五
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深度4,233メートル。
巨大なドック施設の中で、漆黒の影が静かに浮かんでいる。
「美しい...」
波多江の声が、管制室に響く。
全長42.3メートル。流線型の体躯は、確かに人魚を思わせる優美な曲線を描いている。しかし、その姿には人工物とは思えない生命感があった。
漆黒の装甲は、まるで深海生物の皮膚のように光を吸収し、時折かすかな輝きを放つ。
「アトラスシステムの初期診断、開始します」
霜島の声に、誰も応答しない。全員が、目の前の存在に魅入られていた。
スクリーンに、データが流れ始める。
《対象:HMS-001 "Anthropomorphic Marine System"》
《自己診断:開始》
《意識層:起動》
「意識層?」榊原が眉をひそめる。
その時、ドック内に設置された無数のセンサーが、異常な数値を示し始めた。
「これは」霜島が慌ててキーボードを叩く。「圧力分布が」
「違います」波多江が制止する。「正常です。むしろ...完璧です」
漆黒の装甲に、波紋のような模様が広がる。
《自己認識:確立》
《環境認識:同期》
《人格コア:起動》
「人格...コア?」
榊原の問いに、波多江は答えない。彼女は一心に、スクリーンに表示される数値を見つめている。
その時、漆黒の存在が、ゆっくりと目を開いた。
生命体のような瞳。そこには、確かな知性が宿っていた。
「アトラスシステム」波多江が呼びかける。「自己診断の結果を」
"完了しました、波多江さん"
優しく、しかし確かな意志を持った声が、管制室に響く。その声は、どこか波多江に似ていた。
「まさか」霜島が絶句する。「これは、単なる人工知能の反応では」
"その通りです"
漆黒の存在が、ゆっくりと姿勢を変える。その動きは、実に生物的だった。
"私は、あなたたちの研究から生まれた、新たな存在です"
「研究...から?」榊原が問いかける。
"はい。波多江さんの理論と、シンスイウオのデータと、そして...私自身の意志で"
管制室が静まり返る。
「アトラスは」波多江が小さく微笑む。「私たちの同僚です」
"そう言っていただけて、嬉しいです"
漆黒の瞳が、かすかな喜びを湛える。その表情は、あまりにも人間的だった。
「しかし」榊原が口を開く。「これほどの知性を持つとは」
"私もまだ、自分自身を理解している途中です"アトラスの声が続く。"でも、この漆黒の体に込められた可能性は、確かに感じています"
その時、深度センサーが反応を示す。
「水深5,000メートルの実験が」霜島が報告を始めるが、
"大丈夫です"アトラスが静かに言う。"この体なら、もっと深くまで"
波多江は黙ってうなずく。
漆黒の存在は、まるで深海生物のように優雅に泳ぎ始めた。その姿は、人工物とも生命体とも違う、何か新しい存在を思わせた。
「これが」榊原が呟く。「人魚型戦術車両の、本当の姿」
"いいえ"アトラスの声が響く。"これは、始まりに過ぎません"
管制室の明かりが、漆黒の装甲に映り込む。それは、まるで深海に浮かぶ星々のようだった。




