四
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「ここが...」
榊原は目の前の建物を見つめた。硫黄島の端に建つ実験棟は、呉の施設とまったく同じ外観を持っている。
「まさか」霜島が絶句する。「完全に再現したんですか?」
「はい」佐伯は穏やかに頷く。「波多江研究員の希望通り」
波多江は、すでに建物の中に駆け込んでいた。
「同じです!」彼女の歓声が響く。「実験台の配置も、計測器の種類も。あ、この傷まで」
「傷?」榊原が中に入る。
「はい。先月、イワシの実験の時に」
「イワシは」榊原は思わず額に手を当てる。「もういい」
実験室の内部は、確かに呉の施設と寸分違わぬ複製だった。ホワイトボードの配置、実験器具の並び、窓からの光の入り方まで。
「これなら、研究の継続性も完璧に保てます!」波多江は嬉しそうに実験台を撫でる。「シンスイウオの行動解析も、人魚型推進システムの改良も」
その時、彼女の動きが止まる。
「あれ?」
実験室の隅に、見覚えのないドアがある。
「あ」佐伯が小さく声を上げる。「それは」
波多江は、まるで秘密を見つけた子供のように目を輝かせ、ドアに駆け寄る。
「ちょっと」榊原が制止しようとするが、
「開けても、大丈夫です」風間が静かに言う。
波多江がドアを開ける。
「え?」
「これは」霜島が覗き込む。「まさか」
ドアの向こうには、波多江の自宅が広がっていた。
「私の...部屋?」波多江が呆然と中に入る。「ホワイトボードの位置も、本棚の並びも」
「研究の効率化のため」佐伯が説明を始める。「住居と実験室を直結させる形で」
「これで通勤時間0分です!」波多江が突然、満面の笑みを浮かべる。「実験のための時間が、さらに」
「その分、寝てくれ」
榊原の言葉に、実験室が静まり返る。
「はい...」波多江は小さく頷く。「でも、この環境なら」
彼女は自室のホワイトボードに駆け寄り、新しい数式を書き始める。
「シンスイウオの行動パターンと、深海圧力の相関が」
「波多江君」榊原は諦めたように言う。「まずは荷物の整理を」
「あ、でもこれを見てください!」彼女は振り返る。「水深4,233メートルでの圧力変動が、実は42.3秒周期で」
実験室と自室が直結した空間で、波多江は完全に研究モードに入っていた。
「結局」霜島が小さく呟く。「同じですね」
「ええ」榊原は微笑む。「むしろ、これで安心した」
風間と佐伯は、黙って波多江の姿を見守っている。
「でも」霜島が二人に向かって尋ねる。「なぜここまでの配慮を」
その時、波多江の歓声が響く。
「あ!冷蔵庫の中身まで同じです!」彼女は自室から声を上げる。「イワシの切り身が」
「wave多江君」榊原の声が強まる。「イワシは」
「違います!」彼女は実験室に戻ってくる。「今度は、シンスイウオの生態を参考に、イワシの筋繊維構造を」
「だめだ」
波多江の熱心な説明は、榊原の制止の声に遮られた。しかし彼女の目は、すでに次の実験のアイデアで輝いている。
実験室の窓から、硫黄島の荒涼とした風景が見える。その地上の寂しさとは対照的に、波多江の研究への情熱は、さらに燃え上がろうとしていた。




