書評5 青山七恵 『ひとり日和』
今回読んだのも純文学で、この作品は芥川賞の受賞作でもあります。基本的に私は仕事の合間にしか小説を読みませんので、あまり筋書きの込んだ長編は好みません。そういう意味では中篇を扱った芥川賞の作品はボリュームとしても読みやすいですし、純文学というのも涙もろい自分としてはフラットに読んでいられるので手頃です。私の同僚たちはこちらが始終黙って本を読んでいても、どういう訳かきまって数分おきに相槌を求めてくるので、こういう小説だと涙目の顔を覗かれることがなくて済むというのもあるのですが。今回取り上げるのは、つまりはよくもわるくも、そういう作品だということです。
青山七恵著 『ひとり日和』 (河出文庫 169頁 他一篇)
おすすめ度 ☆3.5(10段階の7)
あらすじ
世界には外も中もないのよ。この世は一つしかないでしょ――二十歳の知寿が居候することになったのは、二匹の猫が住む、七一歳・吟子さんの家。
駅のホームが見える小さな平屋で共同生活を始めた知寿は、キオスクで働き、恋をし、時には吟子さんの恋にあてられ、少しずつ成長していく。
(文庫の裏表紙からそのまま引用しました。手抜きは手抜きですが、こうして読み終えた後に過不足がないと思えるあらすじに出会うと、この作品は正しく送り出されたのだなと、それだけで感じてしまいます)
レビュー1(未読の方へ)
タイトルからも窺えるように、この物語はけっして味の濃いものではありませんし、季節に沿って語られる一つひとつのエピソードもどこか淡白で、物足りなく感じるような筆の運びです。それはちょうど、「味がうすい」と主人公の知寿が吟子さんの手料理に抱く感想と似ているのですが、読み進めるにつれてその「物足りなさ」が何に由来しているのか、私たちはぼんやりと考え始めることになります。
そうでもしないとこちらのタスク処理に余剰があると言いますか、読みながらも空いた心に遊びができてしまいますし、この小説では実際、読み手は字面を追うだけでは役不足なのでしょう。というのも、おそらくこの作品には、意図して老人食のような味付けが施されているからです。
こうしたところに自覚的でいられるかどうかがこの小説の分水嶺になるのかもしれませんが、あまり心配は要りません。誰もが似たようなことを感じてふいに立ち止まってしまうからこそ、芥川賞にまで選ばれているのですし、この小説にはなんというか、たとえば誰かと見慣れた景色を連れ立って歩いていると、いつもとは違った印象を受けるような、そういう気安さというか、親しみやすさがあります。純文学と聞いて身構えてしまうようであれば、実際に読んで騙されてみてください。
この小説の味の薄さについては、手がかりとなる一文がかなり冒頭の場面において与えられているのですが、それはこういうものです。
「果物ナイフでようかんを切る。かまぼこのように、うすく、均等に。ふっと心が軽くなる。何事もこんなふうに、静かに、かつきっぱり、余韻などなく、決着をつけられたら楽だろうなあ、と思う」
日常の何気ない仕草からその人の人生が滲み出る瞬間というのがありますよね。そうしたものに立ち会うと、もう一歩踏み込んで相手を理解してみようかと思うものですが、作品を読んでいると、これがどれだけ実践的な思想であるか、読み手は驚かされることになると思います。知寿はほんとうに自らの人生を、ようかんを切り分けるように進んでいくのですから。そうはできないことを嫌というほど思い知らされながらも、それでも、そういうものであってほしいと強く願いながら生きているのです。
それがどうしてなのか、読者は考えながら読むことになるでしょう。彼女の人生が抱える問題を、ごくわずかな間でも自らの問題として引きつけて読むことになるでしょう。この行間の多い小説は、おそらくそれを望んでいる。物語の核心に迫ろうという度に、彼女の瞳が意識的に、何度でも閉ざされてしまうその理由を、私たちは書かれた言葉のあわいにおいて――つまりは行間において――受け取らなければなりません。そうしないと、彼女が救われるその瞬間を読み過ごしてしまうような気がしています。
鍵となるのは、知寿という語り手と私たちがどういう関係を結ぶかだと思います。友人でも、姉妹でも、娘でも、親戚の子でも、あるいは自分自身のこととしてでも何でもいいのですが、彼女に何らかの親密な感情を寄せることができるなら、この小説はきっと、うまく読まれることができるだろうと感じています。
ですが、それもあまり心配は要らないでしょう。知寿は一癖ありはしますが、豊かな人間性の感じられる女性ですし、そもそも「母方の祖母の弟の奥さん」である吟子さんでさえ、初めから知寿のことを咎めることなく受け入れていたのですから。この老女は、知寿から再三不躾な眼差しなり言動を向けられる不遇の対象としても描かれてはいますが、その実、知寿の情動になどびくともしないような凛とした人生観を持ち合わせた女性であることが最後になって知らされます。ふたりの最後の夜は、静けさの中に知寿の眼差しやふたりの関係を反転させるような動きを忍ばせていて、何度読んでも胸に響くものがあります。
さて、評点としてはどうでしょう。たとえば一年後に、私がこの小説のことをどこまで覚えているかと言われたら、正直なところほとんど自信が持てません。もちろん読んでよかったですし、彼女の別の作品にも触れてみたいと思ってはいますが、何か灰汁の強い小説をひとつでも口にすれば、もうすっかり思い出せなくなるような、そういった脆さがある気がしています。いくら純文学らしいとはいえ、これは物語としては致命的なもので、この押しの弱さにはどうにももどかしさを感じてしまいます。
「物足りなさ」を上手く描き過ぎてしまった、とでも言えばいいでしょうか。それだけの技量を感じさせる作品ではあるのですが、忘れ去られることに抗うだけの若さを、どうしてそんなことをしてしまったのか自分でも分からないというような知寿自身の新味な驚きを、ほんのワンシーンでも描き出すことができたような気もしていて、上手すぎて物足りないというそんな後味を覚えています。
そういうものだと分かってはいても、味が薄いものは薄い。その意味で評点はやや抑えてはいますが、それでも彼女のような人間がキャリアを重ねて欲を出したときには一体どういう物語を描き上げるのか、どこか楽しみな作家ではあります。彼女の別の作品を手に取る機会があれば、またぜひ紹介してみようと思います。
レビュー2(こちらは既読の方へ)
主人公の知寿はあまり知性的ではないというか、むしろほとんど知的なものを感じさせず、素行もどちらかというとよろしくありませんね。ホームから見えるというのに縁側で膝を立てて爪を切ったり、停車中の乗客と目が合えば睨み返したり、気分がいいと突然庭で寝そべってブリッジを始めたり、あずきバーを両手に持って交互にかじってみたり、あるいは就寝中の吟子さんの部屋から彼女の私物をこっそりくすねて弄んだりと、いわばこの世の春をあてもなく謳歌している若者ではありますが、陽気な女性かと言えば、これがそうでもない。
たとえば、春という中途半端な季節には憎しみに近い憤りを見せていましたし、いそいそと社交ダンスに出かける吟子さんを見やってひとり舌打ちをしたり、老いらくの恋に苛立つあまり、美容に勤しむ彼女が落としたカーラーを駅のホームに思いきり投げつけてしまうなど、陰気で苛烈な一面も持ち合わせています。
(こう書くと彼女を貶めているようではありますが、私は個人的には知寿という女性に親しみを覚えています。女性というのは案外どうでもよい相手にほどそつなく振る舞ってくれるものですから、ほんのわずかでも人生を分かつのなら、これくらいあけすけな女性の方が初めから信じられるというものです)
私が最初に惹かれたのは、知寿のこの季節に対する偏向と彼女が母や吟子さんに対して抱く情動(つまりは知寿の女性観)が上手く折り重ねられているところです。
この小説は一見、季節に沿って知寿に起きた出来事が綴られるという構成のように見受けられますが、読後感に照らして言えばむしろ、季節が先取りして知寿に与える心理状態のもとで彼女の世界が紡ぎ出されていくと言った方が適切なように思います。それくらい知寿は自身と季節との関係に明敏な感覚を持っているということです。
こういう独特な季節の浮かび上がらせ方をする作家にはただ驚かされますし、彼女はもちろん意識的にこうした構成を選んで書いているのでしょう。基本的には平淡な物語ですが、季節に応じた知寿の息づかいがリズムとなって感じられるのはこのためだろうと思います。といっても、私に聞こえるのは主に彼女の鼻息で、それはちょうど季節や天候による馬場の状態で走りや歩様を変える競走馬のようなイメージなのですが。
彼女のこうした偏向は母や吟子さんにも容赦なく向けられます。知寿は友人にも親にも徹し切れない母の半端さや、美容に関する彼女の詰めの甘さに苛立っていますし、恋する吟子さんに対しても「その年になって何がしたいんだ」と悪辣な感情をあらわにしています。これもまた、いいわるいは別にして、女性を季節になぞらえるようにして予め知寿の心にどうしようもない起伏を生み出しているように思います。
知寿はおそらく、人生に何か諦めのようなものを求めているのでしょう。季節も、人も、もっと潔く振る舞うべきだという信念にも似た強い願いを心に持ち合わせている、と言ってもいいのですが、それはどうしてなのでしょう。考える手がかりはやはり、彼女の手癖の悪さに求められるような気がしています。
(これに触れるのはもう立派なネタバレでしょうが、この場にいるのは実際に本を読まれた「よい子」だけですし、そもそもここは学校ではないのですから、本来私は感じたことを伏せてまで人を誘うようなマネなどしません。そんな大人びた配慮には、中指を立てて「フ○ック!」と言ってやりたいくらいです)
知寿がくすねるのは、自分にとってほとんど価値を持たない物だったり、相手にとって替えが利くような品ばかりです。「取るに足らないどうでもいいもの」と彼女も言っているのですが、そういうものが彼女のこれまでの人生をひっそりと慰めてきたことを知るとき、私たちはそれをどのように受け止めたらよいのでしょうか。
おそらくですが、彼女は人が去り行くものだということを直感しているのだと思います。そして、内心ではそれを強く怖れている。そうであっても耐えていられるだけの「面の皮の厚い」自分をいつも求めているというのは、つまりはそういうことなのでしょう。
彼女は相手と正当な人間関係を築くことをどこか躊躇っているし、上手くいっている間でさえ別れの予感というものに満たされてしまっている。どういう事情によってかは明かされませんが、端的に言えば彼女は自分というものに自信が持てないのです。そして自尊感情に恵まれなかった人間というのは、手元の何かでそれを補填しなければなりません。彼女は自らの盗癖についてこう言っています。
「その中の何かを手に載せていると、ふしぎと安心できるのだった。そして、一通り思い出を楽しんだあとには、こそ泥、意気地なし、せせこましい、などと自分をののしり自己嫌悪に陥ってみる。そのたびに一皮厚くなっていく気がする。誰に何を言われようが、動じない自分でありたいのだ」
ここではふたつのことが語られています。ひとつは対人関係において、友情や恋情といった、誰かと正当な関係を築いた先にある対価を得られない(あるいは、得たとしても実感できない)ために、相手を損ねない程度の物品が別途必要だったということ。もうひとつは対価を得られない自分がけっして弱い人間ではないことを自らに理解させる必要があったということ、この二点です。
これは、優れて理性的な人間の振舞いだと私は思います。私たちは、他人からすれば簡単に解決の糸口が見えてしまうような心の問題を、自らに与えられた大前提として――つまりは、変えようのない所与のものとして――背負い込むところから、自らの人生を始めてしまうものです。誰かがそれを歪んでいる、間違いだと指摘するのは簡単なことでしょう。ですが、その光でもって自らの人生をあまねく照らしてみることはできるでしょうか。そこに何の歪みも、誤謬もないと言い切ることはほんとうに可能でしょうか。私には、とても耐えられません。
このように知寿の盗癖をあるひとつの文脈で正当化してみるとき――この場合は文学的空間がそれを担保してくれる訳ですが――、この小説の持つすべてが知寿の怖れと願いによって紡ぎ出されていることを、私たちは知ることになります。つまりはタイトルも、構成も、文章も、それらが醸す「物足りなさ」も、すべてが彼女の要請によって切り分けられているのです。これは一人称の文学形式だからこそ与えられる面白さであり、怖ろしさでしょう。
そういうものを見事に描き切っている透徹ぶりにこの作家の真価が窺える訳ですが、ここまで来れば、知寿が母や吟子さんにぶつけてきたものの正体をようやく見ることができるでしょう。すなわち知寿は、自らが得た人生に対する洞察が、身近な彼女たちに適うものかどうか見極めているのだと私は思っています。
だとすれば知寿は、それが適わないから苛立っているのではないでしょう。むしろ、それが適わないのであれば、自分を――そうと分かっていてもどうすることもできないこの私を――、いっそ変えてみせるだけの新たな洞察を、あるいは人生そのものを示してみろよ、と彼女はそう憤っているのです。
(彼女の怒りは正当なものだと私たちはこの際認めておきたいものです。私を苛立たせる当のものを別の何かに見出してしまうのは、私たちに最も相応しい振舞いのひとつなのですから、彼女だけを責める訳にはいかないということです)
その意味では、母は最後まで頼りない存在として描かれていますが、吟子さんはそうではありません。最後の夜に吟子さんが放ったひと言は、おそらく知寿の心を掬ったのでしょう。憑き物が落ちたように盗品のコレクションを、何とも彼女らしいやり方で片付けてしまったのは、あのやりとりを抜きにしては考えられないことなのですから。
そうやって知寿は、彼女なりのやり方でこれまでの人生を総括したのでしょう。すべてのものが彼女から背を向けて移いゆく景色に、ただ体をこわばらせ、腕組みをしたままやり過ごすしかなかっただけの知寿が、なりゆきではなく、自らの手で行動を起こし、また起こそうとしている。それも最後の最後までどこか危なっかしい足取りで新たな景色を望もうとしている訳ですが、それでも彼女は一年前の自分とは、おそらくもう別のものになっています。
あの縁側で、付かず離れずの老婆とそれぞれひとりを楽しんでいた頃の景色を、今度は対面の車窓から食い入るように眺める彼女はもう、どこの誰でもない乗客のひとりとして社会の景観にすっかり溶け込んでしまっています。これまで外の世界として対象化されていた駅の人々の中に自らを反転させ、彼らと同じ世界へと消えていくことで知寿は自らを赦そうとしているし、現に赦されていくのでしょう。それは一年という時のめぐりが与える美しいコントラストで、物足りないながらもこの物語に似つかわしい完成度の高い結末だと言えるものです。「世界には外も中もないのよ。この世は一つしかないでしょ」――吟子さんのこの言葉は、やはり知寿の心を掬い上げたのです。
もう長くは語りませんが、耐えることに、慣れることにばかり心が向かい、誰かを――それも心から願う誰かを――繋ぎとめる手立てをまるで持ち合わせていない知寿を思うと、ユトリロの風景画を観ているような物悲しさが湧いてきます。
彼もまたアルコールへの依存に苦しみ、屋外制作が叶わない身となって絵葉書を元にパリの風景を描いたと言われています。くたびれた家々のくすんだ壁の風合いに迫るために鳩の糞まで練り込んで描いたそうですが、そうやって質感をなぞり、近付こうとするはずの風景に画家は存在しません。彼が描くのはいつも彼が居合わせることのない場所で、そこでは人々は常に画家に背を向け、画面から遠ざかるように描かれている。彼にとっても、やはり人は去り行くものなのです。
去り行く誰かの質感を忍ばせた盗品を手に抱く知寿と、画面から遠ざかる人々を描き続けるしかなかった画家。こうしたものを抱えなければ生きていけない誰かのことを愛しく思いながらも、どうして私たちは、そういう誰かとすれ違う形でしか生きてはいけないのでしょう。