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第25話 光の人④

 ~子供と別れてから数年後~ 


「そこの君、何寝ているんだね。今は授業中だぞ。さあ、ここの部分の回答は何だね?」


 ハッとして見上げると、そこは大きな講堂だった。 周りを見渡すと、前から後方にかけて緩やかな傾斜があり、使い込まれた木の机や椅子が並ぶ風景は、どこか懐かしい時代を思わせる。暖かいような、それでいて少し重い空気が私を包み込む——いや、それは周囲からの嘲笑だった。私は自分が眠っていたことに気づき、慌てて体を起こそうとしたが、焦りのあまり反動で勢いよく立ち上がってしまった。


「立ち上がってどうしたのかね?君、 さっさとこの問題を答えたまえ」


 ——し、しまった……。


 私の目の前では、白髪の先生が電子黒板に映し出された数式を二度指差し、答えるように促している。ふと周りを見ると、教室中に一段と大きな笑い声が響いた。私は体がかっと熱くなるのを感じ、ゆっくりと席に座り直した。そして隣にいた後輩に、両手を合わせ小声で頼んだ。


「ごめん、サリー。この問題の答え、教えてくれない?」


 隣に座るピクシーカットの似合う女の子、サリーは、「ハー」とわざとらしく大きなため息をつくと、タブレットに表示された答えを指でそっと二度示した。私は教授の前でなんとかその答えを口にし、安堵の息をつくことができた。その後も授業は淡々と進んでいった。授業が終わると、寝ていた分を取り戻すため私は皆が立ち去るまでノートを見返してしばらく復習をしていた。


 隣ではサリーを含めた数人が、楽しそうにガールズトークをしており、その明るい雰囲気に反して、私の心はどこかざわついていた。そして、つい、彼女らの話が気になり耳をそばだててしまった。


「私、やっぱり将来は優しい旦那さんがいいな。毎日、美味しいご飯を作って待っててくれるような、それで将来は子供が欲しいな……大体三人くらい。それでみんなで楽しく暮らすのが私の今のところの夢なんだ」と、ポニーテールの女子生徒が頬を赤らめて言った。


 ——……え?


 まるで心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。私の体は、まるで凍り付いたように動けなくなる。


「えー、それってちょっと結婚にしては早くない? 私はもっと、お互いを高め合えるような、自立した関係になってしばらくお金が溜まったら結婚の方が理想だな……」と、ショートカットの女子生徒が腕を組んで答えた。彼女らの言葉は、私には遠い世界の出来事のように響き、現実感がなかった。私の体は鉛のように重く、息をするのもだんだんと苦しくなっていった。

 サリーは少し照れたように微笑んで、


「私は、一緒にいて落ち着ける人がいいな。別に毎日サプライズとかはいらないから、ただ普通に、穏やかな時間を過ごせる人がいい、子供は……まだ考えられないな……」と控えめに言った。


 サリーの言葉は、私の胸に深く突き刺さり、心臓が締め付けられるような痛みに襲われた。同時に、どこか諦めにも似た感情が湧き上がってくるのを感じた。


「サリーは堅実だよね」と、ポニーテールの女の子がからかうように笑った。


「でもさ、この学校の中にそういう人、いるかな? みんな、ちょっと変わってる気がするんだよね」

「まあね……」とサリーは苦笑いして私を一瞥する。その表情には、言葉にはしないけれど何か思うところがあるようだった。


「でも、意外なところに良い人がいたりするかもしれないし」


「そういえば、この前、上級生にすごくスマートな人がいたんだよね。ちょっと気になっちゃって」と、ショートカットの女子生徒が目を輝かせた。


「サリーは誰か気になる人とかいないの?」


 急に話を振られたサリーは、少し慌てたように視線を泳がせていた。そんな和やかな雰囲気を横目に、しばらく私はひっそりと項垂れていた。


 二〇歳を過ぎてから、自分の体に子供を宿す力がないことを知っている私の心に深く影を落としている。だから、できる限りこういったガールズトークは避けてきた。それなのに、不意に耳に入ってしまったことで、自卑の念が容赦なく押し寄せる。この事実は小学校時代から知っていたが、昔はさほど気にならなかった。ではなぜ、今になってこの事実がこれほどまでに胸に引っかかるのだろう。それなのに不思議と心の奥底では、私には成し遂げなければならないことがある、そう強く突き動かされるような、激しい橙色の感覚と冷たい黒色の感覚が常に混在していた。


 しばらくして、周りの学生がまばらになると、私とサリーは立ち上がった。重苦しいものは未だ立ち込めていた。だが、なんとか気持ちを振り払い、平静を装ってサリーに声をかけた。


「助かったよ、サリー。今度また何か奢るからさ。今回は本当にごめんね」


 するとサリーは、少し目を逸らしながら言った。


「先輩も、嫌な話を聞きたくなかったらとっとと立ち去ってもよかったんですよ。別に先輩と同じ学年でもないですし、気にしなくてもいいんです。それに、日々の研究に熱中するのは良いですけれど、もう少し授業にも集中してください。上から期待されているのは分かりますけれど、授業に出ないと単位を落として卒業できなくなりますよ。いいんですか?」


「お気遣いありがとう、サリー。でも別に良いのよ。私、ここを卒業するために来たわけじゃないから」


 私が隠していた言葉は、自分でも驚くほどあっさりと口をついて出た。


 サリーは私のさりげない言葉に驚いたのか、パッと顔を上げて、目を丸くした。


「卒業するために来たんじゃないって……じゃあ、先輩は何のためにこの大学に? 研究するためだけに来たんですか?」


 彼女の瞳には、純粋な疑問の色が浮かんでいた。私は首をゆっくりと横に振った。


「いいえ、それもあるけれど、本当の目的は違うの」


「本当の目的とは、いったい……?」


 サリーは目を瞠り、私の言葉を待っている。


「未来のためだよ。私自身の、そして、この世界の未来のため」


 私の言葉は、サリーにはまだ重すぎたのだろう。彼女は腑に落ちないといった顔で教室の出口の方に向き直り、最後に小さく呟いた。


「じゃあ、先輩、また来週の授業で会いましょう」


「ええ、また。来週も困ったらよろしくね」


「それなら先輩、しっかり睡眠とってから授業を受けましょうね。今日、私、皆の視線が集まって恥ずかしかったんですから、よろしくお願いしますよ」


 ——ごめんサリー。また同じことがあったらよろしくね。


 私は彼女に向けて手を合わせ心の中で念じると、彼女はそそくさと教室を出て行ってしまった。私は彼女の後ろ姿を見送りながら、頭の中の靄がゆっくりと晴れていくのを感じた。そして、これから取り組むべき研究のことが、まるで湧き水のように次々と頭の中に溢れ出してくる。私はその強い衝動に抗えず、研究室へと急ぎ足で向かった。そこにこそ、私の未来があるのだと、強く信じて。


 私はシンとの別れを経て、翌年から東アメリア高等士官学校に三年間通い、その後、国立アメリア連邦防衛大学へと進んだ。そして私は大学に通いつつ、私はこの時アメリア軍本部地下深くに位置するI.F.D.O.の研究室にも所属していた。

 重い扉を開けると、生暖かい風が顔を撫でる。薄暗い空間には無数のモニターの光が点在し、多くの研究員たちが机に据えられたフレモ端末をパソコンのように操作し、ディスプレイに食い入るように集中していた。

 私の生活の毎日が研究と学習の繰り返しだった。当時、私は日々の業務に加え、ある物を完成させるために並行して研究を進めていた。あの日までにどうしても完成させなければならない——その強い思いを抱えながら、私は日々の生活を懸命に送っていた。

 自分の席に着き、フレモを開いてデータを入力しようとした時だった。隣の席の後輩たちの間では、どうやら集中力が途切れてしまったらしく、またガールズトークが始まった。やはり年頃の女子の会話なのか、今度も先ほどの講堂での会話と同じように、恋愛に関する話題で盛り上がっているのだ。


「ねえ、最近、気になる人とかいる?」


 ツインテールの研究員が、頬を少し赤らめながら隣のショートカットの研究員に話しかけた。


「うーん、どうかなあ……。研究室にいると、胡散臭い人ばかりでなかなかそういう出会いもないし……」


 ショートカットの彼女は少し困ったように肩をすくめた。


「先輩たちを見てると、恋愛よりも研究一筋って感じだし……」


 ちらりとこちらを見た。


「それで、昇進についてはどう考えているの?」赤毛の女性は訊ねる。


「昇進? そりゃしたいけどさ、法律の影響で、キャリア組も早めの出産が推奨されてるじゃない? 結局、生産力を残すのが最大の『任務』って言われてる気がして萎えるんだよね……」


「わかる。でも私はやっぱり、暖かい家庭も諦めたくないなぁ……」


「それで、改めて男の方はどうなのよ?」ツインテールの彼女、目をぱちぱち動かす。

 二人は目を泳がせる。


「えー、まさか二人ともいないなんてことないよね? 何かあったら、こっそり教えてよ!」


 ポニーテールの彼女は身を乗り出した。


「まあ……この前、合同チームで一緒になった他部署の人、すっごくかっこよかったんだって噂だよ。でも、他の人の噂によるとその人、既婚者らしいの、子供もいるらしいわ……それは置いといて、二人ともそういうの、全然興味ないの?」


「別に興味がないわけじゃないけど……今は、目の前のことで頭がいっぱいかな。結婚ましてや出産なんか……でも、やめてよ。既婚者に対してアプローチしたらいろいろ問題になるから」


 ショートカットの研究員は少し遠い目をしていたがポニーテールの彼女に目線を走らせる。


「大丈夫、大丈夫そんな少子時代みたいに不貞行為なんてしないから」


 ——この先の流れは……。


 再び、体が震える感覚を覚え、思わず耳を塞ぐように自分の作業に改めて集中しようとした時だった。私の肩を叩く感触がしたのだ。


「あの……エアリアさん、いいですか?」


「なに⁉」


 思わず語気を強めて振り返ると、裏の席の後輩、くすんだ金髪に整った顔立ちのエヴァン君が、遠慮がちに声をかけてきた。彼は、私が作業を始めるのを待っていたのか、少し間を置いてから言った。


「エ、エアリアさん、大丈夫ですか? 少しお伺いしてもよろしいでしょうか。今、お時間ありますか?」


「ごめんなさい、エヴァン君。ええ、構わないわ。ちょっと見せてくれる?」


 私は彼のフレモの画面を覗き込み、簡単なレクチャーをしながら、彼の端末にデータを入力していった。


「ありがとうございます。どうぞ、ご自身の作業に戻ってください」


「そちらこそ、気を遣ってくれてありがとう」


 私はそう言うと、再び自分のフレモの画面に意識を集中させた。再来週に控えた研究成果の発表会の準備も佳境に入っており、今日中に目処をつけなければならない。そのため今日、私は研究室に寝泊まりすることも覚悟して粉骨砕身と作業に取り組んでいた。


 しばらくして時刻は夕方になり、研究員たちが一人、二人と帰宅の途につく中、エヴァンも帰り支度を終えたらしく、私の席までやってきて声をかけてきた。


「大丈夫ですか、エアリアさん? 昨日も確か、ここで夜を明かしていましたよね。そんなに自身の研究、大変なんですか? 研究発表は来週とはいえ、来週追い込めば十分間に合うと思いますよ。一体、何をそんなに一生懸命作業されているんですか?」


 エヴァンは心配そうな眼差しでこちらを見つめている。彼の言葉には、純粋な気遣いと、少しばかりの好奇心が混じっているようだ。


「確かに、私、ここ数日、ほとんどここで寝起きしているわね。研究発表の準備ももちろんあるけれど、それだけじゃないの」


 少し間を置いて、言葉を選びながら続けた。


「——これは、個人的な研究テーマなの。誰かに頼まれたわけでもないし、これからそれを発表する予定もない。でも、私にとってすごく大切なことで……どうしても、あの日までにある程度の成果を出しておきたくて……」


 モニターに映る複雑なデータを見つめながら、私は言葉を続けた。


「『来週追い込めば間に合う』というのは、確かにそうかもしれない。でも、私には時間がないの。この研究には、どうしてもある程度の目処をつけなければならない理由があるのよ」


 エヴァンの顔には、まだ疑問の色が残っている。


「そんな個人的な研究、ですか……そんなに必死になるなんて、一体どんな研究なんですか?」


 彼はさらに身を乗り出して、私のディスプレイを覗き込もうとする。私は慌ててフレモの画面を体で覆った。


「ごめんなさい、エヴァン君。それはまだ誰にも話せないことなの。でも、いつかきっと話すわ……。今はただ、信じてほしい。……この研究は、未来を決めるかもしれない、もっと大きなことと繋がっているのよ。だから、本当に、一刻の猶予もなくて……。私には今、どうしてもやり遂げなければならないことがあるの」


 エヴァンは首をかしげていたが、しばらくして私の気持ちを察してくれたのか、納得したように答えてくれた。


「わかりました、エアリアさん。頑張ってください!」


「あなたこそ、もうこんな時間じゃない? 彼女とのデートがあるんでしょう?」


 エヴァンは驚き、すぐさま時間を確認する。


「ホントだ! やっべ、急がないと! エアリアさん、教えてくれてありがとうございました!」


「いいえ、楽しんできて。あと、彼女を大切にしてあげてね」


 私は胸の奥にわずかな痛みを覚えながらそう言うと、


「あ、はい!」


 私の唐突な言葉に少し視線がさまよいながら、彼は急いで研究室を出て行った。


 ——……。


 エヴァン君がいなくなると、研究室には誰もいなくなった。

 し~んと静まり返った室内には、モニターの微かな光と、フレモや大型実験設備の冷却ファンの音が小さく響いているだけ。私はエヴァン君の消えたドアを見つめて、小さく息をついた。胸の奥に感じた微かな痛みは、不思議とすぐに、研究への志向性によって押し流される。今の私には感傷に浸っている時間はない。やることがたくさんあった。

 私は再びフレモに向き直り、中断していたデータの入力を再開した。モニターに映し出される複雑な数式とグラフの群れ。それらを追っていると、胸の内のざわめきが静まり、思考だけがクリアになっていく。もしかしたらこの感覚だけが、私をここに繋ぎ止めていたのかもしれない。

 指先はホログラフィック上を滑り、ステラリンクからの情報の奔流を受け止めながら、頭の中では無数の計算が瞬く間に組み上げられていく。

 ——……。

 この研究に没頭している時間だけが、他のすべてを忘れさせてくれた。まるで、私自身の意志を超えた大きな力に導かれるように……それは、紛れもなく「私」だけの、純粋な時間だった。そんな日々が、数年は続いた。

 そして、ある日を境に、私はアメリア連邦国を後にした。表向きは、次の夢に向かうための自主退職。けれど、本当の理由は、共に研究に明け暮れた仲間に打ち明けることは、どうしてもできなかった。ただ、私の選択の引き金となった「ある出来事」……それが、結果的にアメリア軍を止める一助となったことだけは、確かな事実だった。軍籍を離れた後、私は——交わした約束を果たすために。「あの人」が待つはずの場所へと、ただ静かに足を向けたのだった。


「面白い!」「続きを読みたい!」と感じていただけたら、ぜひブックマーク、そして下の★5評価をお願いします。 皆さんの応援が、今後の執筆の大きな励みになります。

日にちが開いた場合も大体0時か20時頃に更新します。


また

https://kakuyomu.jp/works/16818622174814516832 カクヨミもよろしくお願いします。

@jyun_verse 積極的に発言はしませんがXも拡散よろしくお願いします。

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