浮気してくださってありがとう、元婚約者様
さくっとお読みいただけるお話です。
もちろんハッピーエンドです。
華やかな装いに身を包んだ貴族たちが集う、にぎやかな夜会。
他の出席者たちが楽しげに語らいダンスに興じる中、ミルジアの顔はどんよりと暗く打ち沈んでいた。まるで頭上に暗雲を背負っているかのように。
その理由は――。
「うふふふっ! 嫌だわ。リックったら! 悪い人ね」
「それを言うなら君だって。にしても本当に君は魅力的だね。マリアンヌ」
一組の男女が下卑た笑い声を上げながらくるりとターンを決めたのを見て、ミルジアは深くため息を吐き出した。
暗雲の元凶、それは視線の先で楽しげに踊る一組の男女――自分の婚約者リックとその浮気相手だった。
普通に考えれば、正式な婚約者が目の前にいるとわかっていて浮気相手と堂々ダンスに興じるなどあり得ないことである。しかもこの会場には、両家の親族も列席しているというのに。
けれどどうやらそんな常識は、彼らにはどうでもいいことであるらしい。
(はぁ……。まったくどうしてこんなことになってしまったのかしら……。私はただ普通に婚約して、ごく普通の結婚生活が送れればそれでよかったのに……)
リックとの婚約は、家同士の事情によって結ばれたもの。運命的な恋、とか甘やかな感情で結ばれたものではなかった。でもだからといって、結婚する前から堂々不実を働くというのはいかがなものか。
(せめて互いの親族がそろう今日くらいは、ごく当たり前の節度ある行動を取ってくれたらいいのに……。こんなところを家族に見られたら、どんな騒ぎになるか……)
今のところ、この醜聞はリックの両親の耳には入っていないらしい。まぁ多少羽目を外している、くらいのことは聞き及んでいるかもしれないけれど。
ミルジアの両親と兄たちにはすでに、リックの悪行は知れていた。当然のことながら先方に怒鳴り込みかねない大騒ぎになったのだが、ミルジアが泣いて止めたのだ。きっと結婚するまでの若気の至りだから、今は目をつぶってくれ、と。
が、今ではミルジアもわかっていた。これは若気の至りなんてかわいいものなんかじゃないと。
視線の先でリックが浮気相手の胸元にいやらしくタッチしたのを見て、ミルジアはもう一度深いため息を吐き出した。
「はぁ……」
どうやら思いの外大きなため息をついてしまっていたらしい。その瞬間、隣から「えっ!?」という驚きをにじませた声と視線を感じて、ミルジアは弾かれたように声のした方を見やった。
「……?」
そこにいたのは、自分とよく似た物憂げな顔をした青年だった。
「……」
「……」
ミルジアは、すぐさまその青年から自分と同じ暗雲を感じ取った。自身の頭上にどんよりと広がる暗雲のような苦しみを、この青年も抱えているに違いないと。
見れば青年の視線の先に、リックとその浮気相手とよく似た組み合わせの、退廃的な空気感を漂わせる男女がいた。
「あぁ、ノーマ。今すぐこんな退屈な場所を抜け出してふたりきりになりたいな」
「まぁ、どうせあなたの狙いはわかっていてよ? いやらしいんだから、もう! ふふふっ」
つい今しがた、よく似たやりとりを聞いた気がする。
(ということはまさかこの令嬢って、この人の婚約者だったりして……?)
しかし、そんな偶然が果たして起こり得るものだろうか。婚約者の目の前で堂々と浮気相手と不貞を働くなどという、実に大胆でなんとも最低な人間がそうそういるとは思えない。
でも目の前でいちゃつく二組の男女は、うんざりするくらいに行動も雰囲気もよく似通っていた。
(聞いてみようかしら? もしかしてあなたも婚約者に浮気されて、あまつさえ目の前でそれを見せつけられているんですかって……?)
初対面の人間に投げかけるには、あまりにも失礼かつセンシティブな内容ではあるけれど――。
「……」
しばし迷い、黙り込む。けれどミルジアの逡巡は青年に伝わったらしい。
青年は、その通りだとばかりにうなずいたのだった。
思わずミルジアの口から、「あぁ……」というつぶやきがこぼれ落ちた。
(やれやれ……。もしかして婚約者に浮気相手とイチャつくのを見せつけるのが、最近の流行りなのかしら……? なんとかチャレンジ、みたいな……?? 悪趣味もここに極まれり、ね)
そんな馬鹿なことを考えていたら、青年が声をかけてきた。
「……えっと、もしかして君の相手はあの男かい?」
どうやら青年もこちらが同じ境遇を抱え暗雲を背負ってこの場に立っていることに気がついたらしい。
遠慮がちにリックを指さす青年に、ミルジアもこくりとうなずいた。
「君も……大変だね。その……思いが報われないっていうかさ……」
青年は、モートンと名乗った。侯爵家の三男で、なかなかに将来有望な官吏であるらしい。
そして、視線の先で無駄に色気を漂わせたにやけた男と密着して踊っているのが自身の婚約者なのだ、と告白したのだった。
「今夜は互いの親もきていることだし、せめて今夜くらい自粛してくれないかとは言っておいたんだけど……。なんでわざわざこんな公衆の面前で浮気相手とダンスしなきゃいけないのか、僕にはさっぱりわからないよ……」
「まったくもって同感ですわ……」
そしてミルジアとモートンは深く重苦しいため息を吐き出したのだった。
まさかの符合に、長い沈黙が落ちた。
けれど同時にミルジアは、心がほんの少しだけふわりと軽くなる気がした。今自分が感じているみじめさや腹立たしさ、やるせなさといった黒い感情をモートンも感じているのだ。こんなみじめな思いを抱えどんよりと暗雲を背負って、ここに立っているのは、自分ひとりじゃないと思えたから。
ミルジアは湧き上がるかすかな喜びをそっと押し隠し、口を開いた。
「えぇ……。本当にそうですわね……。世の中うまくいかないことばかりですわ。……あなたも、なかなかに大変そうですわね。なんというか……なかなか積極的な方と婚約されてるみたいで」
見ればまさに件の婚約者令嬢とにやけ男が額を寄せ合い、今にも接吻しそうな雰囲気を醸し出していた。周囲の観衆も眉をひそめ彼らを遠巻きに見ているのだが、気にもならないらしい。
男だから火遊びも許されるなどと思っているわけではないけれど、なかなか女性がこうも開放的なのも珍しい。モートンの婚約者令嬢も、なかなかぶっ飛んでいるらしい。
「でもまぁ……貴族の結婚相手なんて、自由に選べるわけじゃありませんものね。家同士の事情とか……色々……」
お互いにハズレの婚約者を引き当ててしまったようだ、とはさすがに口にできず言葉を濁したミルジアに、モートンも苦笑いを浮かべ小さくうなずいた。
「あぁ……、そうなんだ。なんかもう……何もかもがどうにでもなれって気がしてくるよ。結婚って……、婚約って……一体何なんだろうね……」
「えぇ、本当に……。何なのでしょうね……。なんだかもう、何もかもわからなくなってしまいましたわ……」
声ににじむやるせなさに、ミルジアも共感を持ってしみじみとうなずいた。
ミルジアだって、別に夢を見ていたわけではない。貴族の結婚なんて家と家同士の契約でもあるのだし、多少のことは目をつぶらねばならないものだというくらいの分別はあった。けれどまさか自分の婚約者が、こうも人でなしだとは思わなかったのだ。
はじめはちょっとした気分転換だろうと思った。婚約者がいてもたまには他の女性とおしゃべりを楽しみたいとか、昼間の散歩を楽しんだりする程度の。
けれどそれは楽観的すぎた。少しずつ浮気相手と会う回数が増え、そのうち婚約者である自分との前々からの約束をすっぽかすようになった。気がつけば手紙を出しても一向に返事もなく、ミルジアの誕生日に小さな花束さえ贈ることもなかった。
ミルジアはもはや、完全に存在を忘れ去られていた。
きっとモートンも同じようなものなのだろう、と思いを巡らし、ミルジアは心からの同情と共感を返した。
「お気持ちお察ししますわ……。せめてこんな場くらい体裁を取り繕ってくれてもいいのにって思いますもの。それでももしかしたら今度こそわかってくれるかも、なんて少しは期待していた自分が本当に……、嫌になりますわ」
きっとこれは意地なのだろう。一度はこの人と将来をともにするのだと心に決めたのだから、そう簡単に自分の決意をひるがえしたくない、という。
けれど、日に日に両親や兄たちから注がれる目が辛くなる。両親にとっては目に入れても痛くないほどにかわいい娘であり、兄たちにとっては年の離れた大切な妹なのだ。それがこうもないがしろにされていることへの悲しみと怒り。それがひしひしと伝わって。
けれどミルジアの意思を尊重したいという思いからぐっと口出しを耐えてくれているその優しさが、なんともいたたまれない。
そして何より、そんなひどい扱いをされてなおもしかしたら今度こそは、という淡い期待を捨てきれない自分が情けなかった。
(こんなはずじゃ……なかったのにな。ただ普通に平穏であたたかな家庭を築けたらって思っただけなのに……)
ふと見渡せば、皆幸せそうに笑いこの夜会を存分に楽しんでいた。それに引き換え自分はどうだろうか。暗雲を頭上に広げどんよりと曇った顔をして、自分の婚約者と浮気相手が楽しげに踊るさまを見せつけられている自分は――。
あまりにみじめさに、思わずミルジアは目を伏せぎゅっとスカートを握りしめた。
するとモートンがためらいがちに口を開いた。
「……ねぇ、君。ミルジア……、いっそのこと僕たちも当てつけに踊ってみる……というのはどうかな?」
「……え?」
思いがけない提案に、ミルジアはゆっくりとまばたきをしてまじまじとモートンを見やった。
「それは……一体どういう意味……ですの?」
ぽかんと驚きに目を瞬かせ、そう問い直せば。
「つまり……僕たちは同じ境遇でとてもやりきれない思いを抱えて、自分の婚約者の浮気現場を見せつけられているわけだけど……。でもせっかくそんなにきれいな格好をしているんだし、ずっと壁際にぼうっと突っ立っているのももったいないなって」
しばしの間を置いて、ミルジアの顔がじわりと赤く染まった。
これでもなんとか婚約者に振り向いてもらおうとひと月以上も前から時間をかけて、念入りに準備を整えてきたのだ。ドレスだって髪型だって、お化粧だって。リックはそれをチラと見ただけで、何のコメントもなかったけど。
けれどそれをモートンはきれいだとほめてくれた。いや、ほめてくれたのはドレスだけかもしれないがそれでも努力が認めてもらえたようで、なんとも嬉しかった。
「あ……ありがとう……ございます。その……あなたもとても……凛々しくて素敵ですわ」
実際モートンは目立つ印象の青年ではないけれど、その面立ちはとても優しげであたたかみのある飴色の目をしていた。背格好だってバランスがいいし、少し癖のある薄茶色の髪だって光に透けてとてもきれいだ。
モートンはまさか自分もほめてもらえるとは思いもしなかったようで、一瞬驚いたように目を見張り小さく噴き出した。
「ふふっ。うん……。ありがとう。……それで、どう……かな? よかったら僕と一曲、踊ってみない……? 彼らへの当てつけみたいで、ちょっとは気分が晴れるかもしれないし」
「当てつけ……?」
なるほど、当てつけか。自分たちの前で堂々と不貞行為を働く彼らに、同じことをして見せれば――といってもただ踊るだけだけれど、少しは溜飲が下がるかもしれない。
(でも……そんなことをしておかしな騒ぎにならないかしら? 仮にも自分たちのすぐ隣で、婚約者が他の男の人とダンスするなんて……)
ぐるぐるとさまざまな思いが頭を駆け巡る。けれどこれもあちらが先に仕掛けたことだ。本来なら最初のダンスは婚約者とするもの、と世間では決まっているが、それを無視して浮気相手の手を取ったのはリックの方なのだから。
(そうよ……! あっちがその気なら、同じことをしてどんな気がするか教えてやればいいんだわ……! そうすれば少しは嫌な気になるかもしれないし、もしならなかったら……それはそれでどうしようか悩むけど……)
おずおずと差し出されたモートンの手をじっと見つめ、今度は視線をリックと浮気令嬢に向けた。
「……」
またしてもリックは浮気令嬢の腰をいやらしくなで回していた。その瞬間、ミルジアの頭の中でぷつん……と何かが音を立てた。
「えぇ。そういたしましょう! とてもいい提案ですわ」
ミルジアはモートンの手を取った。そしてゆっくりと会場の中央へと滑り出したのだった。
互いに小さく一礼し、軽やかな調べに合わせ緩やかに一歩を踏み出す。
「……」
「……」
手袋越しに感じるその熱とかすかな震えに、なぜかミルジアは心がほわりとあたたかくなった。緊張しているのは自分だけではないらしい。そのことに安心したのだ。
ダンスを踊ること自体、久しぶりだ。リックとはダンスどころか、久しく会う機会さえなかったのだから当然である。けれどモートンにホールドされ踊るのは、不思議なくらいにしっくりきた。はじめて踊る相手とは思えないくらいに。ひさしぶりのダンスがまさか婚約者への当てつけだなんて、なんともぶっ飛んでいるけれど。
無言で見つめ合い、ステップに集中する。けれど少し遠慮がちにけれどまっすぐに注がれるモートンの眼差しに、胸が騒ぐ。
その目の奥に、恥じらいと緊張だけではない何かチラチラと揺れるものが見えた気がした。それは一体なんだろうか。
くるりくるりと踊り続けるうちに、気がつけばさっきまであんなに暗く打ち沈んでいた気持ちが今はすっかり晴れ渡っていた。それどころか、心がそわそわ浮き立つような、謎の高揚感にすら包まれていた。
それはなんともミルジアの心を明るく、軽やかにしてくれたのだった。
ミルジアは軽やかにステップを踏みながら、驚いていた。
(こんな浮き立つような気分は久しぶり……。踊るのが楽しいってこと、すっかり忘れていたわ……)
ミルジアがそっと視線を上げれば、モートンもまた穏やかな、けれどどこかはにかんだような笑みをたたえていた。最初に見た時の暗く打ち沈んだ表情が嘘のように、モートンも明るい表情に変わっていた。
「ふふっ」
互いに自然に笑い声がこぼれ、くすくすと笑いながらくるりとターンを決める。
ふわり、ふわり……と軽やかにスカートが空気を含んで、生地に縫い付けたたくさんの石たちがキラキラときらめいた。
「ミルジア、君はダンスが上手なんだね。まるで羽みたいに軽い」
「そんな……。でもそうだとしたらきっとモートン様のリードがお上手なんです」
頬を染め、ふたり微笑む。そしてふたり同時にはっとした。そう言えばこれは、婚約者への当てつけのためのダンスでもあったのだ。
慌ててちらとすぐ近くにいるであろう二組の男女の様子をうかがってみれば、相変わらず完全に自分たちだけの世界に入り込んでいてこちらの存在になどちっとも気がついていなかった。なんとも腹立たしい。
(まったく本当に人を馬鹿にしてるんだから……! 本当に私の存在なんてきれいさっぱり忘れているんだわ。モートン様のお相手だってそうよ! あんなだらしなさそうな男にしなだれかかっちゃって……あんな男のどこがいいのかしら! モートン様の方がずっとずっと素敵なのに……)
またしても暗雲が頭上にむくむくと膨れ上がったその時、モートンが声をかけてきた。
「よかったらもう一曲、どうかな? どちらもまだ僕たちに気がついていないみたいだし、今度はもっとそばに寄って邪魔をしてやろう」
気がつけばすでに曲が終わりかけていた。その提案に、ミルジアは笑顔でこくりとうなずいた。半分はリックと浮気令嬢、そしてモートンの婚約者令嬢とその相手の男への苛立ちから。そしてもう半分は、もう少しモートンとダンスを踊りたいという思いで――。
「ではもう一曲、お願いします。ミルジア」
「はい。モートン様」
にっこりと微笑み合い、先ほどよりも少し軽快なテンポに合わせ軽やかなステップを踏み出す。
くるり……くるり……。
ふわり……ふわり……。
モートンのリードは本当に上手だった。過去に一度か二度、リックと踊ったことはあるがそれとは大違いだった。背中に添わせた手の力加減もちょうどよく、音の刻みに合わせ大きな動きのタイミングで適度に力がこもる。おかげでまるで舞うようにステップが運べるのだ。
いつの間にかまたリックたちのことなど忘れていた。
(なんて楽しいのかしら……。ちょっと不謹慎だけど、これは当てつけなんだもの。このくらいの仕返しをしたってバチは当たらないわよね)
きっとまだその辺で自分の婚約者とその浮気相手も、モートンの婚約者とそのお相手も踊り続けているに違いない。けれどもうそんなことどうだってよかった。
(今だけ……今だけよ。本当はこんなこといけないことだけれど、少しだけ心のなぐさめに楽しんだっていいはずだもの。……ううん。モートン様だって私だって、今まで苦しい思いをしてきたんだもの。きっとこれは神様がくれたなぐさめだわ。ふふっ)
ミルジアは心の底から喜びが湧き上がるのを感じて、ふわりと微笑んだ。
「……!」
その瞬間モートンの顔がぶわりと赤く染まり、そして目が泳いだ。そんな反応もなんだかおかしくて、小さく声を上げて笑った。モートンもそれにつられて笑い声を上げる。
「ねぇ、君。ミルジア、なんだかすっかり気分がよくなった気がする。さっきまではあんなに絶望的な気分だったのに……。君をダンスに誘って本当によかったよ」
「ふふっ! 私もです。ダンスがこんなに楽しいって忘れてましたわ。モートン様のおかげです」
「じゃあその気分に水をささないように、君の足を踏まないように一層気をつけるとしよう」
「ふふふふっ!」
気がつけばふたりの頭上にどんよりと広がっていた暗雲など、すっかり消え去っていた。むしろ楽しげに語らいながらくるくると踊り回る初々しさあふれる姿に、周囲の視線が集まりはじめていたほど。
けれど次の瞬間、ふたりは再び暗雲立ち込める現実へと引き戻されることになったのだった。
◇◇◇
「ひどいわっ!! 今になって婚約者のご機嫌を取ろうだなんて、今さらよっ。今夜はずっと私とだけ踊ってくれるって約束したじゃないのっ。なのにさっきからちらちらと婚約者ばっかり気にして……!!」
会場の楽しげな空気をぶち壊す金切り声に、観衆がしん……と静まり返った。と同時に楽隊が奏でていた楽器の音もぴたりと止まった。
「い……いや、マリアンヌ。そんなに大きな声を上げたら騒ぎに……。頼むから静かにしてくれよ」
聞き覚えのあるその声に、ミルジアは目を見開いた。
騒ぎの渦中にいたのは、驚くことに自分の婚約者であるリックとその浮気相手だった。どうやら痴話喧嘩がはじまったらしい。浮気相手の令嬢が怒りに顔を赤く染め、リックに激しく詰め寄る。
「何よっ。あなたったらいつものらりくらりとかわすばっかりで! 一体いつになったら婚約者を捨てて私を選んでくれるのっ!? 私に約束してくれたじゃないっ! はじめからあんな婚約、解消するつもりだったって。代わりに私を選んでくれるって!」
「そんなこと言った覚えは……。だってほら、彼女との婚約は家の事情とか色々あるんだしそう簡単に解消だなんて……」
「なんですってぇ!? じゃああなた私と結婚するっていうのは嘘だったっていうの!?」
どうやらリックは浮気相手に結婚までちらつかせていたらしい。道理で堂々としているわけだ。きっと自分が本命で、むしろこちらが浮気相手くらいに考えていたんだろうし。
(今思えば何でこんなにムキになってたのかしら……。こんなことならさっさと婚約を解消して、他の縁談を用意してもらえばよかったのに……)
あまりの情けなさと後悔に唇を噛みしめるミルジアをよそに、痴話喧嘩は続く。
「マリアンヌ、頼むから静かにしてくれっ。こんな話、もしミルジアや家族に聞かれたら……」
「婚約を解消するってさっさと言いなさいよっ! あんな堅物なだけでつまらない子、さっさと別れたいって言ってたじゃないっ! なのにさっきから婚約者の方ばかりちらちら見ちゃって! ひどいっ」
どうやらリックは、少し前からこちらに気がついていたらしい。
「……」
時折こちらを不安そうにちらちらのぞき見るその視線が、なんとも腹立たしい。きっと今になってこの婚約がお流れになってはまずいと気がついたのだろう。
その実に情けない態度に、ミルジアの眉間にしわが寄っていく。
少し離れたところでは、モートンの婚約者とその浮気相手も顔を引きつらせこそこそと身を隠すように様子をうかがっていた。おそらくモートンの婚約者令嬢も、相手の男に似たようなことを吹き込んでいるに違いない。その顔にはうっかり自分たちも余計な火の粉を浴びてはまずい、と書いてあった。
「大丈夫かい? ミルジア」
心配そうにモートンが小声でたずねる。それに小さくこくりとうなずき返した。
「こうなることを見越して、当てつけたんですもの。覚悟の上よ。……あなたこそ、大丈夫?」
不思議と心は落ち着いていた。ちっとも心は痛んでいなかったし、むしろ頭上の暗雲を一刻も早く取り払ってしまいたい気持ちにさえなっていた。これも当てつけダンスで気分が爽快になったせいかもしれない。
それよりもモートンのことが気になった。すでにモートンの婚約者令嬢と相手の男も、リックたち同様小競り合いをはじめたようだから。
モートンもそれに気がついていたようで、小さく肩をすくめ苦笑した。
「あぁ、僕は大丈夫だよ。こっちはこっちでちゃんと片をつけるつもりだしね。……にしてもまったく、どこまで自分勝手なんだろうな。こんなふうに人の信頼を簡単に踏みにじった上、浮気相手までだますなんて……」
「……本当ね」
ミルジアはそっと目を伏せた。
好かれていないことは知っていた。けれど貴族の家と家の間で交わされた正式な決め事である以上、相手だってそれなりの覚悟とあきらめを持って結婚するつもりなのだろうと思っていたのだ。なのにそんな気すらさらさらなかった上、浮気相手にさえ嘘と欺瞞しかなかったなんてあきれてものも言えない。
ミルジアを、どっと脱力感が襲った。なんて無駄な努力をずっとし続けてきたのだろう、なんて長い間時間も思いも無駄にしてきたんだろう、と心底自分が嫌になったのだ。けれどそんなミルジアの手を、モートンがそっと握りしめた。まるで励ますように、優しく。
その手があんまりにも優しくて頼もしくて――。
ミルジアは決意した。もうこんな不毛な時間は終わらせてしまおう、と。せっかくの貴重な人生を、こんな男のために費やすのはあまりにもったいない。
ミルジアはすぅ、と息を吸い込み、きっと強い目でリックを見つめた。そしてきっぱりと宣言したのだった。
「……リック、今夜は久しぶりにあなたと夜会を楽しむはずだと思っていたのだけれど、あなたにとっては違ったみたいね。誘うべき相手は、私じゃなくそちらの方のようだもの。だったら望み通りにしてあげます」
「……は? それって一体どういう意味……」
リックの目が激しく泳ぐ。
「言葉通りの意味です。あなたとの婚約を、今この場で、きれいさっぱり解消してあげます」
「はっ!? い……いや、それは困る! こ、これは違うんだ! 確かにこの子と踊ってたけど、別に特別な意味があるわけじゃなくて……」
「特別な意味って? 婚約者でもないのに、他の令嬢の胸元を触ったりする意味って何なのかしら? 結婚をちらつかせて何度も密会を重ねる意味って?」
「そ、それは……! だから……その……」
リックの顔面は蒼を通り越して白に変わっていた。そのおろおろとみっともなくうろたえる姿に、ミルジアの心はどんどん冷えていく。婚約を解消する、と言葉にしたらすっかり気持ちが軽くなっていた。暗雲なんてどこかへきれいさっぱり吹き飛んでいってしまったように。
「……ぶふっ!」
モートンが小さく噴き出すのが聞こえた。
いつかリックが心を入れ替えて自分の方を向いてくれる日がくるんじゃないか、とどこかで期待していた。でもそれは間違いだった。そんな日は絶対にこない。それがよくわかった。
それに気づかせてくれたのは、モートンだ。
ふと見れば、モートンも同じような決意をにじませて自分の婚約者令嬢を見つめていた。もしかしたら同じことを考えているのかもしれない。だとしたら、モートンもきちんと心にけりをつけてすっきりと暗雲を取り払うことができたらいい。ふとそんなことを思った。
同じ苦しみを抱え続けた自分たちにしかわからない共感をにじませて、モートンと一瞬視線を重ねた。それに気がついたのだろう。リックがわなわなと体を震わせて叫んだ。
「ミルジア、なんで急にそんな強気に……? 今までは目をつぶってくれたじゃないか……! まさか君、その男と密通を……? だからそんなに急に態度を……」
「……は?」
瞬間、ミルジアの口からとんでもなく低く鋭い声が出た。
一体どの口がそれを言うのか。どこの誰が、誰と密通をしたと?
ミルジアはこれ以上ないほどの冷たさとあきれをあからさまに浮かべ、リック――元婚約者を見やった。
「はっ! 誰もがあなたのように愚かな真似をするだなんて思わないでくださいな。この方は……モートン様は、目の前で不貞を見せつけられて落ち込んでいる私をなぐさめようとダンスのお相手をしてくださっただけです! それにもしそうだったとしても、あなたにそれを責められる資格があるの? リック、あなたと一緒にいるその令嬢は、あなたの浮気相手でしょ? 以前から堂々とあちこちに顔を出しているって、有名よ? ……なのに、たまたまかわいそうに思って声をかけてくださったモートン様にそんな下世話な疑いをかけるなんて、失礼千万よ!」
ミルジアはそう言い放ち、元婚約者とその隣で顔を引きつらせている浮気令嬢を強い眼差しで見やった。
「何度も注意はしたわ。私たちの婚約はあなたの家の事情を考えて結ばれたもの。けれどこんな状況が続いては、この婚約は破綻しかねない。互いの家同士の将来のためにも、節度のある行動を取ってほしいと。……そうよね?」
けれどその声が聞き入れられることはなかった。
誕生日も、婚約を交わした記念日の贈り物もなく。出した手紙に返事を寄越すことも。
型通りの新年の挨拶さえなく、本当に自分が婚約者のいる身なのかと疑いたくなるくらい何もなかった。
耳に聞こえてくるのは悪い噂ばかり。あちらこちらで浮気相手と堂々と遊び歩いては、体を密着させ合っていたとか。朝帰りをする現場を目撃されたことだって――。
これまでずっと溜め込んでいた悲しみと怒りとが、すらすらと口からこぼれ落ちた。
「でもあなたはそれを無視した。一時の欲のためにあなたはすべてを台無しにしたの。どうやら浮気相手にも嘘をついていたみたいだけど、はじめから彼女と結婚するつもりなんてこれっぽっちもなかったのでしょ? そんなことしたらとんでもない騒ぎになるってわかっていただろうし」
リックはがっくりと肩を落とし、うなだれた。浮気令嬢ももはや床にぺたりと座り込み、顔を両手で覆い隠し泣き暮れている。だがもう何もかも遅い。どんな結果が待ち受けていようとこちらの知ったことではない。
「私……あなたとは結婚しません。絶対に嫌です。あなたのような人と一生一緒にいるなんて……絶対にお断りします。……さようなら、元婚約者様」
決別の言葉を口にしたミルジアに、リックが取りすがるように立ち上がり腕を伸ばした。
「待てっ! そんなことになったら、我が家の事業が……!? 考え直してくれっ、ミルジア! 頼むっ、もう一度チャンスをくれっ」
隣で泣いている浮気相手の存在などすっかり忘れて駆け寄るリックに、とっさに身を強張らせた次の瞬間。
ガシッ!!
「……うごっ!!」
なんとも鈍い音と小さなうめき声に、おそるおそるつぶっていた目を開ければ。
自分の方へと差し伸ばされた婚約者の手を、モートンが力強く払い除けていた。その反動で床に倒れ込んだリックが、怒りにぷるぷると身を震わせモートンをにらみつけていた。
「あの……、モートン……様?」
対峙する元婚約者とモートンを交互に見やりおそるおそる声をかければ、モートンが強い眼差しでリックを見下ろしながら告げた。
「……君は下がっていて。君のような人が、こんな男を相手にする必要はないよ。君の決断は間違ってない。君ならどんな男だって選べるはずだ。とても素敵な人だから……。……僕はそう思う」
どこか甘さをちらりとにじませた声に、胸が跳ねた。
「モートン様……」
見つめ合うミルジアとモートンに、リックが声を荒げた。
「なっ……!? 彼女は俺の婚約者だっ! 無関係のお前がしゃしゃり出てくるなっ。これは俺とミルジアの話なんだっ!! なっ、考え直してくれっ、ミルジア。今度こそ誕生日には、君がびっくりするようなとびきりすごい贈り物をするから……!」
そんなくだらないことを言いかけたリックに、近づいてくる影があった。その見覚えのある人影に、あっと声を上げる間もなく次の瞬間――。
ゴンッ!!
「リック! この……馬鹿者めがっ!!」
「ぐあっ!!」
突如その人物から繰り出された拳に、リックはうめき声を上げその場にズルズルと崩れ落ちた。
「ち……父上……。何を……!?」
驚きに目を見開き呆然とするリックに、その男はもう一度渾身の拳を一発お見舞いするとミルジアに向き直った。
「ミルジアさん……。この度は、愚息が本当にすまないことをした。なんと詫びたらいいのか……」
「おじ様……」
一部始終を見ていたリックの父親が、深々と頭を下げた。その顔には激しい怒りと後悔がにじんでいた。
「ここは一度愚息を引き取らせてもらって、正式な婚約解消手続きはまた後日あらためて、ということにさせてもらえるかね? こいつにもきちんと責任は取らせる。だがその前に色々と決めなければならぬこともあるのでな……」
「……」
一度は義理とはいえ家族になるのだと思っていた人だ。その人がこんなにも苦しげな表情を浮かべているのは、少々心苦しくはある。けれど今さらどうしようもないことだった。
「……は、はい。もちろんですわ……」
ミルジアは申し出を聞き入れた。そしてリックは浮気相手の令嬢とともに、父親に引きずられるようにして会場を出ていったのだった。
けれどまだまだ夜は終わらなかった。なぜなら――。
浮気を巡る婚約解消劇の結末に騒然とする会場に、今度はモートンの声が響き渡った。
「僕ももう終わりにすることにするよ。……婚約を解消しよう! ノーマ」
その瞬間、人影に隠れていたもう一組の男女がビクリと身を強張らせた。
「そんなところに隠れようとしても無駄だよ。出ておいで、ノーマ。……それと君も」
モートンの目が婚約者令嬢とその浮気相手に向いた。観衆の目も一気にそちらに吸い寄せられる。
今度は一体何がはじまるのかと観衆が息をのんで見守る中、今度はモートンの婚約解消劇がはじまったのだった。
「えっと、モートン。冗談……よね?」
顔に引きつった笑みを浮かべ、ノーマがモートンを媚びるように見やる。けれどモートンは表情を変えることなく淡々と告げた。
「いや、本気だよ。今この場で君に婚約解消を申し渡す。もう君の不貞には目をつぶるわけにいかない。再三に渡って君に言ってきたつもりだ。互いに納得づくで婚約を交わした以上、それにふさわしい行動をお願いしたいと。けれど君はそれを聞き入れなかった。そして今夜も……」
「で……でも私は! だって……!!」
「言い訳はいいよ。もう決めたんだ。……僕は君のような女性と信頼を持って人生をともに歩んでいけるとは、到底思えない。もっと誠実で人の心の痛みがわかる女性と生きていきたい。それがよくわかったよ……。だから」
モートンの声が、会場に凛と響いた。
「だから……、君との婚約は解消させてもらう。ノーマ。君がこの先隣の男と結婚するもしないも、好きにするといい」
「そんなっ!! こんな人と結婚なんてするはずないじゃないのっ。家よりも家格も下だしお金だってないし、取り柄は顔だけなんだから……!!」
実に正直な物言いに、浮気男の顔が怒りと恥ずかしさに赤く染まった。
「ノーマ! 君は俺と結婚したいとあれほど言っていたじゃないかっ!? 俺によく似た男の子がほしいって、あんなに……。なのにそんなことをよく言えたなっ!! この尻軽女っ!!」
「な……、なんてこと言うのよっ! きいぃぃぃっ!! 結婚するならお金と将来性のある方を選ぶに決まってるでしょうっ!?」
そのなんとも醜いやりとりに、観衆もミルジアもドン引きだった。
(ひどい……。あまりにひど過ぎる……。こんな人にモートン様のような人がこれまでずっと心を痛めてきたなんて……)
これまでのモートンの苦しみとやるせなさを思うと、胸が痛かった。と同時にひどく腹が立った。……人のことを言える立場じゃないけど。
ぎゃあぎゃあと罵り合うふたりの姿に皆が言葉を失っていると、観衆の中からひとりの男が進み出た。
「……」
男はモートンの前に静かに歩み寄ると、深々と頭を下げた。そして。
「モートン君……。娘が大変に申し訳ないことをした。そう簡単に片付く話ではないと思っているが、詳しいことはまた後日あらためて……。今はともかくこれを引き取らせてもらいたい……」
「……ええ、わかっています」
男はモートンの返事にまたひとつ頭を下げると、ノーマの腕を強くつかみ無言のまま会場から出ていった。一目散に逃げ出そうとしていた浮気男も、すんでのところでノーマの兄らしき若い男がひっ捕まえることに成功したらしい。
こうしてモートンもまた、長らく苦しめられた不毛な婚約を終わらせることになったのだった。
まさかの二組の婚約解消劇という騒ぎに、いまだ会場は騒然としていた。
けれど当人であるミルジアとモートンは、無言のままだった。さまざまな感情が入り乱れて何を言えばいいのかわからなかったし、喜んでいいのか泣けばいいのかもわからなかった。
今の気持ちを理解できるのは、こんなにたくさんの人がいる会場の中で間違いなくお互いの存在だけ。それだけは確かだった。
「……」
「……」
元婚約者の姿が消えていった方をいまだぼんやりと見つめたまま押し黙るモートンの手を、今度はミルジアがそっと握った。心からの共感と励ましを込めて。それに応えるように、モートンの指にもぎゅっと力がこもった。
こうしてふたりは自身の上に重苦しく立ち込めていた暗雲を取っ払い、不毛で不幸な婚約からついに解き放たれたのだった。
◇◇◇
ざわつき続ける観衆の輪からそっと抜け出し、ミルジアとモートンは再び壁際に戻った。
「……とんだ騒ぎになってしまったね」
モートンのつぶやきに、ミルジアもこくりとうなずいた。
「申し訳ありません……。まさかこんなに大騒ぎになるだなんて……。でもよかったのですか? モートン様まで婚約解消を……」
もしや自分の行動がモートンを衝動的な決断に引きずり込んでしまったのではないかと、そっと見やった。けれど予想に反してモートンはとても晴れ晴れとした顔をしていた。
「いいんだ。本当はずっと言いたかったんだ。でも……ノーマがあんな行動を取るのはもしかしたら僕がこれといっていいところのないつまらない男だからじゃないか、って責任を感じてしまってね。なかなか言い出せなかったんだ」
出会ってすぐのどんよりとした影は、もうどこにもなかった。すっきりとして穏やかで。きっとこれが本来のモートンの姿なのだろう。
なんだかその姿にそわそわと落ち着かない気持ちになって、ミルジアは心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「モートン様はつまらなくなんてありませんよ。いいところがないなんて、絶対にそんなことありえません。たった二曲一緒に踊っただけですけど、私とても楽しかったですし……。モートン様はとても素敵な方です!」
だってモートンはダンスのリードも上手いし、身にまとう雰囲気だってとても優しい。目の色だってとてもきれいな飴色だし、顔立ちだって人のよさがにじみ出ているようで素敵だし、声だって話し方だって――と。
気がつけばそんな言葉が、すらすらと口からこぼれ出ていた。
「……あっ!」
みるみるモートンの顔が赤く染まっていくのに気づき、はっとした。一体自分は何を口走っているのだろう。今日会ったばかりの人相手にこんなことをペラペラと、と慌ててうつむく。
「……」
「……」
ふたりの間に気まずい沈黙が流れた。
思えば、初対面の異性相手とこうも親しげに話をしていること自体がおかしいのだ。本来そんなに社交的でもなければどちらかと言えば人見知りをする質なのに。
けれど不思議とモートンには、それほど緊張も不安も感じないのだ。身にまとう穏やかな雰囲気のせいだろうか。けれど最初に目が合った時は、お互いにこの世の終わりみたいな絶望とあきらめの表情を浮かべていたはずだし――。
そんなことをつらつらと考えつつふとモートンを見上げれば、互いの視線がぶつかった。
「……」
「……」
なんだかふいにおかしくなって、ミルジアはぷっと噴き出した。モートンもつられたように笑い出す。
「ふふふふっ! とんだ夜ですねっ。まさかこんな大胆なことができるなんて、自分が一番驚いてます。私」
こんなにたくさんの観衆がいる場で、当てつけのようにはじめて会った男性とダンスまで踊って、言いたいことを全部ぶつけて。そんな思い切ったことをする日がくるなんて、想像もしていなかった。
きっとこのままメソメソと泣いて我慢し続けるものとばかり考えていた。それがまさか婚約解消を自分から言い出すなんて、驚き以外の何物でもない。
「僕もだよ。でもあんな失礼な相手に遠慮なんかする必要、はじめからなかったね。もっと早くにこうしていればよかったよ」
「ふふっ! 本当ですね。そうすればお互いにこんなにどんより思い悩む必要もなかったのに」
けれど今日まで我慢してきたから、ここでモートンに会えたのだと思うとそれはそれという気もする。
(今夜ここでモートン様に会えてよかった……。たった一夜の出会いでも、こうしておかしな偶然が重なって会えて本当によかった……)
神様がくれた奇妙な偶然に感謝しながらモートンを見つめれば、じっと飴色の優しい目がこちらをのぞき込んでいた。
モートンが、少しためらいがちに切り出す。
「ね、君さえよかったら……もう一曲踊ってくれないかな? さっき二曲踊ったから、次は三曲目ってことにはなるんだけど……」
「えっ……?」
モートンの耳が、真っ赤に染まっている。
(えっと……、それってもしかして……。三曲目ってことは、きっと……ううん。そういうこと、よね……?)
この国の貴族社会において、同じ人とダンスを踊っていいのは通常二曲までと言われている。それ以上踊っていいのは、家族か結婚を約束した相手だけ。ということはつまり――。
ミルジアはこくりと息をのんだ。
「……」
ドキドキと胸を高鳴らせながらちらとモートンを見やれば、その顔には不安と期待がにじんでいた。
ミルジアは喜びに胸が打ち震えるのを感じながらきゅっと両手を握り合わせ、小さくうなずいた。
「……はい。喜んで」
「えっ!? いい……の? あの、意味……通じてる?」
その問いかけに、こくりとうなずいた。
モートンはそれにぱぁっと顔を明るく輝かせ、身を乗り出した。
「も……、もちろん話はあとできちんと通すつもりだよ。でも今は、まずはダンスをって意味で……」
「はい。わかっています。私もモートン様と踊っている間、ずっと思っていたんです。このままずっとあなたと踊り続けられたらいいのにって……。そうできたら、幸せだって……。ですから……とても嬉しいです」
どうにも緩んでしまう顔があまりにも気恥ずかしくて、うつむきながらそう伝えれば。
「二曲目を踊りながら、僕もずっと考えていたんだ。君とこのまま何曲だって一緒に踊っていたいなって……。できることなら君と、これから先もずっとって……」
モートンの穏やかな目が自分に注がれていた。驚きと歓喜と、少しの恥じらいをにじませて。
ミルジアもおずおずと、けれどまっすぐに見つめ返し、そっと手を取り合う。
「ミルジア……」
「モートン様……」
頭上に広がっていた暗雲は、もうすっかり明るく晴れ渡っていた。ふたりの頭上にあるのは、新しく動き出した未来への希望と期待だけ。
そっと手と手を取り合いはにかみ見つめ合うふたりを、気がつけば観衆がキラキラと目を輝かせて見守っていた。先ほどの醜いやりとりで荒んだ空気をきれいさっぱり浄化するような初々しさに、皆の心もきれいに晴れ渡っていく。
そして誰よりもふたりのその新しいはじまりを、期待と安堵とともに見つめるふたつの家族がいた。どちらも、愛しい我が子を不実な相手と縁付けてしまったことに苦い後悔を胸に抱いていた。
だからこそ今度は、当人たちが真に望む相手と幸せになってほしい。そう心から願っていた。だから――。
ミルジアとモートン双方の家族は、ふたりの姿に深くうなずきあった。そしてゆっくりと手を止めたままの楽隊へと歩み寄ると、何事かをささやいた。
楽隊の指揮者はそのささやきにみるみる満面の笑みを浮かべると、一斉に軽やかな調べが再び会場に流れ出したのだった。
その調べに背中を押されるように、ミルジアとモートンは中央へと歩み出る。
「では、お手をどうぞ。ミルジア」
少し気取った仕草で優雅に手を差し出したモートンに、ミルジアは花が咲きほころぶようにふわりと微笑んだ。
「はい。喜んで……!」
モートンの手の上に自分のそれを乗せ、微笑み合う。
くるり、くるり。
調べのリズムに乗り、光の中を舞い踊る。
つながれた手から感じる互いの熱は、どこまでも熱い。
キラキラと光を反射してきらめくシャンデリアの下で、ふたりは観衆のあたたかな眼差しと拍手の中幸せそうにくるりくるり、と踊るのだった。
それからしばらくして、こんな噂が流れた。ミルジアの元婚約者リックは親から勘当を言い渡され、浮気相手の令嬢も田舎で監視付きの住み込み仕事に明け暮れているらしい。モートンの婚約者令嬢もその相手も、それとそう変わりない末路をたどっているとか。
けれどそんなこと、ミルジアとモートンにとってはもはやどうでもいいことである。
夜会後すぐに婚約を結んだふたりは、婚約期間もほどほどに新しい人生へと歩み出した。間もなくふたりによく似たかわいらしい双子が生まれ、その三年後にもまたひとり、そのまた二年後にもうひとり家族が増えた。近々かわいい子どもたちにせがまれ、元気な子犬も迎える予定らしい。
ふたりの頭上には、もはや暗雲など欠片もなかった。あるのは、どこまでも気持ちよく澄み切った晴天だけ――。
〈 おしまい 〉