第20話 それぞれの宇宙(そら) 後編 ③
降恒7時15分。
軽い夕食を済ませた後、僕らは再び車で、あの場所へ戻った。車窓に広がるのは、以前のコロニーでの星空とは違う、星々が文字通り降り注ぐかのような光景だった。それは歓迎というより、むしろ宇宙がその全容を曝け出し包み込む、そんな圧倒的な光景に息を呑む。
——!
車を降り、足先を浸せる程度の浅瀬を選んで立ち止まる。目の前の光景は、僕の認識を塗り替えるほどで肌の細胞がざわめき、季節外れの寒さと共に内側から震えがこみ上げてくる。見上げる夜空は、言葉を失うほどの星空だった。無数の星は、まるで漆黒の盤面に散りばめられた宝石のよう。銀河は、夜空を横断する光の奔流となり、その一筋の輝きが、世界の輪郭さえ曖昧にする。視点を下げると水面は完璧な鏡面となり、星々の光を歪みなく反響させ、上下の境界線は消失する。まるで、重力から解放された宇宙空間に、意識だけが浮遊しているかのようだ。風の音さえ消え、静寂だけが支配する世界で、星光と水面が共鳴し、二つの宇宙が重なり合う、夢幻の光景が広がっていた。それは、幼い頃から僕が見続けていた、夢の中の光景と寸分違わなかった。
遅れて車から降りてきたエアリアさんは、静かに僕に近づき、レンタカーの鍵を差し出した。
「これ、しばらく預かってくれる?」
「はい……わかりました」
反射的に鍵を受け取ると僕はその場に座り込んだ。掌にキーを握りしめ、ただ茫然と眺める。完璧なまでに秩序化された美。それは、知覚を越えた情報として脳に流れ込み、心の奥底から感動の奔流を引き起こした。同時に、内側から熱い塊がせり上がり、視界が薄れていく。
無慈悲なほどに広大な夜空は、僕という存在を無効化するかのようだった。圧倒的な宇宙を前に、自分の輪郭が曖昧になり、まるでそこに溶解していくような錯覚に陥った。あまりにも巨大な自然を前に、個としての存在意義が音もなく崩壊していく。以前合った被災地の人々、リアン、ロミ、クレア、スレイ……。彼らが自然や社会システムという名の巨大な機構に呑み込まれていく様を目の当たりにし、ふと問いが創発する。なぜ、彼らが、このような運命を辿らなければならなかったのか?なぜ彼らが苦しまなければならないのか?そんな胸に渦巻く疑問と不安を抱きながら、僕はエアリアさんにぶつけた。
「結局、この世界において僕らはシステムの一部でしかない。彼らも、僕も、生きている意味なんて、あるんですかね………?」
エアリアさんは、一瞬だけ思考の淵に沈み、虚空を捉えるように静かに言った。
「生きる意味、ね……」エアリアさんは少し間を置き、空に目をやった。
「少なくとも私は、ないと思うわ」
「そうですか……」
予想通りの言葉だった。生命は、いずれ死を迎える。死は、完全な消滅『無』を意味する。そんな絶望的な事実が、僕の心臓を重くする。そんな僕の様子を見てか彼女は言葉を重ねた。
「でもね、意味は、誰かに与えられるものじゃない。自分で定義するものよ。数千年前、原始的な社会が形成され始めた頃、『神』という概念が生まれた。それは、人が生きる意味を外部に求めるための、方便だったのかもしれない。神は人に生きる意味を与えた、と人々は信じた。しかし、エリオスが科学的思考を広めた時、その外部からの意味付与は瓦解した。科学は、客観的事実を記述するだけで、存在意義を定義することはできない。現代において、誰かに生きる意味を委ねることは、思考停止を意味する。だから、私たちは、多角的な視点と、知の集積を武器に、自力でその答えを探し出すしかない。そして、その答えは固定されたものじゃなくて。知識の地平線が広がるたびに、常に更新されていく流動的なもの……。そう、まるで動的平衡体のように」
エアリアさんの口から「動的平衡体」という言葉が零れ落ちた瞬間、背筋を冷たい何かが駆け上がったこの息を呑むほどに美しい鏡面世界も、永遠ではない。いずれ崩壊する。システム全体から見れば、僕らは、いずれ不要となる部品に過ぎないのではないか? 思考が加速するにつれて、身体の震えが激しくなる。
「それじゃあ、彼らは、システムによる必然的な……犠牲、だったと? だとしたら、彼らの人生は、一体……」
思考は過負荷を起こし、脳の処理能力は限界に近づく。報われない努力、無意味な犠牲。思考の迷路に囚われ、出口を見失いかけた、その時だった。
「でも、それは、私たち自身も同じようなシステムによって生きている、という視点も持てるわ」と、エアリアさんは続けた。
「ど、どういうことですか……?」
唐突な言葉の意味を理解できず、僕は反射的にエアリアさんを見上げた。
「生物の生存システムも、社会を維持するためのシステムも、本質は同じ。自己を維持するために、不要なものを排出して、新しい要素を組み込むことで存続している。例えば、食物連鎖の頂点に立つ私たち人間を考えてみて。私たちは、無数の植物や動物を大量に消費することで、人間という小さなシステムを維持している」
彼女は例を重ねる。
「もっとミクロな視点でも同じことが言える。私たちが食物からエネルギーを摂取し、それを各器官が分配し、細胞が活動する。細胞レベルでも、常にエラーが発生し、それを自己修復・排除することで、組織の恒常性を保っている。癌細胞の発生と、それに対する医療行為も、その範疇ね」
僕は、エアリアさんの多層的なアナロジー、そしてその深さに、言葉を失う。
「それは細胞だけの話じゃない。私たちの記憶も、知恵も、常に新陳代謝を繰り返しながら、一つの『自我』という秩序を維持するために役立っている」
——確かに、そうだ。
今までは、自分は不変の存在だと思い込んでいた。生まれた瞬間から、死を迎えるその時まで、自分という存在は一本の太い線で繋がっているような、そんな感覚を抱いていた。しかし、事実は違う。自我とは、少しずつ、常に揺らぎながらも、均衡を保ち、かろうじて一本のカタチを維持し続けているに過ぎない。ただ、そう理解はしても、割り切れなさが胸に残る。だが、彼らは、そのシステムの中で、必然的に切り捨てられる、無意味な存在なのだろうか? そう考えると、やりきれない思いが募ってくる。
「彼らは、仕方がなかった、ということなんでしょうか? この世界のシステムにおいて、彼らの存在は、無意味だったと、いうことなんでしょうか……?」
僕の痛切な問いかけに、エアリアさんは、どこか物憂げな表情で空を見上げた。そして、僕の不安を打ち消すかのように、続いての類推に移った。
「シンのステラリンク、ちょっと見てくれる? 今、座標を送るから、それを基にもう一度空を見てごらん」
彼女は、自身のステラリンクを操作し、何らかのデータを僕のデバイスに送信した。
「——座標を送ったから、データを入力して見てちょうだい」
僕は言われるがまま、ステラリンクを操作し、受信した座標データを入力する。瞬間、デバイスからの情報が、視神経を直接刺激し、脳内に流れ込んでくる。すると意識が、夜空の特定の一点へと引き寄せられる。ステラリンクの視覚拡張機能が起動し、搭載された知能機関シオンの視力補完アルゴリズムと連動。視界は信じられないほどの鮮明さを獲得する。すると、漆黒の宇宙空間に、巨大な光の渦が姿を現した。無数の光芒が、複雑に絡み合い、美しい色彩の渦を形成している。しかし、その美しさの奥には、計り知れない混沌が潜んでいるようにも感じられた。
「今、シンが見ているのは、あなたの脳に直接映像が送信されている、NGω184、球状星団よ。……その奥に、アマテラス銀河、私たちの銀河の中心があるわ」
「はい、見えています」僕は、その圧倒的な光景に、言葉を失っていた。
「ねえ、シンは、なぜ銀河があると思う?あなたがいままで培ってきた知識で考えてみて」
彼女の突然の難題に、僕は思考が一瞬停止する。それは、エリシアやルミナの存在意義を問うのと同じくらい、根源的で、哲学的な問いかけのように感じられた。そんな思考の海で溺れかけた僕を、エアリアさんの声が現実に引き戻す。
「まあ、いきなりそんなことを言われても、困るわよね……。少し、ヒントをあげるわ。銀河の形は、何かに似てないかしら? そこから、何かを導き出せないか、考えてみて」
僕は、改めて銀河の形状に意識を集中する。
——広大な宇宙空間に浮かぶ、巨大な光の渦。渦、か……。渦と聞いて連想するのは、海流、台風、排水溝にできる水の渦、洗面台で水が流れ込む瞬間の渦……。
「……排水溝を流れる水、のような……感じ、でしょうか……? つまり、何かを、流れやすくするような……?」
「そう、ほぼ正解よ。この宇宙が閉じた系なら銀河はね、宇宙を、より早く『老化』させる、つまり終焉に導くために存在するの」
——……老化?
エアリアさんは、僕の目をまっすぐ見つめ、明るい表情で、しかし、突拍子もない言葉を口にした。頭の中が、疑問符で埋め尽くされる。
「宇宙が、老化……? 一体、どういうことですか?」
「宇宙が誕生したばかりの頃は、今よりもずっと小さく、そして、完全な秩序に近い状態だったと考えられているわ。でも、宇宙は膨張を続け、その秩序は、徐々に乱雑さへと向かっている。それが、エントロピー増大の法則よ。宇宙全体のエントロピーは、常に増大し、秩序は失われていく。しかし、銀河が形成する秩序は、その流れに、逆らうように見える。そして、私たち人間も、生命活動を通して、エントロピー増大とは、まさに真逆の秩序を、部分的に作り出している。詰まるところ、銀河も、生命も、宇宙という巨大なシステムの中に『渦』を作り出し、宇宙全体の熱力学的な平衡状態、つまり『熱的死』に、より早く到達するのを助けている、と言えるかもしれない。だから、私たち人間も、宇宙という、より大きな視点で見れば、確かに、生きている意味がある、と言えるのよ。少しは理解できたかしら?」
僕は空を眺めながらイメージする。空に顕在する、アマテラス銀河を。
光を放つ恒星たちは、まるで一つ一つの生命の様に見えた。それらはゆっくりと尾を描きながらゆっくりと銀河の周りをまわる。ゆっくり、ゆっくりと一つの銀河渦の中にぽつぽつと消えていく……。だが、銀河雲はそれら燃料としてふわり、ふわりと輝いて流れていく。新たな秩序へと……。そのダイナミズムは儚くも、実に壮麗だろう。
エアリアさんの説明は、まだ完全に理解できたとは言えない。それでも、僕たちの生命活動が、社会や文明、そして、生命そのものを超越した、遥かに壮大な宇宙規模のシステムの一部からして意味を持つ、という考えは、胸の奥に微かな希望の光を灯してくれた。たとえ個としての存在が、巨大なシステムの中で刹那的に消費される歯車に過ぎないとしても、その歯車でさえ、宇宙全体の壮大な目的に貢献しているのだとしたら——。思考の澱がゆっくりと溶けていくように、今まで心の奥底で最も疑問に思っていた問いが、不意に口をついて出た。
「エアリアさん、最後に一つだけいいですか?」
「ええ、何でも。応えられることなら、何でも答えるわ」
「僕たちは死んだら『無』になるのでしょうか? 以前ここに来る前、僕はそう思っていました。だから、ここで人々が行う祈りや儀式も、死んだら無になるのなら無意味だと、疑いを持って見ていたんです。でも、ここに来てから、色々なことを経験しました。この国の人々は、人が亡くなると、その人が良い場所へ行けるようにと祈り、儀式を行う。確かに、それは科学的には意味のないことなのかもしれません……」
「確かにそうね」エアリアさんは頷く
「——でも、本当に意味があることって、一体何なのでしょうか? 僕たちは、他人と競い合うために生まれてきたわけじゃない。本当は共生しなければならないはずなのに、本当に大切な、意味のあることから目を背けているような気がするんです。リアンが、そんなことを僕に対して命を懸けて教えてくれた……そう、強く感じているんです。そして、リアンの何かが、まだ僕の中に残っているような気がするんですよ。それが不思議で、今もまだ、答えを見つけられずにいます」
そう呟いていると、エアリアさんから唐突な言葉が返ってきた。
「ねえ、ちょっと唐突に質問するけれど、さっきからずっと、車の鍵を握りしめているわよね。今、その鍵を持っているって意識、今まであった?」
「あ……⁉」
言われて初めて気づいた。今まで無意識に握っていた手のひらの中の鍵。鍵を持っていることに対する意識は、確かに薄れていた。
「——た、確かに、鍵を持っていることに関しては、意識は『無』でした……」
「そうよね。シンは鍵を持っているのを忘れて、私と会話していた。例えると、あなたの周りには、まるで情報や意識の塊のような、目には見えないけれど確かに存在する雲が、すっぽりとあなたを包んでいるの。そして、そして、人が何かを意識的に優先するたびに、その雲の対応する部分が輝きを増したり、密度を濃くしたりするの。例えば、会話に集中している時は脳の活動が活発になるように、脳の周辺の雲が濃くなり、何かを手に持っている時は、手の感覚を司る部分の雲が濃くなる。そして、誰かに話しかける時、まるで自分の雲の一部を分け与えるように、相手の雲と繋がり、混ざり合う。別の表現をするなら、そうね……カタチ……とでも言えるかしら……私はそんなイメージをもっているわ……」
——どこかで、聞いたことあるような……。
その言葉を聞いた瞬間、小学生時代に友人から聞いた見えない「繋がり」を示す言葉。それと供に、リアンと湖畔で初めて交わした、あのあたたかな会話を思い出した。
『エンが、君と僕とを導いてくれるだろうから』
——あの時、彼が言っていた「エン」という言葉は、もしかしてこの「雲」のようなもののことだったのだろうか。懐かしい記憶の糸を辿るような、不思議な感覚にとらわれていると、エアリアさんは静かに言葉を続けた。
「それは、たとえ生命活動を終えたとしても、その雲のような繋がりを通して、相手の一部として、形を変えながら生き続けるということ。私は死については分からないからそうイメージしている。はっきりとそれを知覚するようになるには私たちが普段認識している知覚の範囲では、あまりにも狭い。科学は人間の知覚を基盤に発展してきたけれど、今の科学の枠組みでは、捉えきれないことや説明できないことの方が、まだまだ多い。それを本当に理解するには、私たち自身の知覚を、根底からアップデートする必要がある。少なくとも私はそう思う。『無』という状態は、きっと存在しない。つまり……私たちが依拠している現代の科学では……」
「つまり……?」 僕はエアリアさんの答えに深く、そして真剣に神経を集中させる。
「本当の真理は、見えない……ということなの」
その言葉が、深く、静かに、胸に染み渡った瞬間、目の前の星空が、今まで見ていた景色とはまったく違う、まるで内側から光を放つように、さらに明度を増して輝き始めたように感じられた。リアンはもう、僕の隣にはいない。けれど、彼と繋がった雲のようなものは、壁を超えて確かに僕の中に、そして彼と関わった人々の心の中で、今も生き続けているのかもしれない。そう思うと、喪失感と共に、じんわりとした温かいものが全身を包み込むように広がり、熱いもの溢れそうになった。ふいに僕は心を落ち着かせようと宇宙を見上げた。
——!
その時だった。宇宙の星が一つ、静かに瞬きを終えるように、確かに光を失ったのだ。普通ならばそれは不吉な予感を感じさせるだろう。だが今の僕には、その現象がまるで、リアンが僕の心の痛みに気づき、そっと手を差し伸べてくれているように感じられた。遠い宇宙の彼方から、見えない雲の様なものを通じて、彼が確かに僕を見守ってくれている。そう確信した瞬間、喪失感と共にじんわりとした温かいものが全身を包み込み、抑えきれない涙が静かに溢れた。
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