席へと運び入れることが出来た。
「三人とも、本当に助かったわ。ありがとうね。この子、なんとかアーマーを形作るアルケオン粒子のおかげで、実体の崩壊は免れているようだけれど、早急に簡易アセンションシェルに入れる必要があるの。急いで帰宅するわよ!」
「いいわね?」 女性が念を押すように優しく言うと、
「わかったよ、エアリア」
「わかったわ、エアリアさん」
「わかりました、エアリアさん」
子供たちは、それぞれ語調の違う声で一斉に返事を返した。
しばらく僕たちはエアリアさんと呼ばれる人の車に揺られながら移動していた。外は暗く、詳しい様子は窺い知れない。ただ、先ほどまでいた開けた場所からは、かなりの時間をかけて離れてきたようだった。やがて、ちらほらと木々が目立つようになり、徐々にその本数を増し、車は深い森の中へと分け入っていく。
そんな僕は今、エアリアさんの車の後部座席で、意識が朦朧とする中座っていた。そんな折、右隣から、黒茶色の髪の少年、ロミの声が飛んで来た。
「ねえ、あんた、なんであんなところにいたの?」
黒茶色の髪の少年が遠慮なく言うと、左隣から肩まで伸びた艶やかな黒髪が印象的な、少しおませな少女、クレアがすぐに窘める。
「ロミ、静かにしなさい! この人、今すごく辛そうじゃない!」
「だってさ、おかしくない? あんなところに大人一人で倒れてるなんて。しかも、エアリアさんがまるで知ってたみたいに……」
ロミはまだ納得がいかない様子で、食い下がった。
「まあ、そうだけど……でも、今はそっとしておいてあげましょうよ」クレアは少し考えてから、ロミに諭すように優しく言った。
「むー……」
ロミは小さく不満を漏らしたが、クレアが軽く睨むと、しぶしぶといった様子で黙り込んだ。しかし、しばらくして退屈したのか、二人はすぐに小さな声で何かを話し始めた。それを察したように、運転席のエアリアさんがバックミラー越しに後部座席を見ながら、穏やかな口調で言った。
「ほらほら、ロミもクレアも、怪我人がいるから静かにね!」
「——わかったよ……」
「はい、エアリアさん」ロミとクレアは素直に頷いた。
それでも子供は子供。しばらく車内にいると、僕が後部座席に入ったことで少し車内が狭くなったせいか、案の定、僕の左右でまるで両耳元で囁きあうように、ロミとクレアの間で再び小さな小競り合いが始まった。
「ちょっと、クレア! ちゃんと座ってよ! 押さないで!」ロミが少し声を荒げた。
「別に押してないってば! 勝手に体が傾いてるだけでしょ!」クレアも負けじと言い返す。
そんな子供らしい、他愛ないが少々苛立たしいやり取りが続いた、その時だった。助手席に座る、青竹色髪のスレイは、まるで日常茶飯事だとでもいうように、小さく、深くため息をつきながら、諦めを含んだ冷たい声で静かに言った。
「二人とも……いい加減、静かにして……」
その一言は、まるで凍てつく魔法のようだった。さっきまで騒がしかった車内の空気は一瞬にして張り詰め、ひんやりとした静寂が辺りを包み込んだ。
森の深くへと進むにつれ、木々の密度は増し、車のヘッドライトの光さえも、深い闇に吸い込まれていくようだった。今、車内を満たすのは、雨が車体に当たる音と、雨風に揺れる木々のざわめき、そしてかすかな甲高い駆動音だけ。張り詰めた静寂の中、前方、鬱蒼とした木々の間から、まるで道標のように微かな橙色の灯りが漏れ出した。徐々に大きくなるその光は、やがて森の中にひっそりと、しかし確かな存在感を持って佇む重厚な建物。その輪郭を、雨に煙る夜の中に浮か上がった。
「さあ、着いたわよ。シン……だったわね? これが私たちの我が家、『エミュエールハウス』よ!」
エアリアさんの声に促され、子供たちに支えられながらゆっくりと車から降りるた。すると、目の前に現れたのは想像していたよりもずっと大きなログハウスだった。太い丸太を組み上げた壁、屋根には雨がしっとりと降り注いでいる。深い森の中にひっそりと佇むその姿は、まるで童話に出てくる隠れ家のようで、彼ら四人で暮らすには少々広すぎるのではないかと思えるほどだった。
エアリアさんが手慣れた様子で車を傍らの車庫に入れるのを横目に、僕は子供たち三人に肩や腕を支えられるようにして、ゆっくりと重い足を引きずりながら室内へと足を踏み入れた。軋む木の床を踏みしめて玄関をくぐると、そこは温かい木の香りに満ちた空間が広がっていた。
正面には、太い梁が渡された高い吹き抜けがあり、そこから見上げる二階は、簡素ながらも温かみのある木製の廊下と、学生寮のようにドアが並んだ小さな部屋がいくつか見えた。おそらく、客間か子供たちの個室なのだろう。目線を下に落とし左手を見ると、暖炉のある広々としたリビングルームがあり、壁面には巨大なホログラフィックビジョンらしきものが設置されている。
僕は子供たちに促されるまま、玄関からすぐ右手にある場所の方へ向かった。そこには木製の棚に様々な形の皿やカトラリーが整然と並べられ、下に視線を預けるとそこには、周囲の床と一体化しているかのような、見慣れない横開きの地下扉があった。クレアが近くの壁にあるパネルを押すとその扉がスライドする。
——……!
すると、そこには冷たい空気の漂う、地下へと続く簡素な階段が現れた。僕はほとんど子供たちに引きずられるような形で、その階段を一段一段降り、ひっそりとした地下室へと導かれた。
——!
地下室は、外観からは想像もできないほど広く、無機質な白い壁と特殊な材質の床が広がっていた。まるで小規模な研究室のような空間で、様々な形状のガジェットや複雑な配線が施された電子機器が、所狭しと並べられ、作業途中の物なのか無造作に散乱している。僕はようやく子供たちに支えられ、備え付けられた簡易的な椅子に腰を下ろし、エアリアさんは手にした携帯型のデバイスを操作しながら、僕の額や手首に当て、心拍数、血圧、神経伝達速度、細胞活性度など、多岐にわたる身体情報を手際よく測定し始めた。
一通りの検査が終わり、エアリアさんが深刻そうな表情で頷くと、僕はまだアーマーを着たまま、彼女と傍らに控えていた三人の子供たちに支えられ、部屋の隅に置かれた、少し古びた外観の医療用カプセルに収容された。カプセル内部は、無色透明な液体で満たされており、その水位はゆっくりと上昇し、やがて僕の顔にまで達しようとしていた。液体は微かに青白い燐光を放ち、内部には微細な銀色の粒子がゆらゆらと浮遊しているのが見えた。おそらく治療用のナノマシン、それかフェムトユニットだろうか——ぼんやりとそう思っていると、エアリアさんがカプセルの操作パネルに何かを入力したのか、急に液体が勢いを増してせりあがり、冷たい感触と共に僕の顔を完全に覆い尽くした。
——……イキ!
僕は突然のことに、窒息するのではないかという強烈な不安に襲われ、反射的に身を捩ろうとした。だが、二期間近くも体を満足に動かしていなかったせいか、僕は指一本すら動かすことができなかった。次第に液体が鼻腔を通り、喉を焼け付くように刺激する。何かがぬるりと肺を満たしていく感覚は、これまで経験した呼吸とは全く異なる、本能的な恐怖を掻き立てる異質なものだった。
「心配しないで。液体呼吸は生体適合性流体とフェムトユニットの制御によって完全に制御されるから……それに、麻酔も……もうすぐ……効いて……く……る……はず……」
エアリアさんの声は、まるで遠くから聞こえるように途切れ途切れになり、最後はほとんど囁くようで聞き取れなかった。おそらく、彼女の言葉通り、何かしらの麻酔効果が働き始めたのだろう。直後、僕は深い眠りに落ちるように、完全に意識を失った。




