1 プロローグ
休憩用にと整えられた部屋の中では、レオンハルト様が長椅子で横になっていた。
おそらく寝る気はなかったのだと思うけれど、どうやら仕事の疲れから寝入ってしまったご様子。
これはチャンスかもしれない。
わたしはレオンハルト様を起こさないよう気をつけながら、そっと近づいた。
日に照らされキラキラと光る金の髪と陶器のような肌。しかし肌のほとんどは仮面で隠されている。
つるりとした質感のそれは鼻の側面まではぴっちりと張り付いて、鼻の一部と口元しか見えないようになっていた。だたし、かかっている魔術のおかげでこの状態でも視界は保たれているという。
「……」
規則正しく聞こえてくる呼吸音からして狸寝入りでは無さそう。けれど、万が一があっては困る。
わたしは魔力を動かし、レオンハルト様へ眠りの魔法をかけた。
(これからすることは決して良いこととは言えないけれど……婚約者なのだし、許されるわよね?)
わたしはさらにレオンハルト様へと近づき、ソファーの横で膝をつく。
どくり、と心臓が大きく弾む。自分で思い立ったこととはいえ、初めてのことなので緊張する。
(寝ている間にごめんなさい)
わたしはレオンハルト様の唇に、自分の唇をそっと触れさせた。
柔らかな感触が心地よく、離れ難い。
けれど、本来なら寝込みを襲うようなことをしてはいけないと充分に理解している。
「……」
わたしは名残惜しさを胸に閉じ込め、顔を離した。
それから時をおかず、レオンハルト様の仮面へ手を伸ばす。
「やっぱり」
絶望か、諦めか。低い声がぽつりと漏れる。
――真実の愛なんて、なかったんだ。
立ち上がり、眉根を下げながら見下ろしたレオンハルト様のお顔には、先ほどと寸分たがわない位置に仮面があった。
※ ※ ※
始まりは数日前――いえ、そもそもの始まりは数週間前のこと。その頃から、王都にはある噂が広まっていた。
当時は十二という若さだったにも関わらず、急な不幸により命を落とした両親に変わって事業を引き継ぎ、没落を防いだどころか更なる業績をあげたとして名を馳せていたレオンハルト・イブニール公爵。その彼が、病に倒れたらしい。と。
事業が忙しいということで結婚の話は避けていたようだけれど、二十五ともなれば周りが放っておかない。
家格と功績は言うことなしとくれば繋がりを持ちたい家が山ほど出てくる。ある異変が起こったのは、皆が彼の行く先を好き勝手に想像して世間が大賑わいしていた最中のことだった。
噂の中で、彼の見目についての話題はつぶさにあげられていた。抽象的なことだけではなく、結婚適齢期の女性たちの中では瞳の色や唇の形まで事細かに広まっていたし、姿絵も公開されていたはずで。
けれど気がついた時には、誰もがイブニール公爵の顔を思い出せないようになっていた。
さらに、イブニール公爵の名が記された姿絵を見てもその顔の部分だけは曖昧で、見えているはずなのにどうしても認識ができないという状態に陥っていた。
それはもちろん、わたしも例外ではなかった。
わたしは噂を思い返しながら、ぼんやりと自領の畑を眺める。
イブニール公爵は、わたしの父が治めるこの領地で栽培された葡萄を気に入ってくださっていて、毎年葡萄の時期になると視察でいらしてくださっていた。彼が事業を引き継ぐ前からの恒例で、今もそれは続いている。
なのに、父もわたしもイブニール公爵の顔を思い出せない。
それが苦しくて仕様がない。
「……どうして」
どうしてわたしは、愛した人の顔を思い出せないの?