一
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「防衛省が、全面的に...」
霜島は手元の書類を何度も確認した。執務室の窓からは、朝もやに包まれた呉港が見える。
「そうです」風間は穏やかに頷く。「本日より、三名様の特別転任プロセスが開始されます」
「特別、ですか?」
「はい。まずは防衛大臣専用機で」
「えっ」霜島の声が裏返る。
その時、執務室のドアが勢いよく開いた。
「すごいですよ!」波多江が興奮した様子で駆け込んでくる。「私たちの転任に、航空自衛隊のブルーインパルスが」
「ブルーインパルス?」榊原が思わず声を上げた。
「はい!」波多江は目を輝かせながら続ける。「出発時に祝賀飛行を。それに海上自衛隊の護衛艦も、出港時に...あ」
彼女は風間の静かな視線に気づき、急に口を噤む。
「波多江君」榊原は額に手を当てながら言う。「それは機密情報では」
「いえ」風間が微笑む。「もう問題ありません。今朝の記者会見で、防衛省から発表される予定です」
「記者会見?」
「はい。『海上自衛隊特殊技術開発部隊の新設に伴う人事異動』として」
「特殊技術...」霜島が首を傾げる。「そんな部隊は」
「本日付けで設置されます」風間は淡々と説明を続ける。「人魚型戦術車両の本格的実用化に向けて」
波多江が小さく跳び上がる。
「本格的実用化!」
「波多江君」榊原は諭すように言う。「まずは落ち着いて」
「でも榊原さん!これで私たちの研究が」
「着任地は?」霜島が書類に目を落としながら尋ねる。
風間は僅かに表情を引き締めた。
「それについては」
「極秘です」
防衛省からの出向組である佐伯参事官が、静かに執務室に入ってきていた。
「佐伯さん!」波多江が嬉しそうに声をかける。「私たちの新しい研究環境は」
「波多江博士」
「博士じゃないです!」
「失礼」佐伯は微笑む。「波多江研究員。貴方の希望は、全て叶えられます」
「全て...」
波多江の目が、さらに輝きを増す。
「はい。北極点の氷塊も、南極深部の雪も。そして」
「シンスイウオの研究環境も!?」
佐伯は風間を見た。風間が小さく頷く。
「はい。それも含めて」
波多江が歓声を上げる。榊原と霜島は顔を見合わせた。この『特別待遇』には、何か裏があるはずだ。
「では」佐伯が腕時計を確認する。「そろそろ出発の準備を」
「あの」霜島が恐る恐る尋ねる。「着任地について、何も知らされないまま」
「心配には及びません」佐伯は穏やかに言った。「波多江研究員の研究にとって、最高の環境が用意されています」
「それに」風間が付け加える。「私も同行しますから」
波多江の表情が、さらに明るくなる。
「出発は」佐伯が告げる。「明日の午前9時」
執務室の窓から、朝日が差し込んでいた。その光は、まるで彼らの新たな船出を祝福するかのように、温かく、そして不思議な予感を含んでいた。
波多江は窓の外を見つめ、小さく呟く。
「きっと、素晴らしい実験場になるはず」
その言葉が、どこか深い場所への誘いのように、榊原の胸に響いた。