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第197話

 幸せがいつも手のひらの上からこぼれ落ちる時を待っているのか。

 それとも不幸せが俺たちに空から降り注ぐタイミングを狙っているのか。

 俺には分からない。


 三十二年生きてきて。ちっとも分からない。


 いつだって、それは突然やってくる。


「竹岡さん!! しっかりしてください!! 竹岡さん!!」


「……あー、やっちったなぁ、これ」


「大丈夫!! すぐに救急車が来ますから!! 後続車も止まってます!! ぶつかってきた相手さんも無事です!! だから、だから――!!」


「……いやいや無理っしょ、豊田くん。これ、下半身潰れてるよ?」


 助手席まで飛び散った血液。

 はみ出した内臓に骨。

 ぐしゃぐしゃになって、混ざり合って、どこからが機械で、どこからが人の身体なのか分からなくなった運転席。


 一目で、それがもう、どうしようもないものだということは分かった。

 駆けつけて、すぐに気がついた。


 四つ前の車。

 職業訓練校から夕日を浴びて出発した、数台の車の先頭を行く車両。

 青色をした普通自動車。


 後部座席に、子供を乗せるためのベビーシートを乗せたそれが、T字路で右側から信号無視して侵入してきたトラックに、横っ面を殴られるのを俺は見ていた。


 トラックがかすったのは車のフロント部分だった。

 けれども、その巨躯により弾き飛ばされた青い普通自動車は、そのまま、前にあるコンクリートの壁へと突っ込んだ。まるで、こんな所に突っ込んでくる奴などいるまいと、打ちっぱなしになった灰色の壁に、青い車はたたきつけられた。


 正面から突っ込んだフロントは再びへこみ、その運転席に居た人間の身体を挟み込んで、ようやく息絶えた。主人を残して一人だけ先に逝ってしまった。

 それに乗っていたのが誰なのか、知っている人間は少なくない。


 事故は――職業訓練校の目と鼻の先で起きたのだから。


 すぐに、後続の車から、俺と職業訓練校の生徒達が飛び出した。


「しっかりしろ竹岡さん!!」


「気をしっかり持て!! 大丈夫だ!!」


「今、センターに連絡入れてるから!! すぐ救急車来るから!!」


 そう、励ます彼らは、竹岡さんに近づこうともしない。

 彼がもう、助からないというのがはっきりと分かっているから。


 ただ一人、俺だけが、へしゃげた彼の愛車の中へと入り込んで、その手を握っていた。血で汚れるのも気にせず、今にも生命の糸が切れそうな手を握っていた。


 竹岡さん――。

 どうしてアンタがこんな目に遭わなくちゃならないんだ――。


「……なにやってんだろうな、あいつら」


「竹岡さんを助けようとしてるに決まってるだろ!! なに言ってるんだよ!! しっかりしろよ、竹岡さん!!」


「……いやぁ、もう、いいよ。もう、俺は、ここでいいよ」


「ここでいいって」


 なんだよそれ。

 あんたこれから、また、仕事しなくちゃいけなかったんじゃないのか。

 辞めるかもしれないけれど、家族のために働くんじゃなかったのか。


 後ろの席に置いてあるベビーシート。

 それに座る子供が大きくなるまで、アンタ頑張るんじゃなかったのかよ。

 何をあきらめているんだよ。


 竹岡さん。


 アンタ、先週、内定取れたって言ってたじゃないか。

 就職先から、すぐ来て欲しいって言われたけれど、たるいから職業訓練終わるまで伸ばしてもらったって、バカみたいに言ってたじゃないか。


 残りの時間で、適当に休んで、子供を構ってやろうって言ってたじゃないか。


 なのに、あきらめんのかよ。

 生きるのを、そんなに簡単にあきらめられるのかよ。


 強く、俺は竹岡さんの手を握りしめる。

 彼が少しでもこの世界に残れるように。

 万が一でも助かるように。

 祈るように俺は彼の手を握る。


 けれども――。


 蒼い顔を横に振って、竹岡さんは笑った。


「……いや、もう、いいんだってば、豊田さん」


「竹岡さん」


「……まぁ、これは十割向こうの過失だよな」


「なに言ってんだよ」


「……よかったよ、高い生命保険賭けておいて。嫁さんがさ、無駄になるから解約しろってうるさかったんだけれどさ、無理して続けてよかったよ」


「なに言ってんだよ!! 縁起でもない!!」


「……運転手訴えれば、もうちょっと出るかね。あぁ、けど、向こうさんにも人生があるからなぁ。申し訳ねえなぁ。俺みたいなのを跳ねちまったばっかりに」


「なんでそんなこと!! 竹岡さん、アンタ、なんでそんな!!」


 嫁さんと、餓鬼が、元気に生きててくれればそれで俺は充分なのよ。

 そう言って、竹岡さんが俺を見る。


 綺麗な目だった。

 これから死んでいく男とは思えない、安らかな瞳だった。

 もうこの世になんの未練もなく、すべてを手放した男の顔だった。


 けれども、それは彼の意思ではない。


 どうしようもないこの状況が、そうさせたのだ。

 彼をそうしなくてはいけない状況に追い込んだのだ。


 涙が溢れてきた。

 意味も分からず涙が瞳から迸った。


 どうして泣くのか、何が悲しいのか、どうして泣いているのか分からない。

 目の前の知り合って間もない男が、この世を去ろうとしていることに。

 彼が、すべてを諦めて、残酷な運命に妻子を委ねて、この世を去ることに。

 その瞬間、俺は滂沱の涙を流していた。


「……あのさぁ、豊田くん」


「なんですか竹岡さん!!」


「あんま、気負いすぎるとろくなことねえよ。俺みたいにさ、ちゃらんぽらんにやったほうが、絶対生きてて楽だからさ」


「真面目だったじゃないですか!! 竹岡さんは真面目でしたよ!!」


「俺の何を知ってるんだよ。もう、ほんと、真面目だよな豊田くんはさ」


 人生、諦めが肝心だよ。

 なっちまったもんは仕方ない。

 流れに身を任せて、生きていくしかないんだ。


 いつだったか、竹岡さんが言っていたことだ。

 それを聞いたとき、なんて無責任なことを言うのだろうと、俺は自分のことを棚に上げて、彼のことを軽蔑したものだ。


 けれども違った――。


 彼は、自分の生き死にさえも、運命に身を委ねている。

 とっくの昔に彼は、自分の生き死になんてどうでもいいんだ。

 ただ、家族が幸せに生きてくれれば、それでいい。


 だから、こんな顔をして逝ける。


「陽介くん」


「……はい」


「心残りがあったわ。子供の成人式くらい、見て死にたかった」


「見ましょうよ、竹岡さん」


 そうだね、と、言ったきり、竹岡さんは冷たくなってしまった。

 ようやく聞こえてきたサイレン。駆け込んでくる救急隊員。彼らに引き剥がされて、尻餅をつくように俺は車外に出た。


 べっとりと身体にしみついた血。

 運ばれていく、下半身のない竹岡さん。

 大声で叫ぶ救急隊員。

 かけつけてくれた教員。


 何もかもが、慌ただしく俺の前を過ぎ去っていく。


 どうして。

 今日は普通の日だったはずなのに。

 のんびりと、机に座って教科書を読んで、それで、居眠りこいた竹岡さんが教員怒られて。みんな、それを笑って。


 そんな、なんでもない日だったのに――。


「豊田さん!! 豊田さん!! 大丈夫ですか!! 豊田さん!! しっかりしてください、豊田さん!!」


「……先生? 俺」

 

「訓練所の医務室に向かいます。とりあえず、消毒をしましょう。それと、それが終わったら、詳しい事情を警察の方が聞きたいそうですが、答えられますか?」


「……はい」


 ようやく形になってきた、人間としての何かが、音を立てて崩れた気がした。

 その瞬間、また、俺は何か、大切な人間としてのピースを、壊した気がした。


 先生に指示されるまま、俺は医務室に行き、身体を洗い、ロッカーにあった作業服に着替えた。駆けつけた警察の事情聴取に応じ竹岡さんとのやりとりを語った。


 それだけだった。

 たったそれだけのことをしただけなのに。


 俺はもう、何かがおかしくなっていた。


「豊田さん、大丈夫ですか? 家の人を、誰か呼びましょうか?」


 お願いします、と、言ったかどうかさえ、もう、覚えていない。


 気づいたら、俺は家に居て、部屋は明るくて、廸子が心配そうに俺の隣に座っていた。ずっと寝ずに俺を見ていてくれたのだろう。俺の手を握りしめて、妻は、涙を目の端に浮かべて、俺におはようと声をかけてくれた。


 けれども、それに、俺は何も感じることはできなかった。


 心の耳とでも言うべきだろうか。


 何か大切な器官が失われたのだ。


 それは、竹岡さんが死んだという話を聞いても、俺が欠席のしすぎで職業訓練校を退校になったと聞いても、それに際して、精神上の理由を鑑みてすぐに病院にかかるようにと指導されたことを聞いても、戻ってくることはなかった。


 友人の死は、ストレス因として比較的高いらしい。

 俺が竹岡さんと友人だったかどうかは分からない。


 けれども。


 俺の中にくすぶっていた、不安の火に、再び燃料をくべるのに、それは十分な事件であり、目前に迫っていた復活の日は、再び彼方へと遠のいた。


 すべてが終わった。

 それすらも分からず、俺は沈黙した。


 明日も見えない暗闇の中で、俺は震えて沈黙し始めた。

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