第199話
どうして松田ちゃんがいるのか分からなかった。
なんで彼が大和高田で乗ってきたのか、どうして俺の乗っている電車が分かったのか。なにより、なんで思い切り腹を殴られたのか、意味が分からなかった。
分からないだらけの俺の前で、松田ちゃんは笑う。
ポケットの中に手を突っ込み、取り出したのはスマートフォン。
そこには、見知った人間の名前が表示されていた。
神原誠一郎。
「爺さんにまた頼まれてな。大事な大事な入り孫が、自殺しちまうかもしれねえからボディーガードについてくれってよう。ついでに、いっちょ荒っぽいやり方で構わねえから、精神をたたき直してくれとも言われたよ」
「……誠一郎さん」
「という訳で、まずはかけつけ一発は、心配している爺さんの分だ」
俺の身体を壁に押さえつける手を変える。
左手で俺の肩を押さえ直した松田ちゃんは、右腕を後ろに引くと、遠慮なくそれを俺の腹に向かって振り抜いた。
ババアや美香さんに暴力を振るわれることはあった。
誠一郎さんに稽古と称して、痛めつけられたこともしょっちゅうだった。
だが、こんな風に純粋な暴力を振るわれるのは初めてだった。
胃の中身が逆流するような重たい痛み。
思わず、嘔吐いた俺の顔を押さえて、松田ちゃんは吐くにはまだ早いと言う。
そして、もう一発。
いよいよ行き場を失った俺の胃の中で暴れ狂っている気持ち悪さ。
それを、察したように松田ちゃんが乱暴に左手で髪を引っ張る。
そのまま、洋式の便座に顔を突っ込んだ俺は、ろくに入ってもいない胃の中身を、そこへとぶちまけた。
それで、俺はようやく松田ちゃんの暴力から解放された。
「で、これは、お前に捨てられかけた嫁さんと娘さんの分だ」
「……なんで、そのこと、知って」
「誠一郎さんから全部聞いた。陽介、お前はよく頑張ったよ。偉いよ。俺がお前の立場だったらとっくの昔に逃げ出してる。廸子ちゃんと子供のために、なんだってするっていうその心意気については、俺も感服しているんだ」
電車が発進する気配がした。
大和高田駅から出発した鳥羽行き特急が、次に止まるのは大和八木だ。
おそらく三十分くらいの時間がある。
それまでに、廸子が目を覚ます可能性は高い。
そして松田ちゃんがこうして来てしまった。
もう、俺が逃げ出すチャンスはない。
胃の中身をすべて吐き出した俺を、松田ちゃんが引っ張り上げる。
蓋を下げた便座の上に俺を座らせ、彼は、ようやくいつもの表情に戻った。
ひょうひょうとしてとらえどろころのない仕事人。
かっこいい理想の男性という形容がぴったりと当てはまる、松田良作に。
「けどな、お前、死ぬのは間違ってる」
「そこまで、分かってんの。すごいね、松田ちゃんは」
「舐めるなよ、俺は探偵よ。こんな修羅場はいくらだって見てきた。足の指を加えても数えられねえくらいな。お前の顔にも、今から死にますって書いてある」
馬鹿たれ、と、言いながら、今度は殴らない。
松田ちゃんは俺と同じ目線になるように屈むと、サングラス外して俺の顔をのぞき込んだ。精悍な顔をした男前が、どうしてそんな不安そうな顔をしているのか。
せっかくのいい男が台無しである。
けれどきっと、彼は俺のためにそんな顔をしてくれているのだろう。
そう思うとまた、俺は何も言えなくなった。
「陽介。俺がこれから話すことはあくまで俺の考えだ。それを一方的にお前に押しつけるつもりはねえ。うだうだ考えて、俺や誠一郎さんの目を盗んで、首をくくることを選択するなら、俺はそれでも構わねえと思うし、仕方ねえと思う」
「……」
「ただ、その前に、俺の話を聞いてくれ」
「……松田ちゃん」
「お前が死ぬかも知れないと誠一郎さんから聞いたとき、俺はなんとしてでも止めたいと思った。さっきと言ったこととは違うが、俺はお前に死んで欲しくねえ。少なくとも、目の前でお前が死のうとしたら、ぶん殴ってでも止めるだろうし、手足を捥いででも生きさせる。それが俺のエゴだってのは承知の上でだ」
なんでだよ。
なんでそうなるんだよ。
おかしいだろ松田ちゃん。
なんで、俺なんかのために、そこまで思うことができるんだよ。
「なんで、だよ。松田ちゃんは、関係ないだろ」
「友達だからだよ。ただそれだけだ。それ以上の理由なんて必要か?」
「……それは」
「同じように、誠一郎さんも、親父さんやお袋さんも、おっかねえ姉貴も、お前に死んで欲しくないと思ってる。それぞれの立場で、それぞれの関わりで、きっとそう思う。お前の命はお前だけのものじゃねえ。誰かの人生に、お前はお前が思う以上に関わってる。突然居なくなったら、どうにかなっちまうくらいにな」
俺が死ねば、悲しむ人がいる。
だから、死ぬなっていうのか。
そんな理由で、俺はこれから、生きていかなくちゃならないのか。
ふざけるなよ。
そんなのは、周りの人間の勝手な思いでしかない。
俺にそんなものを求めるなよ。
俺は、もう、疲れ果てて、生きるのも、煩わしくて、どうしていいのか分からなくて、こんな苦しい生き方はうんざりとしているんだ。
それでも苦しんで生きろっていうのかよ。
あんたらの大切な日常のために生きろってか。
ふざけんなよ。
ふざけるな。
「俺の気持ちはどうなるんだよ」
「俺たちの気持ちはどうなるんだよ」
「俺がどう生きようが、どう死のうが、そんなのは俺の勝手だろう」
「そうかもしれないが、それでも俺たちはお前を止める。陽介、それが生きるってことだ。煩わしくっても、融通が利かなくても、周りと関わって生きていかなくちゃならない。誰かと関わってらなくちゃいけない。それが人生だよ」
「それが嫌だと俺は、言ってるんだ。こんな周りに迷惑をかけるだけの人生――」
「お前に頼られることを迷惑かどうか決めるのはこっちだ馬鹿野郎。勝手に、悲劇の主人公気取って鬱ってんじゃねえぞ、このすっとこどっこいが。おめえはどっからどう見たって、喜劇に出てくる道化だろうが」
鋭い痛みが顎先を突き抜けた。
松田ちゃんにビンタをされたのだと気づいたのは、彼が、熱い涙をその双眸から溢しているのに気づいたのと同じだった。
男臭い、無精ひげを所々に残した顎先に、流れていくそれ。
くそっと吐き捨てて、松田ちゃんは、自慢の白いスーツの袖で涙を拭った。
「考えろよ。もうちょっとよぉ。お前が死んだら、誰がどう思うのか。お前が死んで、嬉しく思う人間なんて、この世の中に居ると思うのかよ」
「……松田ちゃん」
「金だけ残して死んでくれて幸せってか!! お前の嫁さんが、そんな奴じゃないことは、この歳になるまでつかずなはれず一緒に居た、お前が一番よくわかることだろうが!!」
「松田ちゃん!!」
「なぁ、陽介、何がお前にとっての幸せだ!! 何が彼女にとっての幸せだ!! もう一度、てめえの命とみんなの幸せを、天秤にかけてよく考えろ!! なぁ、陽介!! そんな簡単に人生を結論づけるんじゃねえよ――!!」
みじめったらしくてもいいんだ。
なさけなくってもいいんだ。
ただそこに居てくれるだけで、幸せに思ってくれる人たちがいるというのは、幸せなことじゃないのか。
そんな自分の人生を、もう一度よく考えろよ。
松田ちゃんはそう言って、俺の肩を握りしめた。
強く、俺に生きるために必要な何かを分けようとするように、痛いくらいに肩をその無骨な手で握りしめた。
頬を伝う涙が俺の膝をぬらす。
いつしか、それに、俺の涙も合流していた。
便所の中で男二人して、声を殺して泣くだなんて、シュールも良いところだ。
けれども、きっと、これは俺の人生にとって必要な場面なのだろう。
「俺はさ、松田ちゃん、アンタみたいに強い男になりたかったよ。そうすれば、こんな風にバカなことしなくてすんだと思うんだ」
「俺は強くなんてないし、お前に憧れられるようなたいそうな人間じゃねえよ。けどな陽介、俺はお前と関われたことを、友達になれたことを嬉しく思ってるんだ」
同じように、お前の嫁さんもそう思っているに違いないんだ。
きっとお前と夫婦になれたことを、嬉しく思っているに違いないんだ。
その幸福な関係を、勝手に断つな。
松田ちゃんのそのたいそう勝手な言い草は。
随分と楽観的で独善的で性善説に満ちたセリフは。
けれども、確かな質量を持って俺の胸へと届いた。
その言葉一つで、俺の中に巻き起こる不安という名の心の嵐を、支えにして生きていけるような、そんな気がした。
たとえこれからどんな未来が待っていたとしても。
どんなに苦しい日々が待ち構えていたとしても。
涙を拭けよと松田チャンがポケットからハンカチを取り出す。
ギンガムチェックのそれは、少しも使われた様子がなく、ほんのりと男のモノとは思えない、柑橘系の良い香りがした。
「女にしかハンカチは貸さないようにしてるんだがな、今日は特別だ」
「……ありがとう、松田ちゃん」
「黙って貸してやるから、嫁さんにクソみたいな顔をみせるんじゃねえぞ。いいな。それと、ちゃんと玉椿町に帰れ。俺も見張ってるから――あぁ、いや、見守っているから、バカなこと、もう考えるんじゃねえ」
「ぜんぜん黙ってねえじゃん」
うるせえ馬鹿野郎と、松田ちゃんが笑って言った。
彼に借りたハンカチで涙と吐瀉物で濡れた顔を拭く。
一緒に、俺は自分の人生にまとわりついた、濃厚な不安の影も拭い去った。
もちろんそれは、気を抜けば、また俺の心に渦巻くものだろう。
人知れず、またこうして俺の頭まで侵食して、恐慌の嵐を呼ぶことになるだろう。
けれどももう大丈夫だ。
俺には、大切な人が居る、人たちがいる。
家族が居る、友達が居る、姉貴分が居る、弟分がいる、姪が居る、よく分からない関係の人たちも居る。
ありとあらゆる関係が、俺にそれを断ち切ることを望まない。
そう思えたなら。
また、俺は、きっとこんな風に不安を拭って生きていけることだろう。
なにより、俺のことを三十年も思って待ってくれていた妻がいる。
それでもう十分ではないかのか。
生きる理由、死なない理由は、十分ではないのか。
生きてきてはじめてこのとき。
俺は心の底からそう思えた。
「……約束したんだ。誠一郎さんに」
「……何を」
「廸子と、子供の幸せのために、なんでもするってさ。なんだってするって」
「だったら、なおのこと死ぬ事なんてできないだろう。馬鹿野郎、ようやく分かったのかよ。そんな大切なことをさ」
生きていけないと思った。
もう、どん詰まりだと思った。
これから待っているのは、惨めな地獄だと思った。
けれど、そんな地獄の中にも、きっと幸せはあるのだろう。
そんな恥ずかしい人生でも、生きていくことの方が大切なのだろう。
幸せと不幸せは手のひらの中になんてない。
それは定量的なものでもないし、確率のように収束するモノでもなければ、絶対的な基準があるものではない。あやふやで、不明瞭で、だからこそ、人を惑わす。
けれども分かってしまえばどうということはない。
幸せかどうかなんて、結局、自分が決めてしまうことなのだと、自分がどう思うかなのだと、そう分かればどうということはない。
「生きるよ、松田ちゃん。俺、まだ、頑張ってみる」
「……陽介」
「廸子とお腹の子供を幸せにするって約束したんだ。そのためには、俺が、生きていなくっちゃ。それに、これまでもさんざん、廸子には迷惑をかけてきたんだ」
きっとこれからも、笑って許してくれるさ。
しょうがないな陽介はって、一緒に歩いて行けるさ。
いや、いきたい、と、俺は思った。
廸子と子供と共に生きることが。
どんなことがあっても一緒にいることが。
俺にとって、なにものにも変えることができない、最高の幸せなのだと。