第122話
私の名前は田辺美香。
一部上場企業クレシェンドの生産工場に勤めるキャリアウーマン。
今は絶賛休職中ですけれど。
誰かさんのせいで。
えぇ、誰かさんのせいで。
クレシェンドは体育会系。IT分野での活躍も知られているが、白物家電が主力なオールドタイプの企業である。なので、現場はいつでも体力勝負。
24時間働けますかは当たり前。
栄養ドリンクに頼らず、日ごろから鍛えていないとついていけない会社なのだ。
そう――。
「待って!! ぎりぎりアラサーに子供との全力追いかけっこはしんどい!!」
けど、やっぱり、年齢ってのは覆せない。
そして、子供の全力ってホント半端ない。
道場とか限られた範囲内なら大丈夫だけど、お外だとこんなことになるの。
子供とかいないから完全にこんなの想定してなかった。
けど、ちぃちゃん見てるの今私しかいないし。
なんか変な人についていこうとしているし。
事件とかなったらいけないし。
全力で走るしかねえ。
けど、追いつけない。なんなのちぃちゃん。足速すぎじゃない。
流石千寿の子。峠の申し子の子供ってことなの。
だぁもう、遺伝、怖い。
「ちぃちゃん!! ちょっと待って!! あたしもうちょっと足が限界!!」
「……おとーさん!! おとーさん!! おとぉさん!!」
「にゃー!! 聞いちゃいない!! これだから子供ってやーよ!!」
止まってちぃちゃんお願いだから。
おばさんもう結構脚がガタガタなの。
これ明日絶対に筋肉痛になるやつ。
下手すると夜中にこむら返り起こす奴。
足の痛みと辛さで、どうして私がこんなことに、ってメンタルに悪い奴。
だめほんと、そんなことで死にたくなるくらいに今メンタル来てるから。
お願いだから止まってちぃちゃん。
けど、ちぃちゃんは、止まらないんだなぁ。
ほんと、親子そろって振り回してくれるわね!! 恐ろしい親子!!
「ていうかなに!? お父さんって!!」
ちょっと待って。
確か、ちぃちゃんのお父さんって亡くなってたわよね。
病気でちぃちゃんが赤ちゃんの頃に亡くなったって、千寿が言ってたわよね。
なのに、お父さんってどういうこと。
いる訳ない人がいるってどういうこと。
え、ホラー?
違うよね?
そんなんじゃないよね?
というか――。
「そうか、お前が止まれば話がまとまるんじゃねーか!! なんだかわからんが、アラサーからアラフォーへのカウントダウンが始まってる人間を振り回して!! オラッ!! クレシェンド玉椿工場一の美人(独身)のパンプスを喰らえ!!」
こいつ止まらせればちぃちゃんも必然的に止まるやつよね。
そう判断した私は、履いていたパンプスを脱ぐ。
それを逃げる人影の頭に向かって投げつける。
テニス部だけれども、制球力には自信があります。
球出しってけっこう技術が必要なのよね。
天才の千寿と違って努力家の私は、それこそ血の滲むほど玉投げしたわよ。
とにかく、そんな訳だから。
アタシのパンプスはスコーンと、逃げる男の後頭部に直撃した。
うむ。
打ち所が悪かったのだろう、その場に倒れる怪しい男。
すぐに追いつくちぃちゃん。
そして、そこに息切れしつつ追いつく私。
ようやく暴走特急が止まった。
はぁ――。
普通に喋るのにも一呼吸いる奴だこれ。
なんでこんな初夏の暑い中、フルマラソンしてんの。
こちとら泳ぐ気ないから、服もそれなりに着込んでんだぞ。
んでもって汗。
一応アタシもね、年頃の乙女の心意気を忘れたわけじゃない。
こんな汗びっしょりかくほど、お外で動き回るなんて恥ずかしいわよ。
知り合いに見られたら生きていけないわ。
だーもう。
なにもかも、全部こいつのせい。
「こんにゃろ!! ちぃちゃんのお父さんか誰だか知らないけれど、迷惑なことしてくれやがって!! 立て!! その腐った根性を叩き直し――」
と、胸倉を掴んで顔を拝んだ瞬間、言葉を失った。
あ、やだ、めっちゃ好みのタイプ。
えっ、えっ、なにこれ。
こんな人、玉椿町にいたかしら。
えー、ちょっと、髪の色が派手なのが気になるけど普通にイケメン。
テレビとかに出てきそう。
いや、出てるかな。
わかんね、最近テレビドラマとか見てないからわかんね。
家帰って風呂入ってビール飲んで猫動画見て寝るだけの生活だからわかんね。
けど、私的にはアリアリのアリのイケメンだー!!
「だだだ、大丈夫ですか!? すみません、なんか、ちょと、いろいろ私も混乱していて、パンプス投げつけちゃいましたが、その、ごめんなさい!!」
「……うぅっ、いえ、大丈夫、です。私も、ちょっと、走るのに疲れて」
「ですよねぇ!!」
しかも同世代っぽいぞ。
若さについていけない、ちぃちゃんの猛追に耐えかねていたこの感じ。
同年代っぽいぞ。
これはあれじゃない。
運命の出会いという奴じゃない。
田辺美香さんじゅう――ほにゃららさい。
ついに運命の白馬の王子様に出会った奴じゃない。
きゃぁ。
「おとーさん!! ねぇ、おとーさんだよねぇ!! だって見たもん!! ちぃ、おとーさんの顔見たことあゆもー!! おとぉーさん!!」
と、盛り上がっていた所にちぃちゃんが叫ぶ。
そうだった、その疑惑がまだ晴れていない。
いや、疑惑というか、問題というか、懸案というかなんというか。
どういうことなのだろう。
幼い頃に死別したはずのちぃちゃんに、彼女の父親の顔が分かるはずはない。
いや、写真とか動画があるなら、お父さんの顔は分かるか。
そんなにこの目の前のイケメンは、ちぃちゃんのお父さんに似ているのか。
千寿から写真を見せてもらったことがないから分からない。
どうしよう、今からでも聞いた方がいいのかしら。
けど、死んだって千寿は言ってたから、生きているのはおかしいよね。
うぅんと、私が悩んでいるその前で、イケメン。
すみませんと言って彼は私の手を振りほどく。
そして、ちぃちゃんに手を差し伸べ、その頭を優しく撫でた。
「あぁ、そうだよ、ちぃ。ちょっとお盆に早いけど、帰って来たんだ」
「やっぱいー!! やっぱいおとーさんだ!! ちぃのおとーさんだ!!」
「いやいや、お盆にちょっと早いって――」
しっと唇の先に指を立てるイケメンさん。
黙ってくれというサイン。
その意図には、喜ぶちぃちゃんの笑顔を壊すなという含みがあった。
なんだろう。
悪い人じゃなさそうだな。
イケメンは中身までイケメンなのかな。
はー、尊い。
いいもん見させていただきましたわ。
「なんでー? ねぇ、なんでおとーさん、てんごくからかえってきやのー?」
「ちぃのことを守るためだよ。悪い奴らが、いま、ちぃのことを狙っているんだ」
「わるいやつら? まじょっこそらみちゃんのにゃんすきーとか?」
「……えっと」
「猫の獣人キャラです。とりあえず、頷いとけばいいかと」
「……まぁ、そういう奴らから守るために、一時的に天国から戻って来たのさ」
「わぁい!! さすがちぃのおとーさん!!」
嘘だ。
この人が嘘を言っているのは、流石に大人だったら誰だって分かる。
大人でなくっても、勘のいい子供でも分かる。
そして、それが優しい嘘だということも。
だって彼ってば、とても愛しい目でちぃちゃんを見ている。
本当に、自分の娘みたいな顔をして、ちぃちゃんを見ている。
だから。
私は、彼のことを信じることにした。
たぶんこの人、悪い人じゃない。
イケメンに悪い人はいないとか、そういうのじゃなくて。
本能的に、私は彼がいい人であると察した。