第19話 それぞれの宇宙(そら) 前編③
D.C.2255年 22期 5日 降恒0時50分
「僕は今まで、スレイさんのこと心配してあげられなくて、ごめんなさい……!」
炎天下の空の下。締め付けるような湿気が漂う中。会って早々、リアンは私の目を見て、涙を溢れさせながら謝罪の言葉を口にした。完璧な人物だとばかり思っていた彼が、これほどまで他者に情熱を注げる熱い心を持つ青年だったとは。それは、私にとって初めて知る彼の一面だった。
「私は大丈夫だよ。エアリアさんの家に来てから、皆さんと楽しく過ごせているから、気にしないで……」
そう答えた私に、リアンは首を横に振った。
「いや、僕は……死ぬ前に、どうしてもやっておきたいことがあったんだ。医者からはもう長くないと言われている。だから、今、こうして君と話しているんだよ」
エミュエールハウスに住む私たちは、エアリアさんたちの会話から、彼が遺伝性の癌に侵され、余命いくばくもないことを既に知っていた。
彼は、今まで見たことのないほど神妙な面持ちで、ここに来るまでの経緯、そしてこの間に至った心境の変化を、静かに語り始めた。その真実を知り、リアンの心の痛みが、まるで自分のことのように伝わってきた。
「僕は……そうやって、これまで何度もたくさんの友達を見捨ててきた、何度も立ち向かおうとしたけれど……どうしようもなく怖くて逃げだしてきたんだ。彼らを救えなかった。だから、こんな情けない今の僕にできるせめてもの贖罪として、こうやって困っている人に寄り添って話し相手になったりして、できる限りの行動をしているんだ。社会的弱者が生きていくには小さいコミュニティーで協力していくしかないからね」
リアンの言葉に、私は思わず問い返した。
「でも、仕方ないじゃない。今は資本主義の世の中だよ。あなたに、それを根本から覆せる力なんてないでしょう?」
私の問いに、リアンは静かに頷いた。
「確かに、僕に力はないよ。でも、僕はどうしても許せないんだ。生まれた時から、持っているお金の量で運命が決まってしまうような人生なんて……腸が煮えくり返るほど、僕は嫌悪している」
リアンの言葉から、彼の深く抱える憤りを感じ、私は彼の思考を辿り、一つの結論を口にしてみた。
「でも、お金を使わない経済システムなんて、非現実的じゃないんじゃない? 食べ物を買う時も、欲しい家具や勉強道具を買う時だって、値段は必要になる。チケット制とか、配給制にするの? それって、社会主義国家と何が違うの?」
私の疑問に対し、リアンは落ち着いた口調で答えた。
「確かに、スレイさんの言う通り、モノやサービスが欲しい時に値段がないと、社会は上手く回らないだろうね。それは、今の生体をもった人間社会では恐らく無くならないと思う。しかし、資本主義で最も問題なのは、人の欲望によって市場、いや社会全体が、ひいては人の生命までもが大きく左右されてしまうことなんだ」
「人の欲望によって市場が変化することの、何がいけないの?」
私はまだリアンの考えが理解できない、少し考え込みながら、率直な疑問を彼にぶつけた。
「それが問題なんだよ、スレイさん。例えば極端な例だけれど、もし誰でも簡単、確実、そして安価に天国へ行けるとしたら、スレイさんはどうする?」
「——なに、それ? いきなり異端者みたいな、突拍子もない空想話を始めるの?」
リアンのあまりにも突飛な問いかけに、私の心臓は口から飛び出そうになった。
「例え話だよ、スレイさん。もし、人間の快楽が完全にコントロールされ、まるで天国という名の極楽に浸るように、際限なく快楽に溺れることのできるサービスが生まれたとしたら……どうなると思う?」
私は、リアンの問いに、しばらくの間、真剣に思考を巡らせた。そして、一つの可能性に思い至り、口を開いた。
「——確かに、皆が働く意味を見失って、経済は活性化するどころか、誰も何も行動しなくなってしまうかもしれないわね」
「そうなんだよ、スレイさん。人間を含めた生物は、本質的に、楽と苦を絶えず行き来し、そのバランスを保ちながら生き続ける、不完全な存在なんだ。それが、人間が作り出したシステムによって、どちらか一方に極端に傾いてしまうと、人間は健全な活動をしなくなってしまう。だから、本来、政府は、過度な快楽に対して、例えば麻薬などを厳しく取り締まるし、極度の苦境にある人々には、援助をして社会全体が崩壊しないように、バランスを取る必要があるんだ」
リアンの言葉に、私はうなずく。彼が本当に言いたいことを理解し始めた。
「——確かに……人間は、どうしても楽な方へ逃げてしまう弱い生き物だよね……。そこに付け込んで、際限なく欲望を煽り、市場を拡大させ続けてしまうのが、資本主義の抱える根本的な問題……ということなのね」
私の言葉に、リアンの表情がパッと明るくなった。まるで、暗闇の中で一条の光を見つけたように。その明るい眼差しは、私の心の奥底まで届くようだった。これまで彼が纏っていた沈鬱とした表情が崩れ去り、まるで天使の様なその剥き出しの感情に、私はゆらぎながらも、なぜか深く引き込まれていった。
「そう、スレイさんの言う通り。そして、さらに恐ろしいことに、苦、さらには死でさえも商売にする人間が、いつか現れる可能性だってある。そして、そうした暴走を食い止めたり、過剰な富に税を課して再分配したりすることで、社会全体のバランスを辛うじて保つのが、本来の国や政府の役割なんだ。だけれど……今の政府はそんなことは出来ていない。システムの傀儡となって残念ながら、深く腐敗してしまっている。それは、政府自身が持つ身体拘束力、つまり暴力を背景にした権力を、貨幣を絶対的なものとして、自身の利益のために濫用してしまっているからなんだよ」
リアンの告白に、私は改めて、深く考え込んだ。そして、今、この社会が抱える問題の根深さを、リアンを通して改めて認識した。
「——じゃあ、一体どうすればいいの? 私たちは、一体何ができるの?」
私の問いかけに、リアンは静かに、しかし力強く答えた。
「市場の歪んだバランスを、再び正常な状態に戻すためのシステムを、一人一人が真剣に考えることが、今の社会にとって最も大切なことだと、僕は思っている。けど……それを実現するには、選挙という民主主義のシステムを通して、社会全体を変えていくしかない。そのためには一人一人が社会と真剣に向き合う強い意志やこうなってほしいという願望が必要なんだ。それは、今の時点では非常に困難で、気の遠くなるような道のりだ。けれど……それでも、僕は……僕は信じているんだ。いつかきっと、皆が社会を変えようとする意識を持ち、貧困や格差に苦しむ人がいない、本当に豊かな社会を築いてくれるとね。それは、シンや、クレア、そしてこれから生きていく若い世代の人たちが、きっと成し遂げてくれると、僕は信じている。だから僕は……それを願いながら、死んでいくことができるよ……」
私もリアンにつられ、周囲を見る。
燦然と躍動する子供達の暖かさ、ライアン夫婦と子供の柔らかくゆれる情景。
一方で視線を戻すと、リアンの表情は、希望に満ち溢れ、冷たくて静かな面妖な光を放っている。しかし、その決意の強さとは裏腹に、彼の表情には、寂しげな影が落ちているようにも見えた。
間近に接する生と死。
私は、リアンの静謐な表情を見つめていると、胸焼けが起きるような、何とも言えない閉塞感に襲われた。
「リアンは……死ぬのが、怖くないの……?」
ふと、あたたかい風が私を舐める。
私の問いに、リアンは少しの間、考え込むように目を伏せた。そして、ゆっくりと顔を上げ、静かに揺らぎながら、頼るように私に目線を託していた。
「——うん、確かに怖いよ。今だって……考えるだけで震えるよ……。でも、それは僕ら生き物に与えられた、逃れられない宿命なんだよ。 生きたいという欲求と、死への恐れ、その間で揺らぎながら僕たちはバランスを保って生きている。……でも……誰かに、何かに、利用されない人生ほど、悲しいものはないよ。今の世の中、そんな人生を強いられている人々が、数えきれないほどいるんだよ。そのような人々を思えば、僕は……まだ、自分の意志で、行動を選べている。それだけで、充分、僕は幸せ者だと言えるよ」
リアンの言葉は、胸に鋭い針のように突き刺さった。彼の絶望と希望が、私の頭の中で何度も反芻される。夏の日差しは容赦なく熱く、しかし私の心は鉛のように重苦しかった。欲望、腐敗、死……これらの言葉が迷路のように脳裏を巡り、夏の暑さと、心にのしかかる鉛のような重みが、いっそう増していくように感じられた。私は自問する。
「このままでいいのだろうか。私はリアンのような高邁な志を持たないけれど……」
その時、彼は静かに告げた。
「スレイさん、このまま自分の能力を信じ続ければいいんだ。僕の分まで、ロミやクレア、もっと弱い立場の人たちを支えてあげてほしい」
その言葉が、私の胸を温かく包み込むような風を起こした。
「ありがとう、リアン。あなたの言葉、私……大切にするよ」
「スレイさん、僕の方こそこんな懺悔を快く聞いてくれて、本当にありがとう」
そう彼はにこりと笑った。その笑顔は、今思えば本物の天使の微笑みだった。
完璧に見えたリアン。初めて会った時から、彼はどこか現世離れしていた。クレアと話す姿を遠目に見ていた頃は、その内奥に苦悩が潜むとは想像もできなかった。しかし、この日、私は知った。彼の完璧さは、脆い仮面だったのだと。その内側には、社会への深い憤りと、抗えぬ無力感が渦巻いていた。死を目前にして、彼は人生を静かに振り返り、それでも未来に微かな希望を託そうとしていた。彼の人生は確かに苦難に満ちていた。それでも、彼は人のために、ただひたすらに生きてきたのだ。
エヴァンさんの畑では、皆の賑やかな声が響き、陽光は高く、世界は熱気に満ちていた。
数週間後、リアンは逝った。葬儀の日の。真夏だが透き通るような涼しい風が吹く中、私はエミュエールハウスのウッドバルコニーから夜空を見上げた。あの時、リアンの穏やかな顔が鮮やかに蘇る。彼はまるで、陽の光を一身に浴びて、内側から輝いているようだった。私にも、いつか彼のような確固たる信念を持って生きられる日が来るのだろうか。自分の意志で、人生を切り拓けるのだろうか。リアンの言葉は、私の心に深く根を下ろし、痛みと共に、それでも前へと進むための礎となった。明確な答えはまだ見えない。けれど、彼の問いかけを、私は決して忘れない。彼の言葉を胸に、これからどう生きるべきか、絶えず自問自答を繰り返すだろう。そして、いつかリアンのように、誰かのため、社会のために何かを成し遂げたいと強く願う。彼の恒星光のような輝きを放つ笑顔は、今も私の胸の中で、確かに生き続けていた。
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