第19話 それぞれの宇宙(そら) 前編⑤
絵が完成する頃には湖畔はすっかり夕闇に包まれ、静寂が訪れていた。空には瞬く星々が夜の到来を告げている。僕はイーゼルから慎重にキャンバスを外し、子供たちとエアリアさんの方へ振り返った。完成した絵は、昼下がりの湖畔で無邪気に遊ぶ四人の姿を、キャンバスに閉じ込めた一枚の絵画だった。
「できたよ」
僕が静かに声をかけると、子供たちは眠たそうな目を擦りながら、ゆっくりと絵に顔を近づけた。
「わあ、すごい!」
「ほんとだ、僕たちだ!」
無邪気な歓声が、夕闇迫る湖畔に小さくこだまする。スレイもまた、静かに絵を見つめ、そして、僕に暖かい微笑みをくれた。
「ありがとう、シン。とても素敵な絵ね。大切な宝物にするわ」
その言葉は、僕の胸の奥底に、暖かい光を灯してくれた。絵を描くことで、彼女の心に、ほんの少しでも何か温かいものを残せたのなら、これ以上の喜びはない。すると、エアリアさんが立ち上がりながら、眠くなり木陰に座り込むクレアを優しく抱き上げた。
「そろそろおうちに帰りましょうか。皆、少し疲れたでしょう?」
子供たちは遊び疲れたようで素直に頷いた。彼らは夕闇に包まれた湖畔を後にし、家路へと歩き始めた。遠くに見える山脈の稜線から微かに淡い橙色の恒星光が僕たちの足元を、優しく照らしていた。
「あ、そうだシン」
家に向かう道すがら。ふと、エアリアさんが僕に笑顔を向け、思い出したように言った。
「絵が乾いたら、私の地下室に絵をもって来てくれるかしら? 先ほど、カウンセリングの途中だったでしょう? 続きをしましょう」
「分かりました。お願いします」
僕は頷き、水性の絵の具が乾くのを待ちながら、キャンバスを傷つけないように丁寧に画材を片付け始めた。そして、子供たちの後を追うように夕焼けに包まれたエミュエールハウスへと静かに歩き出した。
地下室へ足を踏み入れると、エアリアさんは熱気に包まれた中で、集中した面持ちで作業に没頭していた。ふわりと酒気が漂うあたたかな部屋。精巧なレンズが付いたA・粒子顕微鏡と、複雑な配線が絡み合う見慣れない機械を前に、コンシェルジュドローンに手を添えられ、彼女は真剣な表情で取り組んでいる。周囲には女性らしさもあってか、十字やハート型、さらには星型のモニュメントまで飾ってあった。彼女の部屋をじっくりと観察するのは初めてだったので、僕はしばらくその様子を眺めていた。
しばらくしてエアリアさんは僕の気配に気づくと、作業の手を一旦止め、いつもの優しい微笑みをこちらに向けた。
「絵は十分に乾いたかしら?」
「はい、もう、大丈夫です」僕は、先ほど湖畔で描いたばかりの絵をエアリアさんに手渡した。
「ありがとう、この絵は大事に保管しておくわね」
彼女は丁寧にそれを受け取ると、まるで宝物を扱うかのように、精巧な作りの特殊ケースへと収め始めた。そのケースを、さらに精巧な球形の箱に慎重にしまう。しばらく僕はその手際の良さに呆然としていると、エアリアさんは箱を仕舞い終え、改めて僕に向き直る。
「さて、改めて始めましょうか。エミュエールハウスに来てから、もう半年以上経つけれど、最近、何か心境の変化はあったかしら?」
エアリアさんの穏やかな問いかけに、僕はゆっくりと口を開いた。
「最初は正直言って、あまり良い気持ちでここでの時間を過ごしていたわけではなかったんです。失敗ばかりで、非力な自分の人生を呪いたくなることもありました。でも……色々な人たちと時間を共にしていくうちに、彼らが抱えている葛藤や、社会的な立場、そして、それぞれの苦悩を少しずつ知ることができました。そんな中で、何か自分にもできることがあるんじゃないかって考え始めたんです。でも……」
言葉を区切り、自嘲気味に言葉を続けた。
「結局、そんな彼らに対して僕は何もできないだってこと、思い知らされたんです」
「そうね……もしかしたら、今のあなたにはそう感じるのかもしれない。でも、見ている人は、ちゃんと見ているものよ。そして、あなたにしかできない役割というものも、この世界にはきっとある」
エアリアさんは一呼吸置き再び言葉を紡ぐ。
「それに……私もかつて、あなたと同じように無力感を覚えたことがあったわ。何をしても無駄なんだって。もういっそ消えてしまいたいなんてね……。でも、自分を信じていれば、どんなに辛い時も必ず道は開ける。それに、誰かを………」
エアリアさんの語尾がだんだんと聞き取れなくなっていく。
「ええ⁉エアリアさん最後なんて言いました?」
僕は思わず訊き返したが彼女は首を振る。
「ええ、何でもないわ、最後の方は気にしないで。それはそうとして……絵を描いている時から思っていたけれど、朝のカウンセリングとは、雰囲気も表情もずいぶんと心境が違うようね……。何か、きっかけになるようなことでもあったのかしら?」
彼女の鋭い視線が、僕の心を見透かすように問いかけてくる。きっかけは確かにあった。
「はい、エアリアさんたちが話し合っている間、クレアから、スレイの事情を初めて伺ったんです。その時、リアンが最後に僕に言った言葉を重ねて、自分が今まで悩んでいたことが、いかに小さなことだったのか、思い知ったんです。自分が、どれほど恵まれた環境にいたのかも……」
エアリアさんは、僕の言葉に深く頷きながら、さらに質問を重ねていく。
「あなたなりの葛藤があったのね……。それじゃまた違った切り口から言うわね……最近、何か楽しいことはあった?」
「最近は……、ほとんど家で過ごしていました。でも、今日、皆の絵を描いたことは、本当に楽しかったです」
「それはよかったわね……この街の印象はいかがかしら? 今まで暮らしてきて、どこか気になる場所、また行きたい場所はあった?」
「ダミアン夫妻の経営しているハートフル製菓店、あそこはとてもいいですね。店もこじんまりとしていて可愛らしい外観で、経営している夫婦もとても仲よさそうで、しかも、肝心のケーキは大きくて、甘すぎるのが嫌いな僕にとってはちょうどいいくらいの甘みに調整されていて、とても美味しかったので、機会があればまた行ってみたいです」
「さすがいいところに目を付けたわね。たまにだけど、私もあそこのクレープが好きなの。ついつい行っちゃうから、食べ過ぎて太っちゃうのが心配なのよね……」
「そうなんですね……」
「それじゃあ、切り替えて他のことを聞くわね。——ここに来て、何か新しい趣味は見つかった? 趣味とは言わなくてもいいから何か夢中になれることとか?」
「それは……絵を描くことと、料理をすることでしょうか……」
「確かにそうね。夢中になって取り組んでいたもんね……」
そして、核心に触れる質問が、静かに、しかし確かに僕へと向けられた。
「それで……将来はどのように考えているのかしら? 何か、新しい夢とか、見つかった?」
僕は考える。今日、絵を描く時間の中であの暖かな風景を見て、僕の中で迷いの靄が晴れるように、進むべき道が守るべき世界がはっきりと見えていた。
僕はそのカタチを迷いなくはっきりと言葉にした。
「軍隊に戻りたいと思っています。皆を守れる、そんな存在になりたいと、そう強く思うようになりました」
僕の言葉に、彼女の表情は、僕の決意を心から喜んでいるように見えた。だが、その奥には、僅かながらに自身の信念を貫く者の持つ、揺るぎない覚悟のようなものが垣間見えた。
「そう、軍隊に戻るのね。それは素晴らしい決意だわ。それなら、退職のあいさつに小学校の職員の方々にも、ご挨拶に行かないといけませんね。夏休みの終わり頃に、ご一緒しましょう。それでもシンには今年度まではしっかり働いてもらいます。そういうことでいい?」
「はい、お願いします」全てが決定すると、何だか全身が引き締まる感覚がする。
「それで……大学に戻った時、昔の友人や知り合いはいるのかしら? 遅れてしまった分を教えてくれるような人はいる?それが心配なのよね。特に理系科目は、大学だと課題や友達の協力がないとやっていけないから……」
確かに、これから既に出来上がっている人間関係の中に飛び込んでいくのは、決して容易ではないだろう。それでも、選択肢を与えられた今の僕なら、きっと、混沌の中へも少しずつは進んでいけるかもしれない。一瞬、躊躇がよぎったが、僕は嘘偽りのない、正直な気持ちを口にした。
「それは……これから、また作っていこうと思っています」
「そうね、ここまでの辛いことを乗り越えてきたあなたなら、きっとこのくらいのことは乗り越えられるはずだわ」
エアリアさんは、僕の言葉を静かに受け止めた。少し考え込むように視線を彷徨わせた後、ふと顔を上げ、僕に微笑みかけた。その後も僕たちの会話はしばらく続いたが、エアリアさんがふと口を閉ざした。窓の外に目をやると、いつの間にか日は完全に沈んでいた。
「シン、今日はもう遅いから、カウンセリングはここまでにしましょう。色々話してくれて、ありがとう。とても良い時間だったわ」
立ち上がろうとした僕に、エアリアさんは、何かを思い出したように、言葉を付け加えた。
「あっそうだ、シン。明日から数日、もし時間があれば、私と一緒に、少し遠出してみないかしら? 実は、あなただけに教えたい、私だけの秘密の場所があるの。きっと、気に入ってくれると思うわ、どうかしら?」
全く予想していなかった突然の誘いに、一瞬戸惑いを覚えた。しかし、エアリアさんの優しい笑顔を見ていると、とても断る気にはなれず、僕はただ頷くことしかできなかった。
「はい……喜んで、よろしくお願いします」
エアリアさんは、満足そうに微笑むと、
「決まりね。明日の朝、またここで会いましょう」
そう言って、エアリアさんは微笑んだ。その満面の笑みに、胸の奥が温かい光で満たされていくのを感じた。それは、ただの親愛の情ではない。この道の先に、僕自身の未来だけでなく、リアンが願った世界へと繋がる、もっと大きな意味が隠されているような、そんな予感だった。明日、一体どんな場所に連れて行ってくれるのだろうか。そして、そこで、一体何が待ち受けているのだろうか——僕は、明日へのささやかな期待を胸に抱きながら、地上へと続く階段を、ゆっくりと一歩ずつ登って行った。
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