第123話
「えっ!? ちぃちゃんの伯父さんなんですか!?」
「……声が大きいです。ちぃちゃんに聞こえてしまいます。はい、匡嗣は私の双子の弟。私は早川実嗣と申します」
私の後頭部にパンプスを投げつけてきた女は、事情を聞いて青ざめた顔をした。
まさか、千絵の身内と思わなかったのだろう。
彼女と千絵がどういう関係かは知らない。
とはいえ、身内に手をあげたのはなかなかに後味が悪だろう。
実際彼女は妙にあたふたとしていた。
そんな私の頭の上で。
「おとーさん!! それでねー!! あっちがねー、ちぃとひかいちゃんのひみちゅきちがあるもりなんだよー!! おかーさんにはひみつだからねー!!」
「……はいはい」
「ちぃちゃん、そんなの作ってたの。ていうか、お父さんには言っていいの?」
「いいよ!! だって、おとーさんとあうのはじめてなんだもの!!」
理屈がまったく通っていないことを言う、私の姪。
彼女は私の肩にまたがると、子供には少し高い位置から景色を眺めている。
いわゆる肩車という奴だ。
男の子ならともかく、女の子が肩車を求めてくるか。
なかなかやんちゃな娘のようだ。
明らかに千寿の血だな。
匡嗣はもとより早川の家系にはない快活さだ。
しかしながらそんな姪のわがままが、どうしてちょっと心地よい。
凪いだ心がひさしぶりにざわつくのを覚えた。
頭の上で心地よさげに体を振る千絵。
幼いころ、一度だけ顔を合わせたことがある彼女。
その時の私は、彼女をぶさいくだなと思っただけだった。
それが、今日、会ってみれば、なんとも言えない愛らしい存在に変わっていた。
思わず、父を騙ったことに罪悪感を感じるほど。
匡嗣。
どうしてお前が家族の行く末を死ぬ間際まで案じていたのか。
そして、千絵の未来を思い描いては、病床で微笑んでいたのか。
その時の私には分からないものが、いま、ようやくわかったよ。
それはそれとして――。
「すまない、いろいろと迷惑をかけてしまって。このお詫びはいずれ」
「いえいえそんな。というか、こちらがやらかした訳ですし。それより本当に大丈夫ですか。何かあったら言ってくださいね。私、そのなんでもいたしますので」
「いえ、まぁ、たぶん大丈夫かと」
「そうだ、念のために連絡先交換しておきません? ねっ、ねっ?」
この女性はなんだ。
千絵の知り合いは間違いない。
保護者的な立場の女性らしいが、おもいっきり男を見る目を向けてくる。
なんていうか、これはこれで不快な感じが否めない。
若い頃から、女性にはまぁ、それなりにモテた。
とはいえ、それは私の遺伝による東洋人離れした見た目もある。
家柄のこともある。
金持ちの容姿端麗のボンボンというのは男女を問わずよくモテる。
そう気が付くのに時間はかからなかった。
そこにはあさましい感情が必ずついて回る。
この女もそんな奴の一人なのだろう。
できれば、そんな打算的な性格の人間が、姪の傍に居るのは遠慮願いたい。
いや、今まで千絵のことを、知りながら会わなかった私が言うのもなんだが。
このような打算的な人間の姿を、無垢な子供に見せたくはない。
どうせ成長するにつれて、そんなものは嫌でも目にするのだから。
「あ、そういえば――実嗣さんでしたっけ?」
「……はい」
「お仕事は何をされているんですか?」
定番の質問だ。
女たちはまずこれを聞く。
まったく、嫌になるな。
頭を押さえつつ、俺はそれに素直に答えた。
そう、あくまで、素直に。
「住所不定無職です。風来坊。根無し草。あてどもない旅をしているんですよ」
「……へぇ」
「言っておきますが、クルーズ船とかバックパッカーではありません。写真家みたいな感じですね。行きたいところに行き、生きたいように生きる、その日暮らし」
というと、だいたいの女が逃げていく。
そんな男に付き合っていられるかという感じで。
彼女たちは、あくまで、今の自分の生活を大事にしたいのだ。
そこに、私のような絵になる彼氏が入ってくることを望むのだ。
御せぬ猫を飼う気にはなれない。
あるいは、それを御そうとする女もいるが、次の言葉でだいたいの女が、私と一緒に居るのは無理だと理解し去っていく。
そう――。
「旅がお好きなんですか?」
「いや、自分より強い存在と戦うのが好きなんです。人間でもいいし、動物でもいい。とにかく、命のやり取りがしたい。そう思って、まだ見ぬ強敵と出会うための旅をしています。何年も、何年も――」
などと言ってやると、こいつは生きている世界が違うと勝手に引く。
まぁ、これまもた人生を快適に生きるための一つの知恵――。
「いいですね!! 自分より強い奴に会いに行く!! 格闘家としては見習うべき発想だと思います!! 戦いは、待っているだけじゃやってきませんからね!!」
「……正気ですか?」
予想の斜め上を行く返しを出してきた。
なんだ本当にこの女性。
田舎にある一部上場企業の生産工場で働いているキャリアウーマン、その気が抜けた休日姿――みたいな格好でなんてことを言い出すんだ。
戦いは、待っているだけじゃやってこない。
それは真理だ。
だがそんな軽々しく言うことではない。
というか、話を合わせるにしても、もうちょっと繊細に合わせてくれ。そんなストリートファイトもしたことないような格好で言われても説得力がない。
どうせお世辞で言っているのだろう――。
「私も、月に一回は他県に遠征して、道場破りしてるんです。いやー、最近の道場は弱い弱い。カジュアルに寄せてスポーツでやってる人が多いから、勝ち負けにそれほどこだわらないんです。だから道場破りでも簡単に看板渡しちゃう」
「……道場破りしてるんですか?」
「あ、インスタにあげてるんですけど、良かったら見ます?」
嘘だろう。
破った道場の看板をインスタにあげているだって。
正気の沙汰ではないぞ。
というか、そんなのあげたって喜ばれないだろう。
何を考えてこの女は、破った同情の看板をインスタにあげているんだ。
久方、感じたことのない寒気が体を襲う。
もしかして、いや、もしかしても何も――。
「貴方もおやりになるんですか、武道?」
この女、何かしらの武道を嗜んでいるに違いない。
しかも、かなりの達人。
だいたいおかしいのだ。
頭にパンプスが当たったことだって。
私はそれ相応に周りの気配を窺っていた。
殺気が飛ぼうものなら即それに対応することだってできた。
けれども彼女は、そんな私の意識をかいくぐりパンプスを当てた。
これが意味するところはつまり。
彼女もまた、私と同じ、武道の心得があるということ。
ともすると、私を欺くほどの技術の持ち主ということ。
どうなのだろうか。
私は彼女をまっすぐに見据えて尋ねた。
すると、ショートカットの彼女は、なぜか頬を赤らめて。
「そんな、ちょっとだけですよ。本当にちょっとだけ。休日の暇な時に、道場に行って門下生を片っ端から投げ飛ばしているだけですから。大したことありません」
「……まったく説得力のない大したことない!!」
とんでもないことを言い出すのだった。
うん。
この女、間違いない。
危険人物だ。
千絵はなついているようだが、あまり近づいちゃいけない、そんな類の人間だ。
まいったな。こんな情報、陽介くんからは何も聞いていないぞ――。