第71話
「浴衣着てる人少なくねえ?」
「そらそうだよ。お前、有馬温泉ってそういう所じゃないから。もっとカジュアルでお洒落な温泉街だから」
と言いつつ、仲よく揃って浴衣姿。
ちょっとまだ肌寒いので上から紺色の羽織を着て、俺と廸子は有馬温泉の坂の途上に立ち尽くしていた。
道行く人は洋服ばかり。
足湯につかる人までばっちり洋服である。
まぁ、神戸にほど近い温泉街だからね。
外国人居留地だったこともあり、西洋文化がいち早く開いた場所だからね。
そら仕方ないね。
温泉だって、お洒落な感じのになっちゃうわね。
とか思いながら横を見ると、顔を真っ赤にして廸子が巾着を振りかぶっていた。ぽすりと胸にそれがあたる。
「言えよ!! そういうことはさぁ!!」
「……やぁ、だって、廸ちゃん、浴衣で温泉入る気まんまんだったからさ。もうなんていうか、止めるタイミングを見失っちゃってさぁ」
「それでも本当にそれで外出るのとか、聞いてくれてもいいだろ!! 恥じゃんこんなの!!」
「いや、恥じゃない!! だったら、ペアルックの俺はどうなるんだ!!」
「ダブルで恥じゃん!! セクハラだ!! こいつ、やけに素直に付き合うなと思ったら、そういうことか!!」
ふはは。
今頃気づくとは廸子くん、君もまだまだ推理力が足りないな。
街中を別に彼氏彼女でもない男女が、ペアルックで歩くというこの苦痛。
このセクハラ。
見た人から、あらカップルよ、不倫旅行よ、いいえ偽装結婚よと後ろ指刺されまくりなのを覚悟で、浴衣を着たのはそのためよ。
廸子破れたり。
どうやら有馬温泉セクハラ勝負。
一勝負目は俺の勝ちのようだな。
本当の所は、廸子の浴衣姿があんまりにも綺麗だったから、もうちょっと長く見ていたかっただけなんだけれどな。
あと、ペアルックは、流石に彼女一人浴衣はかわいそうだったからだけどな。
まぁそのなんだ。
旅で浮かれた幼馴染のフォローって奴も大変なもんよ。
「ちくしょう!! アタシが温泉のこととかあんなまり知らないからって舐めやがって!! 陽介のバーカバーカ!!」
「あぁこら走るな廸子。お前、着方が雑なんだから、いろいろはだけるだろ」
「……うぅっ。これなら普通に洋服着てきた方がよかった。浴衣、めっちゃ歩きづらいし、いろいろ気を使わなくちゃいけないし、ぶっちゃけちょっと寒い」
「まーねー。けどまぁ、廸ちゃんや。そういう旅先でのアクシデントも旅の楽しみって奴ですよ」
ほらほらそいじゃま観光に参りましょうと、俺は廸子の手を引く。
やだー、着替える、寒いー、などと喚いていた彼女だったが、すぐさま、坂の途中にあるロータリーで、飲み屋を見つけるなりその顔色が変わった。
お土産物、有馬サイダーなどの露店と一緒に、ちょっとした立ち飲み屋になっている。そうそう、この辺り、地酒も美味しいのよね。
きらりと瞳を光らせてこちらを振り返る廸子。
もう言わんとせんことは、口を開かずとも分かった。
「陽介!! 地ビールだって!! 地ビール!! 昼から飲んじゃっていいかな!? 旅行だし、誰もいないし、飲んじゃってもいいかなぁ!?」
「お前あんまりお酒強くないだろう。これから温泉も入るのに、観光もしなくちゃいけないんだから、我慢しなさいな。なにより、悪酔いしてご飯が食べられなくなったら、目も当てられないでしょう」
「……うぅっ。じゃぁ、お土産に買うくらいはいいよな?」
まぁ、それくらいは別に。
けどお前、そんなの持って帰ったら、爺さんがいろいろと煩いんじゃないのか。
廸子に言われて誠一郎さん、確か禁酒しているんだろう。
禁酒させている爺さんの前で飲酒とか――どんだけ鬼畜なんだよ。
誠一郎さんが苦悶の表情を浮かべるのを想像しながら、俺もまた苦しい顔をする。だめかなという顔をする、上目遣いの幼馴染の視線がこれまた破壊力が強いんだな。困ったことに。
こんなん頷かない訳にはいかない。
「いいけど、あれだ、旅館で飲んでけ。家に持って帰るとやっかいだから」
「あー、爺ちゃんな。そっか、それは考えてなかった。よし、それじゃ、夜は飲みってことで、陽介の分も」
「……廸子」
釘を刺す。
俺は睡眠薬と抗不安剤の関係で、アルコールの摂取はご法度だ。
この辺り、元看護師の廸子はよく分かっているはずである。
あ、ごめん、と、廸子。
なんだか申し訳なさそうな顔をする。
申し訳ないのは――どっちかっていうとこっちだってえの。
俺だって、健康だったら、お前と一緒に酒くらい飲みたかったよ。
まったく。
「という訳で、ビールは付き合えないけれど、サイダーなら付きあえる」
「……おっ?」
「ほれ、ビールと一緒にまとめ買いしてやるよ。これでもな、アホみたいな月給で働いてたから、傷病手当金にはそこそこ余裕があったのよ、ガハハ」
そう言って、俺は性質のみ居酒屋の隣にあるカウンターに立つと、瓶ビール持ち帰りとサイダーと店員に注文するのであった。
ビー玉入りのサイダーを、二人で手にして坂道登る。
俺は左手、貴方は右手。
空いたそれぞれ結んで揺らす。
なんてぽえみぃなことを考えながら、俺たちは有馬温泉の散策を開始した。
からりからりと、俺たちの歩みに伴って揺れるラムネの容器。
ちょっと買うんじゃなかったな、なんて思っている自分がいるが、なんだか童心に帰ったような気分はそう悪いものではなかった。
そう、まだ、自分がこんなろくでもない人間になるなんて、思ってもみなかった。希望にあふれていたころの、童心に戻れたような気がして。
「あ、コロッケ屋だってさ」
「こっちはきんつばだぜ。買い食いしていく?」
「していくしていく。へへっ、何か悪いことしてるみたいだなぁ」
「廸子。こういうのをな、世間じゃ大人の休日って言うんだぜ」
「んだよしたり顔で。はいはい、悪うございましたね、モノを知らん女で」
いや別に、謝ってほしい訳じゃないさ。
それに知らないのなら、教えてあげようってもんである。
着なれない浴衣の裾を揺らし、下駄を鳴らして俺たちは坂を上っていく。
有馬温泉。噴き出す温泉の蒸気がところどころから立ち昇る、坂の街を、幼馴染二人は、童心に帰って練り歩くのだった。
手は、つないだまま。
誰も俺たちのこと、幼馴染だなんて思っていないさ。
付き合っていないなんて思っていないさ。
だから、遠慮なく俺たちは恋人のように指を絡ませて手を握り合うのだった。
「陽介、ちょっと、手汗ひどくない」
「ひどい。廸子ちゃん酷い。幼馴染の手汗をとやかく言うなんて」
「緊張してるんだろ、そうなんだろ」
「馬鹿言え、なんで幼馴染の手を握るくらいでそんな緊張するんだよ」
楽しいだけさ。
こうやって、誰も知らない所で、恋人のように過ごすのが楽しいだけさ。
楽しくて、ちょっと後ろめたいだけさ。どうして、こんなことが、地元じゃできないんだろうなって、ちょっと思ってしまうだけさ。
やめよう。
せっかくの旅行だ、まずは楽しまないと、な。
「見ろよ陽介!! コーヒー屋があるぞ!! あれか、スターバックスか!!」
「ちげーよ、なんでこんな所にスターバックス出店してるんだよ。情緒もへったくれもねえじゃねえか。普通に、地元の小洒落たコーヒー屋だよ」




