書評4-2 彩瀬まる 『やがて海へと届く』
長くなりすぎたのでふたつに分けています。
レビュー2(既読の方へ)
こちらでは主に、偶数章で描かれた世界について私がどういう受け止め方をしたのか触れておこうと思います。できる、できないは別にしても、人様の作品を自分の作品欄で扱う人間としては、自分が感じたはずのものをツケにしてひとり泣き笑いしている訳にはさすがにいきませんから。
(この作品は今年になって映画化されたとニュースで見た記憶がありますから、それを追えば、少なくともそこに描かれた世界の解釈や手触りが視覚的には了解されるのでしょうが、そういう文献学的なアプローチはプロに任せておけばよいので、ここではただ感じたことを言葉にすればよいでしょう)
偶数章だけを切り取れば、物語の冒頭はどこか寂れたバス停から始まります。山に沿う形で開かれた青々とした集落に夜明けが訪れたことが窺えますが、そこから帰ろうとする「私」が、坂を上り、小道を抜け、小川を渡り、坂を下っていくらか歩き続けたところでもう日が沈み、夜が訪れようとしています。そうして気がつくと、「私」は元いた集落とまるで同じ場所へと戻って、早朝にバスが来ないことを告げた老婆と再び向き合っているというのです。
この辺りからすでに私たちはこれが「夢の世界」を描いたものだと推し量ることになるでしょう。そこでは時間の流れが不均質で(あるいは「私」の体力が無尽蔵でもよいのですが)、どれだけ歩いても同じ場所に引き戻されるというのは、誰もが知る悪い夢のよくある手口です。
このあと、帰る手立てのない「私」は老婆の自宅に案内されますが、そこでの描写もまた、たくさんの人の気配があるのにたたきにひとつも靴がないこと(集落に人の気配はありませんでしたから、これは彼らが外へは出られないことの暗示でしょう)だったり、「えんえんと廊下を歩く」(空間的な歪み)や、老婆に甘やかされ「子どもへと還っていく」(感情に伴う身体的な変化、時間の逆行)など、ひもとけば夢の常套とも言える手口がいくらでも見えてきます。
こう書くと、いくらかホラーめいた雰囲気が漂うように思いますが、実際の小説の手触りはまるで違います。この彩瀬まるという作家は、誰かに甘えてみせる仕草を書くのがほんとうに上手い。気を許そうが許すまいが、こちらの心の襞をまるで悪びれることなく撫でてきますし、それで私の気が惹けることを彼女は端から疑っていない。そういう手つきです。罪のない子どもにふいに懐かれてしまったようでもあるし、自分の美しさを十分に弁えた女性の戯れに絡め取られてしまったようでもあるのですが、彼女の文章に触れていると、ほんとうに筆を持つべき人間が作家になったものだと言葉の端々で心を奪われてしまいます。
話が逸れようとしていますね。実際にはもう少しメルヘンチックな雰囲気が漂っていると言うつもりでした。とはいえ、明るいメルヘンではありません。一歩間違えればどうなってしまうか分からない、死に安楽を求める人間がけっして足を踏み入れてはいけないような、その手のものです。
この世界は「私」の知覚や感情によって大きく変状される感覚的で、象徴的な世界です。そこでは固有の名前が失われ、「私」には声が聞こえるのに、老婆が誰の名前を呼んだのか理解することができません。それが女の子の名前だということまでは分かるのに、「私」にはどうしても聞き取ることができないのです。「私は一体なにを忘れてしまったのか」――こうした世界に投げ出されてしまった「私」にとって、この言葉は根本的なテーゼであるとともに、何か根源的な危機を知らせる言明としても受け取ることができるでしょう。
これは私たちの現実でも言えることですが、「私」に左右される世界にあって、「私」がそのことをまるで了解していないというのは、本来とても怖ろしいことです。痛みというものに、まだ前もって怖れを抱くことができない子どもをひとりにはしておけないのと理屈は同じだからです。
私の感覚では、この辺りの「私」の危機感の希薄さというのは、現実世界の「私」(つまりは真奈)の「痛み」に対する洞察なり信条とリンクするものがあります。たとえば真奈の次の言葉。
「すみれを失って、この世の物事で痛みや諦めを伴わないものはすべて嘘だと思うようになっていたのかもしれない。そうでなければ許されない気がした。最も深い苦しみだけが、本当のものであるように思っていた」
真奈がすみれの恋人である遠野くんにぶつける怨嗟にも近い激情というのは、この言葉の内に見ることができます。彼女にとって、痛みを覚えることと誰かを正当に悼むことは等号で結ばれています。痛むことと悼むことがまったくの等価だというのですから、形見分けを契機に「忘れてもいいことにする」と口にした遠野くんのことを真奈は許すことができません。
それを分かっていて、真奈へと投げかけるように自らの思いを口にした遠野くんにこそ、個人的には心を寄せてしまいたくなるのですが、この「痛む=悼む」という信条だけが、あのような一歩間違えれば廃人となりかねない危険な世界の深みへと、真奈を送り出した唯一のものであるような気がしています。真奈でなければ、方法的にたどり着かなかった世界と言ってもよいのですが。
そして自らの痛みに救いや慰めを覚える人間の心があちらの世界へと変転するとどういうことになるか。それが自らの置かれた状況に危機感を覚えない「私」へと繋がってしまうことは、おそらく目に見えているでしょう。真奈に近しい男たちが揃って彼女の心を案じていたのは無理のないことですし、実際正しい振舞いだったのだと思います。
さて、書評を始めるに当たっての弁明なり決意なりも含め、夕飯時に手をつけたレビューもすっかり夜半を過ぎてしまいました。直に空も明けるでしょうが、明日は明日でやりたいことがありますし、それまでには形にしておきたいところです。ですから、あとはすっかり端折ることにします。私たちの言葉で言えば、「あとはでんしたら、帰んで」となるでしょうか。
(残念なことではありますが、このことで文句を言われても、私が耳を貸すことはないでしょう。私に言いたいことがあるのなら、そんな徒労に手を出す前に実際にこの小説を読んでみれば済む話なのですから。そうすれば「実際読んだら、お前が書いてることよりよっぽど深いことが書いてあったわ。知らんけど」となるでしょうし、そうなれば私の願いは晴れて叶ったことになるのです。そしてこれは、あなたも私も、けっして損をする話ではないでしょう。書きたいことは尽きませんが、私としてはもう、気力も体力も峠を越えてしまったということです)
ここまで来ればうすうす感じてはもらえたでしょうし、実際読んだ方なら驚くこともないと思うのですが、この世界は、夢の文法によって描き出された「死者の世界」だと私は受け止めています。すみれと繋がっていたいと強く願う真奈は、その願いと自らが抱えた痛みを引き換えに、死者の世界へと降り立ってしまったのだ、と。
これを説得的に示すことは私の任も、力量も超えているでしょうから、あとは読んだ方へお任せしたいのですが、あの死者の棲家に足を踏み入れたときから、すみれの人生のすべてを、そうとは知らずに借り受けることで「私」は歩き始めるのでしょう。「私」はすみれの生をまとうことで(物語に即して言えば、すみれの靴を履くことで)、自らの魂を鎮めるための旅に出たのだということです。
(オルフェウスの神話を思わせるあの死者の家から出る瞬間に見送りに現れた女、あれがすみれなのでしょう。黒くて長い髪、垂れた瞳、母と反りが合わず、気難しい祖母(おそらくはあの老婆)からは偏愛された彼女の記憶やものの感じ方が――こうしたものは、いずれも奇数章(現実)ですみれに与えられる描写と重なるものです――、自らのこととして(つまりは「血よりも近く」)、すでに「私」には流れ込んでいることがあの描写からは窺えます。やがて出会う泣きぼくろの男(遠野くん)、男と髪を洗いあう親密な記憶、そして彼から贈られたピンクベージュのパンプス。こうしたすみれ固有の記憶が、「私」のそれと渾然と溶け出して描き出されるところに、この小説の奇怪さというか、「私」をめぐる特異な救済というものを見出すことになるでしょう。それにしても、現実のすみれは足に合わない靴を嫌っていましたが、彼の贈り物を内心ではきっと喜んでいたのでしょうね。そしておそらくは、こうした一つひとつが真奈の心を救っていくのでしょう)
どうしてそんな世界を、これほど柔らかな手触りで紡ぎだすことができるのか。これがほんとうに、肉をまとった人間のたどり着ける世界なのか。この小説を読んでいる間、私の心の奥底で揺れていたものをどうにか取り出してみせるのなら、おそらく、この言葉以外にはありません。
あのダンテでさえ、肉をまとった身で死者の世界へと渡るには、ウェルギリウスという霊感に満ちた詩人の導きをあどけないまでに求めたというのに、彼女はひとりきりでそういう世界へと降りていくのです。ほんとうに深く、深く。
それが叶ったのは、この作家が生きることをただただ強く志向していたからでしょう。危機的な何かを描きながら、それでも私たちが最後まで明るい予感を持ってページを繰ることができたのは、彼女の力量以上にこうした信念が作品を貫いていたからだと感じています。
結局、空は白んでしまいました。体裁上の初回だけに気持ちが入ったのかもしれませんが、この作品がそれだけ私の手には余るものだったというのが実情でしょう。あとは「帰りしな」にひとつだけ。
これはいくらか逆説めいて聞こえるかもしれませんが、私はこの物語がこういうものだと言いたいのではありません。なるほどこういう見方だって許されるのかもしれませんが、私はそもそも何の気なく手に取った小説が私のてのひらに上手く収まることを望んで読み書きしている訳ではない。そうではなくて、私が掴んだと思った瞬間からもう零れ落ちている豊かな物語の源泉というものに、私は打たれていたいのです。そしてこの意味では、私は敗れ続けるしかありません。そういう自分を、私自らが望んでいるのですから。
ですが、これを読まれる方はそうではないかもしれない。ここでの言葉に何かを感じ、実際の本を手に取ってくださる方がこの世界のどこかにいるとしたら――そしてもし、それがあなたであるのなら、私にはもう何も言うことはないのですが――、その方はきっと、そうではないかもしれない。私が語り損ねたものの中から、もっと自然で、止め処なく湧き起こる豊かなイメージを、柔らかな手つきで掬い上げることができるのかもしれない。
誰かのそんな姿を心の内で思い描くとき、私は自らの人生にけっして少なくはない慰めを感じてしまいます。この歳にもなって何をお花畑な幻想をと自分でも笑いたくなりますが、それでも「夜の思想」というのは本来こういうものでしょう。いい大人になっても、夢は見てしまうものなのです。