4
暗闇に、俺はただただ漂っていた。
漂うそれは水のような煙のような、何かは分からない。呼吸すら億劫になる倦怠感に身を任せ、目を閉じたまま漂う。
(このまま、死ねたら──……)
楽なのだろうと、俺は思う。
正確には未遂だったけれど、こちらの意思など関係なく同性である男に弄ばれ、あの部屋にあった香の効果だとは分かりつつも、途中から浅ましくも身体が反応したのは事実で。
魔法さえ使えたらと、心底己の体質を恨んだ。けれど、それを考えたところで仕方がない。
(アイツに──アレクに、見られた)
助けにきたというアイツに、全て見られた。あの場から助けてくれたのは感謝しかない。けれど、もう会いたくない。理由なんて、簡単だ。
(俺はもう、独りだから)
信頼していた、親よりも親だと思っていた男は、子どもを売り払い人を殺したクソ野郎で。俺のことですら、売る予定だったらしい。
(もう、良い。裏切られるのも、疲れた。どうせアイツだって、あんな俺を見たんだ。離れていくに決まってる)
嫌だなと、俺は思ったんだ。
初めて出来た、友のような兄のようなアイツに、嫌われるなんて耐えられなかった。たった二週間過ごしただけで、互いの本質なんて理解してるとは言わない。
けれど、何も知らないわけじゃない。細身のくせに大食いで、そのくせ苦い食べ物は嫌いで。ピーマンすら憎憎しいといった顔で食べていたり。一人で何でも出来るくせに、一人になるのが嫌なのかソファではいつも真横に座ってくる。賢くて無駄に整った容姿をしていて社交的な性格なのに、どこか一線を引いて他人と接していたり。
「どうせ、嫌われるくらいなら」
いっそこのまま、死んだ方が楽だ。
何よりも、顔を見れる自信がない。あの男に弄ばれている最中、香により意識が朦朧とする中、あの男にアレクが重なって見えて、そんな自分に吐き気がして。
このまま目覚めずにいたいと、俺は心からそう思っている。
「……そう上手くはいかねぇか」
ポツリと呟いた言葉は、暗闇に消えていく。
此処は何処だと身を起こして見渡せば、一度だけ入ったことのあるアレクの私室だった。
暗闇に目が慣れてきたのでよく見ると、ベッドに上半身を乗せて突っ伏して寝ているアレクが見え、思わず身を固くする。よりによって一番会いたくない奴がいるなんてと、音を立てないようにしながら、俺はベッドから抜け出した。
(喉渇いた)
ならばとそろりと部屋も抜け出し、階下へ向かう。キッチンまで辿り着き水を飲み、一息吐いたところで部屋に戻る気持ちにもなれず、塔の屋上へ向かった。
時刻は夜の二十三時。時計台は鈍く黄金色に光っていて、夜でも時刻が分かる。三階建ての塔はそれなりの高さがあり、風をそれなりに感じられた。
「──この、まま」
飛び降りたら、どうなるのだろうか。
ぼんやりとした思考の中で、柵に手を伸ばした。鉄製の柵は冷たくて、熱が奪われていく。そのまま頭から寄りかかった時、視界が滲み始めたことに気付いた。
「ぁ、」
一度自覚すれば、土砂崩れかのように涙が溢れてくる。苦しくて、何もかもが嫌で堪らなくて。あんなことをされた記憶も、今泣き崩れる弱くて情けない自分も、死ぬ勇気もない自分も、嫌で堪らない。
次第に浅くなる呼吸に、意識が朦朧とし始める。こんなに苦しいなら、死んだ方が楽になると頭の中で弱い俺が叫ぶ。どうせもうアレクは俺を遠ざけるだろうと。穢らしいと罵り、軽蔑するだろうと。
柵を握り直し、足を掛けて乗り上げる。風に煽られながら乗り越えた先に足場などなく、視界が反転した。
(嗚呼、漸く楽に──)
「────"止まれ"ッ!!」
地面にもう身体が触れるという間際に、ピタリと俺の身体だけが静止した。目線だけ動かせば、窓から身を乗り出しながらアイツが──アレクが、手を此方に向けていた。
「何、で……」
アレクは、酷く安堵したように息を吐いていた。そして俺の意識が自分に向いたと分かった途端、窓から飛び降りて事も無げに着地して、俺に駆け寄ってくる。
「"こっちへおいで"」
ふわりと、柔らかい風が身体を包んだ。そのままフワフワとアレクの元に運ばれて、横抱きにされる。
「──何をしたか、理解しているの?」
「……そりゃあ、まあ」
意識が朦朧としていたとはいえ、飛び降りたのは俺の意志だから。目を合わせるのが怖くて、俯いたまま答えた。
「理由を聞かせて」
「──理由?ハッ。そんなの、分かりきってるだろ」
「ロイ、」
「信じてた院長は人殺しで子どもを売るクソ野郎で、あんなことをされて。理由なんて幾らでもある……ッ!」
視界がまた、滲んでいく。
苦しくて苦しくて、情けなくて。
「信じてたんだ……っ!親だって、そう思ってた……っ」
「……うん」
「魔法が使えなくて虐められても、院長だけは……っ、優しくて、俺をちゃんと、居ていいんだって、」
頭では、理解しているんだ。商品として、損なう事なく扱っていただけなんだと。けれど沢山の思い出が、理解したくないと叫んでいるんだ。
「それ、に……っ」
「……何だい?」
「お前に、見られたの、も……っ、嫌だ」
「ボクには助けられたくなかった?」
「ち、がう、けど……っ、」
助けてもらえるなら、アレクが良かった。というより、アレクしか頭に浮かばなかった。香により熱と欲に支配されて、院長をアレクだと錯覚していたのもあるけれど。
「……ごめんね」
「何で、お前が……っ、謝って、」
「早く助けられなくて、ごめん。キミの師匠だと言っておきながら、助けるのが遅れたから。怖かったろう?」
「怖、い?」
「無理矢理……あんなことをされたんだ。香が焚かれていたから麻痺してたかもしれないけど、キミの心は確かに怖いと思ってたはずだよ」
怖い──嗚呼、そうだった。
地下室で目が覚めて、服を着てないと気付き、のし掛かられた瞬間、俺は確かに恐怖を感じていた。
「こ、わ……かった」
「ロイ……」
「おせえ、よ……っ、馬鹿、」
「うん。本当に、ごめんね」
こんなの八つ当たりだ。けど、アレクは全部飲み込んで、受け止めてくれた。泣き噦る俺の頭を撫でた後、俺を抱えたままアレクは地面に座った。そして、壊れ物を扱うかのように優しく抱え直し、俺の頭を撫でる。それが心地良くて、少しずつ呼吸も落ち着いてくる。
「──ボクも、怖かったよ」
「ん……お前も?」
肩に寄り掛かっていたが顔を上げてアレクを見れば、何処か苦しそうな顔をしていた。
「可愛い弟子だからね。あんな状況になるまで助けられなかったことも、我を忘れそうになって殺しかけた自分のことも。何より、何日経っても目が覚めないキミの顔を見ているのが、怖かったよ」
「──何日経っても?」
そういえば、あれから何日経ったのだろうか。ずっと寝ていたのだとは分かるが、日を跨いでいる感覚すらない。
「あれから五日経ってるよ」
「は……?」
「あのまま眠ったままだと、衰弱して死ぬ可能性もあった。水分は摂取させられたけど、食事は寝たままだとどうしようもなかったから」
「寝たままでも水飲めんのか?」
「……魔法で、まあ」
「そうか……ごめん。心配かけて」
顔を背けたアレクに、そりゃあ五日間も目を覚さない人間の世話は気が休まらなかっただろうなと、罪悪感が募る。目覚めたくなかったのは本心だけれど、アレクの気持ちは一切考えていなかったから。
「……気持ち悪く、ないか?」
「何がだい?」
「俺の、こと」
そう口にした途端、顔を背けていたアレクは勢いよくこちらに振り向いた。首が痛そうだなと思ったのも束の間、その表情に息を呑む。
「あり得ないでしょ」
「……でも、」
「怒るよ、本当に」
「もう怒ってるじゃねえか……」
「ロイがバカなことを言うからでしょう?キミは本当にバカだね。あの状況をキミが望んでたのなら分かるけど、そうじゃないでしょう?」
「当たり前だろぉがっ!」
「──だったら、何でボクがキミを嫌うの。剰え、気持ち悪いなんて思うわけがない」
本気で怒っているのか、声色がいつもより低い。俺としてはそんな考えをして死のうとしたのが情けなくなり、俯くしかない。アレクはこういう奴だと知っていた筈なのに、信じきれなかったから。
「ボクに見られたのが嫌で死にたくなったんだっけ」
「……それだけじゃ、ねえけど」
「ふぅ〜ん?」
「……あんだよ」
怒っていた筈のアレクは、俯いていた俺の顔を無理矢理上げさせて、ニヤニヤと笑いながら頬を撫でてくる。クソ腹立つなオイ。
「可愛い弟子だね、全く」
「あ"?」
「目を覚さないキミのお世話をしたのはボクだよ。身体の隅々まで見ちゃった」
「っ!?お、前……っ」
「冗談だよ。って、アハハッ!顔真っ赤!」
「煩えっ!もう知らんっ!離せ変態っ!」
「いーやーだーねっ」
その後も何故か横抱きのまま、野郎を撫でて何が楽しいのかは知らないが頭を撫で回され、食事だなんだと世話を焼かれ続けたのだった。