第81話
「すかぴー」
「そして何事もないように寝る廸子ちゃんほんと素敵」
酔っ払いモード全開。
これどうなっちゃうの。
廸子ちゃんに俺、貞操を奪われちゃうような展開になっちゃうの。
酔った勢いでいたしちゃうの。本当にこのまま寝るだけなの。
とか思わせぶりなことをしておいての爆睡である。
流石の廸子。
三十路ヤンキールックナイスウーマンだけはある。
どきどき温泉旅行。ぽろりもあってもよいのよ、どきどき急接近もあっていいのよというフラグをバッキバッキにへし折って、彼女は綺麗な顔で寝入っていた。
ま、コンビニ勤めって重労働だからな。
仕方ないな。
ふかふかのお布団の上で大の字になって眠る幼馴染。
オッパンティとかブラブラブラジャーとかが、ちょっとはだけた感じになっているが、それはそれ。
エロいこと考えるより、理性の方が勝るのはやっぱり幼馴染。
廸子が風邪をひかないように、そっと布団をかけてやると、俺は静かに電気を消した。
はぁ――。
「なんか、ほんと、いろいろあった一日だったなぁ」
家から有馬温泉への移動から始まり、有馬温泉街の観光、家族風呂、そしてまさかの神原一族のお家騒動。
ちっとも休まる旅行じゃなかった。
一応、話はついて、夕食はそれなりに豪勢なものを食べたけれども、とても息抜きとは言えないあわただしさだった。
旅行とは疲れに行くものなりとはよく言う話。
けれど、本当に、今日についてはそれだよな。
もっとも、全然想像していないタイプの疲れだったけれども。
万事丸く収まってくれたのはなによりである。
これから九十九ちゃんがどうしていくのか。
本当に神原家で預かるのか。
預かったとして玉椿町に彼女がなじむことができるのか。
炭泉閣の経営を譲渡するにしても、スムーズにそれを行うことができるのか。
そもそも適任者が本当にいるのか。
課題はまだまだ多い。
多いけれど、それに嘆いていても始まらない。
夜の有馬の山並みが見下ろせる窓辺に移動する。
煌々と照る三日月を眺めながら、俺は自販機で買ってきた天然水をくぴりと飲んだ。入眠剤と抗不安剤を飲むためのものだが、すでにそれらは飲んだ後。
服用後すぐに効果が出ると、この薬を飲み始める時に医者から説明を受けたのだが、俺はどうにも薬の効きが悪い体質らしい。どうやっても、眠くなるまでに時間がかかる。なので、いま少しの間、窓辺でゆったりと過ごすことにした。
廸子の静かな寝息が聞こえてくる。
俺は廸子の身内に振り回されっぱなしだった一日だったけれども、彼女自身はそんなことはなかった。夕食も、おいしそうに食べていたし、俺の目の前で遠慮なしにビール瓶空けていた。なんだかんだでおもいがけずに家族も増えた。
廸子的にはいい旅行だったんだろうな。
だったらまぁ、このくらいの貧乏くじ引いてもいいのかもしれない。
普段、迷惑ばっかりかけるばかりで、ろくに廸子に恩を返せていない。
情けない。情けないけれど、これが俺だ。
それはもう受け入れるしかない。
無様でも、やれることはやった。やったし、いいように落としどころは見付けられたように思う。
廸子の奴の最後の独白――についてはまぁ一考の余地はあるけれど。
「サッカーチーム造れるくらいにか」
現実的には無理だろうな。
無難なところで、二人。
よくて三人くらいだろう。
それ以上となると、俺と廸子の稼ぎじゃ難しいように思う。
姉貴に頭を下げて援助してもらえれば話は別だが、姉貴も今後どうなるかはわからない。今はちぃちゃん一筋だが、彼女が大きくなったなら、また新しい恋をするかもしれない。
恋に遅いも早いもない。
というか、ババアババアと煽っているが、姉貴は独り身でいるにはもったいないくらいの美人だ。器量もいい。
おとなしく奥さんやってた頃は、今みたいに無茶苦茶な感じでもなかった。
猫かぶってるわけではなく、尽くすべき人には尽くすタイプの人だ。
どうなるかはわからん。
ただ、将来もし姉貴が女の幸せを追いたいと思った時、それを俺たちが邪魔するのはまずい。ただでさえ、いろいろと世話になっているというのに。
となれば、親父は、お袋は、誠一郎さんは。
なんて頼れる相手を考え出す。
これはいかんなと、俺は一気にペットボトルの中身を飲み干すと、はぁとため息を吐き出した。思考がダウナーに向かっていく。これはよくない傾向だ。
「……俺もそろそろ寝るとするかな」
明日のことは明日考えよう。
未来のことは未来の俺が考える。
今は、自分たちにできることを、少しずつ少しずつ重ねていく時期なのだ。
将来、俺は廸子と結婚したいと思っている。
彼女のことを幸せにしたいと思っている。
人数はともかく、子供は欲しいと思っている。
彼女も、彼らも幸せにしてやりたいと思っている。
今は、その思いだけで十分だ。
十分じゃないと周りは言うかもしれない。けれども、それが、今の俺にできることなのだから仕方がない。周りに流されず、ただ、黙々と、自分にできることを積み重ねていくことしか、普通の人間にはできないのだ。
廸子の隣に敷かれた布団に潜り込む。
ふぁと欠伸をすれば、ようやく薬が効いてきたらしい。
ぼんやりと、月明かりが差し込む有馬温泉のホテルの一室。
豪勢なそこで、布団を隣り合わせて寝るだけのカップルなんて、そんな奇特な奴らがいるだろうか。
ほとほと、おかしな話もあったものだな、なんて思いながら、ふと、俺は横の廸子の寝顔を覗いた。
相変わらず、気持ちよさそうに眠っている彼女の顔が、少しだけゆがむ。
「……陽介ぇ」
「……なんだ、廸子」
「……たのし、かった、ねぇ」
「……そうだな」
寝ているの、起きているのか。
たぶん、寝ている。
寝ているふりして、こういうことを言うような、そういう女じゃないことは、幼馴染の俺がよくわかっている。
けど、寝言でも嘘を言わない女だというのも知ってる。
えへへとはにかんで廸子。
「また、いつか、来ようねぇ。今度は、二泊三日くらいで」
「そうだな。新婚旅行とかいいかもしれないな」
「新婚旅行で来たいね。みんな連れてさ」
「どれだけ金要るかわかってんのか。まったく」
気軽に言ってくれるよな。
その時、もぞりと廸子が入っている布団が動いたかと思うと、彼女がこちらに顔と身体を向けてきた。
それだけでなく――。
「……陽介ぇ」
「……廸子。お前、まさか起きて」
廸子は俺の腕を握りしめた。
握りしめて、その体を押し付け――るようなことはせず、ただただ優しく抱きしめる。まるで抱き枕かなにかのように。
なんていうかな。
ラブコメのお約束じゃ、もっと密着するところだろう。
軽く握りしめるだけなんて。
どれだけじらすんだよ。
けど、こういうのの方が、俺は好きだよ。
そういうお前の牧歌的な所、俺は、たまらなく好きだ。
本当に。
「陽介。幸せになろうねぇ」
「もう十分幸せじゃないか」
こうやって、幼馴染と一つ屋根の下、穏やかな気持ちで眠ることができる夜が、幸せ以外の何物であるというのだろうか。
廸子。
俺はお前と一緒にいられるだけで、こんなにも幸せなんだよ。
君のぬくもりを、こうして感じていられるだけで、もう十分なんだよ。
これ以上の幸せなんて想像できないくらいに、今が幸せなんだ。
そして、これからの未来、訪れる幸せがどれだけ大きいか、想像するだけで心が穏やかになるんだ。
廸子。だから待っててくれ。
「絶対に結婚しような。廸子。約束だもんな、俺とお前の」
何年かかっても、きっと必ず、叶えてみせる。
そう願った夜だった。




