第19話 それぞれの宇宙(そら) 前編④
D.C.2255年 23期15日 昇恒11時20分 晴れ
場所:エアリアさんのエミュエールハウス
クレアから紡がれる言葉の一つ一つが、僕の全身に冷えた血潮が駆け巡った。
——僕と同い年……?
「——嘘だろ……?」
思わず呟く。スレイが僕と同じ年であることが信じられなかった。壁越しに聞こえる軽やかな子供の声、透き通る白い肌と青竹色のショートヘア、幼い顔立ちを思えば、年齢を口にしなければ誰もが十歳前後だろうと思う。だが、彼女が僕と同じ時を生きてきた事実は、僕の心を激しく揺さぶった。
「スレイちゃんは、この家に最初に来た子なの……それでね……」
クレアは静かに、しかし確固たる口調で説明した。スレイは、幼い頃から資本家の駒として、強制的に薬を飲まされ、その副作用で成長が著しく遅れているのだという。さらに、この薬の影響で彼女の寿命はあと十数年しかないらしい……。
クレアの言葉を聞きながら、僕は自分自身の過去を振り返った。不自由なく育ち、耐えられる努力をし、競争の中で自ら選択して生きてこれた日常を僕は当たり前のように享受していた。しかし、それがスレイにとっては、どれほど遠いものなのだろうか。彼女がどんなに頭を使い、工夫を凝らし、懸命な努力をしても、試験管の中で発生する化学反応のごとく、その人生は強制的で、すでに決められている。そんな彼女のことを思うと胸が締め付けられるとともに、僕は自身の恵まれた環境と、この社会を作り上げた仕組みに対し、深い憤慨と強い無力感を感じずにはいられなかった。
思わず胸に溜まった気泡が沸騰する。しかし、その気泡は不自然に落ちていく。拳を握りしめようとしても、震えのせいで力が定まらない。絡み合った煩悶のせいで、しばらくその場から動けなかった。
ふと、床の間のリアンが、僕に言った言葉が蘇る。「この世界には、自分で自分の人生を決められない人がいる」——その現実が、今、鮮明に目の前に広がっていた。
しばらくして、スレイと彼女の母親、そしてエアリアさんがスレイの部屋から現れた。母親は僕たちに一礼するとその後は何も言わずに帰っていった。続いて、僕たち五人の疑似家族会議がロビーで開かれた。子供たちは目の前のスレイの様子から、何かを察していたようで皆視線が右往左往し、落ち着きのない様子だ。そんな中、まず口火を切ったのはエアリアさんだった。
「早速だけれど、来年の一期からスレイは彼女のお母さんとは別の場所で暮らすことになります。もう一緒にいることはなくなるから、今のうちにスレイとできるだけ楽しい時間を過ごしましょう」
それに対して、子供たちは一斉に「「えー! やだーっ!」」と抗議の声を上げた。
「スレイ、行かないでくれ! 僕、もうクレアを論破できなくなるよ。もっといろんな詭弁を教えてほしい。まだ、クレアに言い負けしたくないんだ!」
「もう少し一緒にいようよ、スレイちゃん。私にもっといろんなこと教えてよ!まだ分からないことたくさんあるのに」と二人は続ける。
僕も、普段なら口を挟むところだが、今はどう答えていいのか分からず、ただ静かにその場の空気を感じていた。家族のようになった彼女と別れるのは寂しい。だが、彼女にとってこれが初めての大きな人生の選択だと理解していたからだ。
すると、いつもは口数が少ないスレイが、皆の前で毅然と立ち、普段抑えていた声を解き放った。
「みんなの気持ち、ちゃんと伝わってるよ……。私、ここに来るまでは、自由なんてなかった。エミュエールハウスに来て、やっと、やりたいことを全部できたって思うの。みんなは、もう、私の本当の家族みたいに大切な存在だよ。でもね……、このまま一緒にいると、いつか、きっと永遠の別れが来る。その時、みんなは、今よりもっと悲しむと思う。私は、みんなと違って、あと数年しか生きられない。それに、延命するために高額な治療費をずっと払い続けるのは難しい。それに何より、私はみんながこの場所で、それぞれの未来を自由に選んで生きていくことを願ってる。私がいなくなっても、みんなには悲しみを乗り越えて、前に進んでほしいんだ。私には、みんなが望むような未来はないんだよ……」
スレイの言葉に、リビングの空気は重苦しく沈んでしまった。そんな重い沈黙を破ったのは、意外にもスレイ自身だった。スレイは再び前を向き、優しい口調でまずはクレアに話しかける。
「クレアは、いつも優しいから、ロミがまた危ない方向に暴走したら、必ず止めてあげてね。ロミを現実に引き戻せるのは、あなたの言葉と勇気だけだと思うの。そして仲良くね。できるだけ喧嘩しないで過ごしてね。それから、あの不思議な『夢』のことで困ったり、不安になったりしたら、一人で抱え込まず、必ずエアリアさんに相談することいい?」
クレアは、今にも泣き出しそうな顔で、懸命に首を縦に振る。
「ロミは、もう少し人に対して謙虚になること。誰かからアドバイスをもらったら、頭ごなしに否定しないで、まずはちゃんと人の話を聞くこと、そして一旦は実行してみて。それでも、無理だと判断したら、その時は自分の判断で行動して構わない。ただし、必ずしっかり考えてから行動するのよ。それから、お兄さんと、もっと未来のこと、ちゃんと話し合ってね、仲良くするんだよ」
ロミは、神妙な面持ちで頷き、スレイの言葉を聞き入っていた。
「エアリアさん、これからも子供たちのことをよろしくお願いします。彼らが、システムの波に流されないように、これから自分の未来を自分の意志で選べるように……どうか、最後まで見守り、導いてあげてください」
エアリアさんは、スレイの真剣な眼差しを受け止め、力強く頷き返した。そして、最後にスレイは、少し考え込むように僕の方を向いた。
「シンは……うーん、なんて言えばいいのかな。シンとは、まだちゃんと話せていないし……うまく言えないんだけど……。でも……あの時、描いてくれた絵、すごく嬉しかったんだ。……だから、お願いがあるの……」
「お願いって、何?」僕はスレイの顔をはっきり見る。するとスレイは少し考えるようにうつむいていたが顔を上げる。
「今度は、みんなと私の絵を描いてほしいな……。私たち家族の、大切な思い出になるような……。これが、私からシンへのお願い。だめ、かな?」
スレイの、胸の内を絞り出すような言葉に、僕はただ静かに頷くことしかできなかった。あの時も、僕は絵でしか彼女を喜ばせることができなかったからだ。すると、スレイは少し表情を明るくして、でもどこか決意を込めたように言った。
「それじゃあ、シンは外で描いてくれない? それで……皆」
スレイが子供たちの方を向く。
「ねえ、私……皆と一緒に外で遊びたいな……。今まで、ずっと家の中で本を読んだり、勉強ばかりだったから……。皆、いいかな?」
スレイの予想外の提案に、ロミとクレアの表情がぱっと輝いた。待ちきれないとばかりに椅子から勢いよく立ち上がり、スレイの手を引いて外へ行こうと急かした。
「じゃあ、早く行こうよ、スレイ!」
「スレイちゃん、行きましょ!」
二人に手を引かれながら玄関へ向かおうとした時、スレイはふと足を止め、振り返ってエアリアさんに向き直った。
「エアリアさんも、一緒に来てくれませんか……?」
その突然の誘いに、エアリアさんは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの優しい笑顔に戻り、少し照れたように顔を上げ、小さく微笑んだ。
「——しょうがないわね……。一緒に行きましょう」
エアリアさんの言葉に、子供たちの喜びは最高潮に達した。僕は、彼らの楽しそうな声を聞きながら外へ出ていくのを見送り、急いで二階の自室へ駆け戻った。画材を部屋から取り出し、彼らを追うように家を飛び出した。
子供たちの明るい笑い声が、夏の陽光にきらめく湖面に吸い込まれていくように、湖畔一帯に朗らかに響き渡っていた。木漏れ日が水面の揺らぎをキラキラ煌めかせ、そよ風が緑葉をそよがせる。その下でクレアとロミは、無邪気に湖畔を駆け回る。スレイは少し遅れて、しかし一歩一歩を確かに踏みしめながら、その目に映る景色を大切に刻み込むように歩いていた。エアリアさんは、そんな子供たちを、慈愛に満ちた眼差しで見守っている。
僕は彼らから少し距離を取り、湖畔の開けた場所に腰を下ろした。画材箱をそっと開き、パレット、絵筆、そして白いキャンバスを前に、深呼吸をする。目の前に広がるのは、つい先日まで室内に閉じこもっていた僕には、まばゆいばかりの色彩を放つ、解放された世界だった。空のどこまでも澄んだ青、湖の深く静かな碧、木々の生命力溢れる緑、そして何より、子供たちの屈託のない笑顔。それらの色彩が夏の陽光の下で溶け合い、息をのむほど美しい光景を作り出していた。僕の心を温かく満たしていく。この光景を描くことで、僕自身の未来の輪郭が鮮明なるのではないか、そんな希望が浮かんでくる。
しかし、僕の心の奥底には、まだ拭いきれない翳りが残っていた。リアンの喪失、そしてクレアの背負う過去を知り、僕はこれから何をすべきなのか、逡巡を繰り返していた。それでも、僕には「選択する」という機会が、今の僕には与えられている。その重みを、そしてかけがえのなさを、改めて噛み締めながら、僕は絵筆を握る準備を始めた。
「キャハハ!」「わ~い」
「ロミはもうちょっと抑えて、服が汚れちゃう!」
「クレアもそんなに深いところに行って大丈夫なの⁉ 人の事言えないよ!」
「スレイちゃんもこっちに来て!」
「もう、しょうがないね……」
湖畔の浅瀬では、ロミ、クレア、スレイがぴしゃぴしゃと水しぶきを上げて戯れていた。照りつける夏の陽光で熱を帯びた空気の中、水しぶきが刹那に花咲かすたび、思わず僕の肌に一瞬の涼を錯覚させる。陽気な笑い声が、ゆらぐ残熱風に乗って僕の耳まで届く。
「エアリアさんも一緒に、早く来て!」
「はいはい、行きますよ」
少し離れた場所で、エアリアさんは静かに湖面を見つめていたが、子供たちの歓声に誘われるように、三人の輪に加わった。そして始まったのは、子供の頃に戻ったかのような、まるで無邪気な天使たちの遊戯だった。
ぴしゃり、ぱしゃり。
「待てーーーーーークレア!」ロミは走る。口を「く」の字にし、顔から汗を弾かせながら。
ひらり、ゆらり。
「キャハハ~~~ロミは追いつけないよ~~~!」クレアは駆ける。満面の笑顔を咲かせ、白いスカートをひらめかせながら。
ひらり、ひゅるり。
「二人とも待って頂戴!……はぁはぁ……最近色々あって動いてないからさ……はぁはぁ……」
「エアリアさんが困っているからゆっくりにして二人とも!」
そんなあたたかみをもった四つのカタチが水しぶきとなって湖面に弾け、地に飛び込み、輻射熱が大きな弧を描きながら回る。その天真爛漫な光景は、まさに「天衣無縫」という言葉がふさわしかった。
僕はその光景を見つめながらキャンバスに、空と湖の広大な広がりを描き始めた。世界の真実を知り、硬く閉ざされていた僕の心を映すように、最初は筆の動きも硬い。淡白なブルーの絵の具が、キャンバスにぎこちなく広がる。
だが、世界が変わる。
無邪気に遊ぶ彼女らの声が聞こえ、温かさが弾ける様子が目に入ると、その凍りついた心が溶けていくように、筆は次第に滑らかに、大胆に動き出した。澄み切った青空の色、湖の深く静かな碧を、ためらいなく重ねていく。筆を走らせるたび、目の前の景色が僕の感情とともにキャンバスへと転写されていくようだった。
時折、子供たちが絵筆を持つ僕の周りに集まってきて、キャンバスを覗き込む。
「何描いてるの?」「わあ、きれーい!」と、飾らない言葉で感想を口にする。
「シンは、本当に絵を描くのが上手だね」
ふと、スレイが静かに話しかけてきた。その声は、そよ風が木々の葉を揺らす音のように、穏やかで優しい。
「どういたしまして」
僕は絵筆を動かす手を止めずに、短く応えた。多くを語る必要はない。今の僕にできる精一杯の応えは、ただ絵を描くことだけだから。
ゆっくりと、しかし確実に時間は過ぎていく。夏の日光は西へと傾き、湖面は夕焼けの色を映し出すようにオレンジ色に染まり始めた。皆遊び疲れたのだろう、子供たちの笑い声も次第に静まり、スレイは湖畔を見つめ、クレアはエアリアさんの膝の上でうとうとし、ロミは地面に座って小石を弄んでいる。そんな中、暖かな雰囲気に包まれた空間が広がっていた。
目の前に子供たちの賑やかな姿はなくとも、僕の筆は止まらなかった。まず、空の繊細なグラデーションを筆を細かく動かしながら、丁寧に、丁寧に描き込んでいく。オレンジ、ピンク、紫、そして群青色。空に広がる色彩のハーモニーを、そして、湖面に映る光の反射を、指先に神経を集中させ、キャンバスへと丁寧に映し込み、情感豊かに表現する。無邪気に輝く笑顔のロミ、長い髪をしならせ微笑むクレア、慈愛に満ちたエアリアさん、そして儚くも美しいスレイ。それらの輪郭を、夕暮れ時の柔らかな光で、そっと、しかし力強く縁取った。画布の中の彼らを見つめていると、この暖かく、穏やかな雰囲気を、永遠に閉じ込めておきたいという思いが溢れ、僕が進むべき道の輪郭が、目の前にある絵のように、心の中にくっきりと浮かび上がってきた。
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