三
三
「これが...硫黄島」
霜島の呟きが、ヘリコプターの機内で消える。眼下に広がる島は、想像していたよりもはるかに小さく、寂しげに見えた。
「あれだけの予算を、この島に?」
「表層は見かけ以上のものがあります」
佐伯の言葉に、榊原は目を細める。
一方、波多江は終始、タブレットの資料に没頭している。
「波多江君」榊原が声をかける。「着任地の風景も」
「ああ!」彼女は突然タブレットから顔を上げ、目を輝かせた。「榊原さん、この実験用ドックの深度!4,233メートルまで到達可能で」
「波多江研究員」佐伯が慌てて制止する。「その資料は」
「あ、すみません」彼女は小さくなる。「でも、このスケールは想像を超えていて。しかも、地下の研究施設は」
「地下?」榊原と霜島が同時に声を上げる。
ヘリコプターが、島の小さな滑走路に着陸する。降り立った一行を、整然と並んだ自衛隊員たちが出迎えた。
「こちらへ」風間が先導する。
一見すると質素な研究棟に見える建物に入ると、全く異なる世界が広がっていた。
「まるで...未来都市」
霜島の声に、誰も否定しなかった。
エレベーターは、驚くべき速度で地下へと降下していく。デジタル表示が、地下200メートル...300メートル...と刻々と変化する。
「深度4,233メートルまでの実験用ドック」佐伯が説明を始める。「最新鋭の工学施設群。そして」
エレベーターが停止し、扉が開く。
「これが、メインコントロールセンターです」
巨大なホログラム地図が、空中に浮かんでいる。海底地形の精密な3Dマッピング。無数のモニターには、深海の様々なデータが表示されている。
「すごい!」波多江が駆け出す。「これなら、シンスイウオの行動パターンも完全に」
「波多江君」榊原が呼び止める。「まずは全体の説明を」
「はい...」彼女は不満そうな表情を見せるが、すぐに別のホログラム表示に目を奪われる。「あ!このデータは」
次の一時間は、まるで未来の博物館を巡るようだった。最新鋭の研究設備。完璧な環境制御システム。そして、驚くべき規模の実験施設。
「この施設の総面積は」佐伯が誇らしげに説明する。「地上の硫黄島の約1.2倍」
「地下に?」霜島が絶句する。
「はい。そして海底部分を含めると」
「波多江研究員の要望を、全て実現できる環境です」風間が穏やかに付け加える。
波多江は、まるで夢の国にいるかのように目を輝かせている。
「これで、人魚型推進システムの実用化も」
「ただし」佐伯が付け加える。「地上の研究施設は、従来通りの」
「え?」波多江の表情が曇る。
「心配には及びません」風間が微笑む。「波多江研究員の...希望は叶えてあります」
彼女は首を傾げたが、すぐに新しい実験装置に気を取られる。
榊原は、この巨大な地下施設を見渡す。表層には小さな島。その地下に、このような未来都市が。そして、その目的は。
「風間少佐」
「はい?」
「この施設の本当の目的は」
風間は、僅かに表情を引き締めた。
「それは」
その時、大きな歓声が響く。波多江が、巨大な実験水槽の前で飛び跳ねていた。
「シンスイウオの完璧な環境再現が!これは、まさに理想的な」
彼女の無邪気な喜びに、榊原の問いは宙に浮く。
地上400メートルの深さで、未来と秘密が交錯する研究施設。その真の姿は、まだ誰にも見えていなかった。
ただ、波多江だけは、純粋な研究の歓びに満ちていた。
「榊原さん!」彼女が呼びかける。「この実験装置の精度が信じられません!42.3ピコメートルの誤差で」
「波多江君」榊原は思わず微笑む。「まずは、一通り説明を」
メインコントロールセンターの天井には、巨大なホログラム海図が浮かび続けている。そこには、まだ誰も見たことのない深海の姿が、静かに映し出されていた。