第20話 それぞれの宇宙(そら) 後編⑤
翌日から、僕の日常はまた、以前と変わらぬ単調なサイクルに戻っていった。エヴァンさんの家に再び身を寄せ、昼間は真夏の日差しの中、ひたすら農作業に打ち込む。夜になればエヴァンさんの家に戻り、簡素な夜食を共にし、そして眠りにつく。軍への復帰を新年度に控え、それまでに片付けるべき事は山積だった。夏休み明けには、退職の手続きのため、一度学校へ顔を出す必要がある。そして、放置していた大学のオンライン課題にも、そろそろ腰を据えて取り組まねばならない。そんな、まるで時が止まったかのような日々の中で、ささやかな変化が僕の日常に彩りを与え始めていた。それは、これまでほとんどエヴァンさんの家の台所に立つことのなかった僕が、エヴァンさんの頼みで夕食を作るようになったことだ。そして今日、朝の農作業を終えた僕は、昼食の支度に取り掛かろうとしていた。今日の献立は何にしようか。思案しているうちに、ふと、以前エアリアさんが作ってくれた、あの滋味深いスープの味わいが、鮮やかに蘇ってきた。そうだ、今日の昼食は、あのスープに決めた。
僕は自然と足を踏み出し、台所へと向かった。エアリアさんから教えられた、あの冷蔵庫に貼ってあったスープのレシピが書かれたカードが、頭の中に鮮明に浮かび上がる。丁寧に炒められた香味野菜と、時間をかけて煮込まれた深いコクのブイヨン。シンプルながらも、体の芯まで温まるあのスープ。あの日の、温かく穏やかな記憶を辿るように、僕はあの味を、もう一度 この手で再現してみたかった。
台所のドアを開けると、使いかけの野菜たちが、所狭しと並んでいる。僕はそれらを丁寧に洗い、慣れた手つきで包丁を動かす。エヴァンさんは時折、農作業の間に顔を出す程度で、台所はもっぱら僕の領域となっていた。まな板を叩くリズミカルな音と、時折聞こえるエヴァンさんの朗らかな声だけが、静まり返った降恒の台所に、穏やかな彩りを添えていた。
鍋に水とブイヨンキューブを放り込み、刻んだ野菜を次々と加えていく。台所は次第に湯気 と、食欲をそそる芳醇な香りで満たされていく。
食事が出来上がり、僕たちは小さな机を囲んで一緒に昼食をとった。エヴァンさんは黙々と僕の作ったスープを口に運んでいる。その様子は、ただ食事をしているというよりも、何かを深く味わい、噛み締めているようだった。ふと、僕は最近エヴァンさんが僕に夕食作りを頼むようになった理由が気になり、直接尋ねてみた。すると、エヴァンさんはゆっくりと口を開いた。
「ああ、何となく、エアリアさんに教わったシンの料理をもう一度味わってみたくなったんだ……」
ただそう簡単に答えると、再びスープを口に運び始めた。その横顔には、どこか寂しげな雰囲気が漂っているようにも見えた。僕もまた、彼の様子を注意深く見ながら、静かにスープを味わい、飲み進めていた。
“ピーンポーン”
しばらく食べ進めていると、玄関のチャイム音が響き、誰かが訪ねてきたことを知らせた。僕は誰がやってきたのかとドアへと向かいドアを開けると、そこに立っていたのは見知った顔、ライアンと、小さな赤子を抱いた彼の彼女ミリーさんだった。
「やあ、久しぶり、シン!」
「久しぶりです、シンさん」
「そちらこそ、久しぶりだね、ライアン! どうも久しぶりですミリーさん。それで今日はどうしたんだい? エヴァンさんに用事?」
ライアンは首を横に振り、腕の中の赤ちゃんを見つめた。どうやら用があるのはエヴァンさんではなく、この赤ちゃんの方らしい。ライアンは赤ちゃんを僕の方へ少し近づけて見せた。赤ちゃんは「うわぁ」とでも言うかのように可愛らしい様相で両手を上げ、僕にやわらかな光を放つような笑顔な笑顔を向けた。
「以前は色々と余裕がなかったからちゃんと聞けなかったけど、その子の名前は? 教えてくれないか?」
「ああ、女の子でユナっていうんだ。どうだ、可愛いだろう?」
確かに、とても可愛い。父親であるライアン譲りの、丸く自己主張の強い瞳と、母親であるミリーさん譲りの柔らかな口元が、絶妙なバランスで幼い顔立ちを彩っている。そんな愛らしい女の子を微笑ましく見つめながら、僕は改めてライアンに尋ねた。
「それで、改めて聞くけど、今日は一体何の用事で来たの?」
「実はさあ、これからな、ちょとだけ短かい間だけんど、エアリアさんたちのいるアリエス市に、新婚旅行みてぇなもんに行きたいだに。僕らまだ未成年だもんで、そんなに金もねえから、本格的な新婚旅行ってわけにはいかんだけんど。それで、お願いがあるだに。この子を五日間だけ、預かってくれん?」
——……え!僕に⁉
僕は彼の突然の提案に体熱が駆けあがり、ただただ呆然と立ち尽くしてしまった。人から頼まれることは嬉しいが、扱ったこともない小さな命を相手にするのは初めてだった。しばらくどうしようかと考えていると、奥の部屋から、何事かとご飯を食べていたエヴァンさんが髪をくしゃくしゃと掻きながら現れ、僕の方を見てあっけらかんと呟いた。
「おう、ライアンどうした、お父さんから何かメッセージもらってきたのか」
「いいえ、今回はエヴァンさんに用事はありません。シンにこの子を託したいと思って今日はやって来たんです」
エヴァンさんはしばらく不思議そうに顔を傾けたが僕の方を向いてぶっきらぼうに言った。
「まあ、お前なら大丈夫だろ。自分で料理も作れるし、子供の面倒くらい、ネットで検索すれば何とかなるさ。困ったことがあれば、いつでも俺がいる。遠慮なく頼れ。ライアン、いいぞ、シンに預けていっていいよ」
——ええ、ちょっと、待ってくださいよ!
僕の心持ちとも相談せず。エヴァンさんの予想外の援護射撃に、ライアンとミリーさんの顔がぱっと明るくなり、二人は嬉しそうに顔を見合わせた。
「本当ですか? ありがとうございます。シンさん!」
「シンに預けられるなら、安心して旅行に行けるよ 本当にありがとう!」
「いや、ちょっと待ってください!今、 僕、預かるとは一言も言ってませんけど!」
僕の抗議も意に介さず、エヴァンさんは強引にライアンから赤ちゃんを抱きかかえ、言った。
「よし、決まりだ。じゃあライアン、いつまでこの子を預かればいいんだ?」
「そうですね……。できれば五日間ほどお願いしたいのですが……その期間が終わったら、また改めて迎えに上がりますので、どうかよろしくお願いします」
ミリーさんが深く頭を下げるのを見て、僕は彼らの切実な要望を無視することもできず、渋々ながら了承することにした。本題が一旦解決すると、僕は思っていたことを尋ねる。
「それでなんで、エアリアさん達のいるアリエス市に行こうと思ったんだ?別にもっといい場所があるんじゃないのか?レガリア県とか都市の方に行った方がUSRとか、たくさん楽しいものもあるはずだし……」
リアンは少し考えていたようだったが、あっけらかんと笑う。
「う~んなんていうか、はっきりとした理由はないけど、何だかそっちの方に行きたくなったんだ」
——は?
リアンの判然としない理由に僕は少し体の熱が抜けた。もう、一家の主であるという人間が何を言っているのかと、すると、僕は以前のリアンの厚い言葉をふと思い出した。
「理由としては……その……情熱ってこと?」
「まあ、そうだね、何だか分からない情熱だね」
「はは、なんじゃその理由」
僕とリアンの間に淡い空気が包み込む。僕らはしばらく会話に花を咲かせた。会話が進むとライアンは心底安心したように息をつき言った。
「——それで……シン、何かおすすめの場所はあるか? アリエス市で何か美味しいものが食べられる店とか。二人でゆっくりと遊べる様な施設とか?」
僕は少し考える。後者の場所はアリエス市にはない事を知っていた。
「遊べるような施設は……昔はあったらしいけれど……人口の減少の影響で経営困難になってなくなっちゃたんだ」
「そうなのか……」リアンの顔は陰る。
「ああ、でもこの山を下ったところにあるあそこのハートフル製菓店さんは美味しいよ。特にそこで売っているクレープとてもおいしいから、ぜひ行ってみるといい。今、場所を教えてあげるから、フレモ取り出してくれない?」と、ステラリンクから、彼に店の住所を送信した。ライアンは受け取った内容を確認したようでにこやかに言う。
「シン、本当にありがとう! 帰ってきたらお土産を届けるから。子供のこと、頼んだよ!」
「ああ、楽しんできて」
僕はそう答えて、手を振る。ライアンとミリーさんは、終始笑顔で、僕たちにお辞儀をしてエミュエールハウスを後にした。
その日から、予想外にも僕はユナの世話をする日々が始まった。か弱い命の世話をすることに、最初は躊躇、正直言って恐怖すら感じていた。しかし、慣れてくると、生まれたばかりの小さな命を腕に抱くたび、責任感だけでなく、この子を守ってあげたいという母性のようなものが自分にも生まれたことに不思議な気持ちを抱いていた。
もちろん僕は赤ちゃんの世話は全くの未経験だ。ミルクの作り方も、オムツの替え方も、ましてや泣き続けている時のあやし方となれば、全く見当もつかない。ライアンたちは、本当に僕にこの子を任せて大丈夫なのだろうか——そんな不安が頭の中を駆け巡るが、一度引き受けた以上、もう後には引けなかった。
とりあえず、受け取った最初はインターネットを開き、随分失礼な気もするが「赤ちゃんのお世話 初心者」「初めてのお世話 赤ちゃん」と検索してみることにした。表示にずらりと並んだ育児サイトや動画に圧倒されながらも、一つ一つ目を通していく。
——ミルクの温度は三七度、オムツは二、三時間おきに交換、泣いたら抱っこして優しくあやす……。
溢れる情報を整理し、何とか頭では理解しようとしても、実際にできるかどうかはまた別の問題で、体が追いついていかない。
すると、最初の試練はすぐにやってきた。
「オギャー、オギャー」
ユナが突然、顔を真っ赤にして激しく泣き始めたのだ。ミルクが足りないのか、オムツが汚れているのか、あるいはあやし方が下手なのか——原因がまったく分からず、僕は完全にパニック状態に陥った。ネットで調べたあやし方を次々と試してみるも、ユナの泣き声はますます大きくなるばかりで、まるで世界の終わりが来たかのようなけたたましい音に、僕は心底打ちのめされてしまった。
そんな途方に暮れかけた時だった。
——……!
途方に暮れかけていたその時、僕の体の奥底から、じんわりと温かい何かが込み上げてくるのを感じた。
『シン……大丈夫、大丈夫だよ。世界はこんなにも良いところだよ……』
以前夢で見た自分が誰かに優しくあやされている様子が鮮明に心に蘇ったのだ。僕は夢に出てきた女性の、温かい手と声。その時の感覚を頼りに、観よう見まねでユナに優しく話しかけ、ゆっくりと、一定のリズムで体を揺すってみた。すると、不思議なことに、さっきまで激しく泣き叫んでいたユナの泣き声が、嘘のように少しずつ小さくなり、やがて落ち着きを取り戻し始めた。最後には、まるで穏やかな水の中に沈んでいくように、小さく、安らかな寝息を立て始めた。
腕の中の彼女の寝顔を見つめていると、先程までのいっぱいいっぱいだった気持ちはいつの間にか消え去り、代わりに温かい感情が胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じた。小さく柔らかい指が僕の指をしっかりと握りしめるその頼りないけれども力強い力に、胸が熱くなった。この子が僕たち人類の将来を支えてくれる。そして僕はパイロットとしてそれを守ることができる。そのことを思うと僕は少しばかり万感の思いを感じていた。
そんな様々な思いを抱え、彼らから赤ちゃんを預かって二日が経った。エヴァンさんと僕は交代交代で赤ちゃんの世話を続けていた。そしていつも通り、僕は就寝時間になったのでエヴァンさんに赤ちゃんを託し、寝ることにした。この日はこの子のため十分に頭も体も動かしたので十分に眠れるはずだった。
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