第182話
実嗣さんを匡嗣さんだと誤認しているちぃちゃん。
彼女に詳しい事情を説明することなく今日という日まで来てしまった。
海水浴にも一緒に行ったのに、ついぞ、きっちり説明することはなかった。
これはババアの早川の人間にちぃちゃんを会わせたくないわがままと、実嗣さんの口下手過ぎて説明方法が分からないという消極的姿勢で長引いたものであった。
二人とも警戒しすぎというか、その程度のことでぐだぐだと何をやっているのかというか、そもそもそれでもいい歳した大人かという感じである。
ほんと、ちぃちゃんのこととなるとみんな慎重になるんだから。
まぁ、二人の不安は分からないところでもない。
早川家というちぃちゃんの父方の存在は、これまで徹底的に彼女に秘匿されてきた。実嗣さんとの邂逅をきっかけに、芋づる式に彼女がおばあちゃんと会いたいなどと言い出すことは重々考えられる。
当人達の思惑はともかく。
匡嗣さんを奪ったその瞬間から、豊田家と早川家は相容れない関係である。
ババアと早川家の間には破ってはならないルールがあるのだ。
出会ってしまったのは偶然。
また、ちぃちゃんの身を守らなくてはいけないという事情もあった。
だからこそ、実嗣さんとの邂逅は特例的に許された事であり――それを勝手に破る訳にはいかない。
はずだったんだけれどな。
「やーん、ちぃちゃん麦わら帽子すごく似合う。これは買って来て正解だったわ」
「みかちゃーありがおー!! えへへー!!」
「実嗣さんも似合うと思いますよね」
「あぁ、控えめに言って、天使という呼び方が彼女には似合う」
「あら、あらあら、私というものがありながら、そういうことを他の女性に言っちゃいますか実嗣さん」
「美香さんは私にとっての女神だからね。そこは競合しないさ」
「まー、お上手」
「おじょーずー!!」
ちっともお上手じゃねえ。
なに勝手に人の家にやって来て姪っ子と遊んでるんだこのバカップル。
しかもまた子供の心を虜にするプレゼント持参してきて。
麦わら帽子だって。
そんなものいくらでもうちにはあるんだよ。
ちぃちゃんのかわいさを最大化するために豊田家はそこそこ金を使ってんだよ。
それに、そんなのかぶらなくってもちぃちゃんは天使――。
「よーちゃんどぉ? むいわーぼうしにあってうー?」
「とってもにあってるよちぃちゃん、ほんとこのせかいにまいおりたてんし」
「てれるなぁ。えへへぇ」
すげぇ破壊力。
ただ麦わら帽子に黒いリボンが結んであるだけなのに、かわいさ三倍増し。
ワンピース、三つ編みにしたちぃちゃんに、麦わら帽子。
これがまた視覚的にすごい破壊力を生み出すんだなぁ。
あぁ、これ、アニメ映画とかで出てきたら絶対に人気出る奴、間違いない奴。
そんな核心と共に、俺の双眸から涙が流れ落ちるのだった。
ババア、なんで早く買わなかった。
そんなだから、親友に実の娘からの愛情を盗られるんだ。
「みかちゃーだいすきー!! いつもぷれぜんとあいあとー!!」
「いいのよぉ。お姉さんこれでもお金だけはいっぱい持っているから。可愛い未来の姪っ子のために、お洋服なんていくらでも買ってあげるわ」
「わぁい!!」
ちょろく買収されるちぃちゃんもちぃちゃんだけれどもさ。
それと、未来の姪っ子って、そこはもうちょっとぼかそうや美香さん。
まぁ、ちぃちゃん気がついていないみたいだからいいけど。
はぁとため息を吐く俺の横で、ふふと笑う実嗣さん。
なんというか、この人も表情豊かになったよな。
思った傍から、視線に気づいてむず痒そうに顔を掻く実嗣さん。
ちょっと前――それこそちぃちゃんを守るために、初めて顔を合わせた時からは、想像もつかないくらいに人間くさくなった。
人間、変われば変わるものだな。
「いや、すまない。ちょっとおかしかったかな」
「そんなことないですよ。普通の反応です。子供って可愛いですよね」
「……ちぃちゃんに会うまで、実感はなかったが、そうだね。子供は、血を分けた子供というのはこんなにも愛らしいものかと、心から感じたよ」
「いや、分けていませんけどね」
けどまぁ気持ちは分かる。
俺もこっちに戻ってきてすぐの頃に、ちぃちゃんと一緒に遊ぶことで、なんと子供というのは愛らしいものなのだろうかと思ったものだ。
同時に、長い社会生活の中で失われていった、人間として大切な感性を彼女のおかげで取り戻すことができたようにも思っている。
家族とはいいものだ。
子供との時間というのは素晴らしいモノだ。
それがたとえ、自分の血を分けた子供でもなくても、人間にとって大切な感情を与えてくれる。
もっとも、乳児期のちぃちゃんのぐずりぶりはたいそうなもので、ババアや母さんに言うと、そういうのはちゃんと子供を作ってから言えと説教されるが。
閑話休題。
おじさん同士、姪の可愛らしく愛らしい振る舞いを見守る俺と実嗣さん。
すると、美香さんから離れたちぃちゃんが、とてとてとこちらに駆けてきた。
向かったのは俺ではなく、実嗣さんの方。
彼女がそうして実嗣さんに近づいたのは、例の事件以来ではなかっただろうか。
じっと、実父と変わらない顔をしている男を見上げてちぃちゃん、うぅんとうぅんと唸ってから、彼女はその小さな口を開いた。
「さねつぐおーちゃんも、あいあとー」
「……ちぃちゃん。私のことが分かるのかい?」
「あのね、おかーさんがね、おしえてくれたの。おとーさんみたいだけど、さねつぐおーちゃんは、ちぃのおじちゃんよって。ごめんね、かんちがいしてて」
「……いや、謝らなくていいよ、ちぃちゃん」
えへへと笑ってちぃちゃん。
彼女はそれから、もう一人のおじさんににじり寄るとその身体に抱きついた。
美香さんにするのとはちょっと違う、甘えるような抱き方だ。
彼が自分の父親ではないと教えられたちぃちゃん。
けれどもまだ、心のどこかでそれを納得しきれてはいないのだろう。
実嗣さんに、今はもう甘えられない父親を求めているように、俺には見えた。
実嗣さんもそれを察して、ちぃちゃんの背中を優しく撫でる。
「おかーさんがね、さねつぐおーちゃんにもまたあそんでもらいなさいって」
「……千寿が?」
「うん!! なんかちょっと、ちょっとだけへんなかおしてたけど!!」
無理して言ったんだろうな。
何せ、親友を奪われて、今また自分の娘まで奪われようとしているんだ。
ババアの気持ちは察して余りあるものがあった。
けれどもまぁ、それはまた、それ。
「実嗣さん。姉貴もいいって言ってるんだから、遠慮することはないですよ」
「……だろうか」
「むしろ、遊んであげてください。俺一人じゃ、ちぃちゃんのお父さん代わりは難しいものがありますから」
そしてそれは匡嗣さんの面影がある貴方の方が向いている気がするから。
こちらを見て、少し考えるように俯いた実嗣さん。けれども、すぐに彼は顔を上げて不器用に微笑んだ。
その笑顔が、匡嗣さんにダブって見える。
やっぱりこの二人は兄弟なのだな。
そう思わずにはいられない、なんとも言えない感慨が俺の胸を吹き抜けた。
「それにねー、それにねー、おかーさんからきーたのー」
「……なにを聞いたんだい、ちぃちゃん?」
「みかちゃーとねーさねつぐおーちゃんがねー、ちぃのいとこをつくるからねー、なかよくしとかないとだめーって」
おっと。
これはちょっとまた、いつもの豊田家の血がなすセクハラメソッドですよ。
そしてこの二人は豊田家ではないから結構クリティカル決まってますよ。
どう答えればいいんだと固まる実嗣さん、そして美香さん。
そんな彼らに――。
「おとこのこかなー、おんなのこかなー!! ちぃおねえちゃんだから、いっぱいあそんであげうおー!!」
「……あ、ありがとう、ちぃちゃん」
「……ま、まぁ、そ、そのうち」
「はやくしてね!! たのしみにしてう!!」
「「ぐはぁっ!!」」
子供は容赦なく、結婚をせかすのだった。
うん。まぁ、うん。
可哀想だけれど、けど、一理あると思うよ。
とっと結婚して子供つくりなはれ、このバカップルども。
そうすりゃ俺もちょっとは気が楽になるしな。
って、そういう問題じゃないか。
「よーちゃんもゆーちゃんとはやくね?」
「ごぼぉっ!!」