第19話 それぞれの宇宙(そら) 前編①
~D.C.2251年 4年前 翌日~ 昇恒6時00分 天候:晴れ
東の空がゆっくりと白み始め、遠くの無機質なビル群の隙間から、眩い朝日がじわりと顔を出した。その光はまるで川沿いの静かな峡谷にいる私たち親子の、束の間の温かい抱擁をそっと祝福してくれているかのように暖かいものだった。私たちは別れを惜しむように、互いの体温を感じ合いながら、長い時間をかけて抱きしめ合っていた。
「それじゃあ、元気でね、スレイ。どんなことがあっても、ちゃんと生きていくんだよ」
「——嫌だ。やっぱり……私……お母さんと離れたくない」
「大丈夫よ。見た目はまだ幼いかもしれないけれど、あなたは昨日、確かに一五歳になったの。少しだけ大人になったのよ」
——そうだったの……。
改めてその事実を意識する。母との間にできたほんのわずかな空間から自分の体を見下ろすと、それはまだ子供のままだった。拭いきれない将来への不安が、体の奥底から汗と共にじわじわと湧き上がってくる。
「そうは言っても……私にはもう市場価値がない。会社の組織を辞めてしまった私には、社会関係資本も自分で稼ぐ力なんてない。これから一体、どうやって生きていけばいいんだろう……」
すると母は、悲しそうな表情を浮かべながら、ゆっくりと抱擁を解き、両手で私の手を包み込むように握りしめた。そして、私の瞳をまっすぐに見つめ、真剣な眼差しで語り始めた。
「大丈夫よ。あなたは誰よりも賢い。だからあなたの内に秘めた力を、きっと見つけてくれる人が現れる。人は決して一人の力だけでは生きていけない。誰もが人の力を借りれないと生きていけないの。だから、どうか心配しないで……きっと、大丈夫だから」
「うん、お母さん……心配してくれて……ありがとう」母は続ける。
「スレイ、これから生きていく上で本当に大切なのは、人の表面だけで判断しないことよ。今は、人を数字や見た目で簡単に判断してしまっているでしょう。あなたはそんなすぐに相手を決めつけるようなことはしてはいけない。いい、時間をかけて、じっくりと相手を見つめて、言葉を交わすの。時には、相手を知ることで悲しみや辛さを感じることもあるかもしれない。それでも、その痛みや苦しみを正面から受け止めること、するとそこで初めて、その人の本当の良さが見えてくるものなのよ」
私は溢れ出しそうになる涙を懸命に堪えながら、静かに頷いた。
「心配しないで。私はあなたのため、そして未来の子供たちのために働く。私は決して、あなたの生きる未来を諦めたりはしない……いい?」
私は力強く頷いた。言葉にしなくても、母の想いがじわりと伝わってくる。
「よし、じゃあ、あなたに必要な物を全部買い揃えて送り出すわよ。少し、名残惜しいけれど……そこの荷物を片付けてくれる?」
私たちは昨日暖を取った焚火の跡を丁寧に片付け、埃を払った車に乗り込んだ。街へと向かう道すがら、生活に必要な様々な日用品を買い揃えるため様々な店に寄った。ホームセンターでは、母が『これは一人暮らしには必須よ』と私が使ったことのないさまざまな道具の使い方のコツを教えてくれたり、フレモショップでは『あなたの好きな色を選んでいいのよ』と、私が自分で選ぶことを促してくれたりした。お金さえあれば何でも簡単に買えるはずなのに一つ一つの日用品が、まるで母からの贈与のように感じられ、私の胸に温かい希望が灯る。初めて母と二人きりで行く買い物は、これまで経験したことのない、宝物のような特別な一日となった。そして車に再び乗り込み移動するとそれは見えてきた。人々の喧騒が聞こえ始めるような賑わいを見せる駅、レガリス中央駅。ついに私は彼女と別れの時を迎えることになった。
巨大な六角錐のガラスドームが広がる駅前のロータリー、騒がしさの中で車は停車した。母は名残惜しそうに運転席から降り、私の目の前にゆっくりと歩み寄って立ち止まった。そして、言葉の代わりに、最後にもう一度、体温を確かめ合うように強く抱きしめ合った。抱擁を終え、ゆっくりと身体を離すと、私は押し寄せる人波に逆らうように駅へと歩き始めた。周囲には今までに嗅いだことないような生温かな人の香り。人の話し声、けたたましいアナウンス、そして絶え間なく行き交う車の騒音に私は包まれていた。遠ざかる母に私の声はきっともう聞こえないかもしれない。それでも願いを込めるように胸いっぱいの声を振り絞って声を上げる。
「お母さん、じゃあ、またね!」
すると、遠くから聞こえる母の優しい声が、少しだけ間を置いて届いて来た。
「——最後に違うことを言ってもいいかしら……?」
こみ上げる寂しさを押し殺して、私は小さく頷いた。
「スレイ……15歳のお誕生日、おめでとう!」
その優しい声が、騒がしい駅の喧騒の中に、奇跡のように鮮明に響いた。建物の隙間から差し込む陽光を浴びて、キラキラと輝く母の笑顔が、私の目に焼き付いた。込み上げてくる熱いものが、視界を滲ませる。確かに感じた母の深い愛情。様々な感情が胸の中でじんわりと広がり、言葉にならない感謝を伝えようと、私は大きく手を振り返した。小さくなっていく母の姿をしっかりと目に焼き付けながら、未来への小さな希望を胸に、私は力強く高速列車に乗り込んだ。発車のベルが胸に重く響き、列車はゆっくりと、しかし確実に、私の新たな人生へと向かって走り始めた。
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