二
二
防衛大臣専用機の機内は、静かな緊張に包まれていた。
「これが、異動の手続き?」
霜島は、窓から見える雲海を見つめながら呟く。離陸前、滑走路上空でブルーインパルスが描いた祝賀飛行の光景が、まだ網膜に焼き付いている。
「波多江君、シートベルトは」
榊原の声に、前の座席で振り返る波多江。
「大丈夫です!それより榊原さん、この資料を見てください!」彼女は興奮した様子でタブレットを掲げる。「私たちの新しい実験設備の仕様が」
「波多江博...研究員」同行している佐伯参事官が静かに声をかける。「その資料は、まだ」
「あ」波多江は慌ててタブレットを隠す。「ごめんなさい。でも、この規模の予算が付くなんて!」
「波多江君」榊原は溜息まじりに言う。「予算の話は」
「42.3億です!」
機内が凍りつく。
「42.3...億?」霜島が絶句する。
「いえ」佐伯が慌てて訂正を入れる。「それは一部の...」
「全体では423億です!」波多江の目が輝いている。「これがあれば、深海での完全な環境再現が」
「波多江研究員」今度は風間が、珍しく厳しい口調で制止をかける。
「はい...」波多江は小さくなる。「でも、この実験設備があれば、シンスイウオの生態も」
彼女の言葉が途切れる。機内のモニターに、目的地までの航路が表示された。
「これは」霜島が画面を凝視する。「南の...」
「詳細は着任後に」佐伯が穏やかに、しかし確固とした口調で言う。
「風間少佐は?」榊原が尋ねる。
「私は別ルートで」風間は微かに笑みを浮かべる。「潜水艦での移動となります」
「潜水艦!」波多江が飛び上がりそうになる。「私も」
「波多江君」
「波多江さん」
「波多江研究員」
三つの制止の声が重なる。
「はい...」
彼女は不満そうな表情を見せたが、すぐに窓の外に広がる雲海に見入る。
「でも、新しい実験場は素晴らしいはずです」彼女は夢見るような声で言う。「シンスイウオのような、深海と表層の境界に生きる生物の研究に、最適の環境が」
その時、機内アナウンスが響く。
「まもなく、給油のため着水いたします」
「着水?」霜島が目を見開く。
窓の外に、海上自衛隊の最新鋭護衛艦が見えてきた。
「ここからしばらくは」佐伯が説明する。「海路での移動となります」
「すごい!」波多江が身を乗り出す。「あの護衛艦、最新のイージスシステムを搭載した」
「波多江研究員」風間が優しく制する。「それも機密情報です」
「あ、はい」彼女は申し訳なさそうに頷く。「でも、この豪華な移動手段には理由があるんですよね?私たちの研究が、それだけ重要だってことの証明です!」
榊原と霜島は、複雑な表情を交わす。確かにこの破格の待遇は、彼らの研究の重要性を示している。しかし同時に、何か別の意図も感じられる。
専用機が海面に着水する。波しぶきが窓を叩く音が、まるで未知の深海からの呼び声のように聞こえた。
「着任地では」風間が静かに言う。「きっと、波多江研究員の期待以上の発見が待っているはずです」
その言葉に、榊原は何か不穏な予感を覚える。しかし波多江は、まるで子供のように目を輝かせ、護衛艦に近づく専用機の動きを見つめていた。
空には、祝賀飛行の航跡がまだかすかに残っている。それは、彼らの新たな船出を祝福すると同時に、どこか深い場所への誘いのようにも見えた。