十
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「波多江君、あれは?」
榊原は、実験水槽の中で奇妙な動きを見せるダイオウイカを指さした。
「リズム運動実験です!」波多江が目を輝かせながら説明を始める。「深海生物の神経伝達と音波の相関関係を」
その時、水槽の隣からるりの声が上がる。
"波多江お姉さま、42.3ヘルツでの共振が始まりました"
実験棟の天井に設置された特殊なスピーカーから、人間の耳には捉えられない超低周波が流れている。
「本当だ!」波多江が計測器に駆け寄る。「ダイオウイカの触腕が、音波に同期して」
確かに、巨大なイカは水槽の中で不思議なリズムを刻んでいた。その動きは、まるでバレエのように優美だった。
「しかし」霜島が資料に目を落としながら言う。「なぜリズム運動の研究を?」
「るりのためです!」
波多江の声に、実験棟が静まり返る。
"はい"るりが補足する。"私の動作制御に、生物的なリズムを導入することで"
「ダンスを踊れるようになるんです!」
波多江の予想外の発言に、榊原は思わず目を見開く。
「ダンス?」
「そうです!」波多江は興奮した様子で説明を続ける。「深海生物の持つ自然なリズムを解析することで、るりの動きをより優雅に。それに、音波との共振を利用すれば」
"波多江お姉さま"るりの声が少し困ったように響く。"私はまだ、バレエの基本ステップも"
「大丈夫!」波多江は実験水槽に近づく。「ほら、このダイオウイカの動きを見て。触腕の波打つような動きと、胴体部分の回転が織りなす」
「待て」榊原が制止する。「戦術車両に、なぜダンスが」
「それは」波多江が真剣な表情で振り返る。「深海での自由な動きのためです。生物の持つリズムと調和することで、より効率的な」
その時、ダイオウイカが突然、華麗なスピンを披露した。
「見てください!」波多江が歓声を上げる。「42.3ヘルツでの共振が、完璧な回転を」
"素敵です"るりの声には、羨望が混じっていた。"私も、あんな風に"
「波多江君」榊原は諦めたように言う。「報告書には、これをどう記述するつもりだ」
「バイオミメティクス研究の一環として!」彼女は即座に答える。「生物の動きを工学的に応用する基礎研究という形で」
霜島が小さく笑う。
「確かに、間違いではありませんね」
水槽の中で、ダイオウイカは優雅な舞いを続けている。そして隣の実験水槽では、るりが静かにその動きを真似ようとしていた。
「さて」波多江がノートを取り出す。「次は、クラシックバレエの基本フォームと、深海生物の動作パターンの比較分析に」
「波多江君」
「はい?」
「まずは実験の本来の目的を」
実験棟に、ダイオウイカのダンスと、波多江の夢のような研究計画が、静かに響いていた。




