第110話
ちぃちゃんが退場したからと言って、踏み込んだ話ができる訳でもなし。
美香さんを巡る話は、今、混迷を極めていた。
そもそも部外者である俺たちに、できることなどそれほどないのだ。
そう、部外者の俺たちに――。
「美香の嬢ちゃんは結局どうすることにしたんだ? 親御さんが預かるのか?」
「そういうことになるそうよ。二人ともまぁ、もう年金生活だから、預かることには抵抗はないそうだけれど。ほら、四六時中ついてる訳にはいかないじゃない」
「ふらっと外に出て自殺なんてされたらたまったもんじゃねぇな」
「父さん!!」
珍しくババアが声を荒げて親父に食ってかかる。
しかし、これを親父が睨み返して黙らせた。
その顔はスーパーのアルバイト整備員のモノではない。
この玉椿町の消防団員として、修羅場をくぐってきた男の顔に間違いなかった。
この人は、たぶん、警察の次にこの町で起こった事件にかかわってきた人だ。
玉椿町は田舎だ。
高齢者の多いど田舎だ。
それこそ後期高齢者、認知症や徘徊などの病気を抱えた老人も多い。
消防団の仕事は、何も火消しだけではない。
町内に行方不明者が出れば出動するし、水害が発生すれば見回りを行う。
それでなくても自発的に見回りして町内に問題がないか目を光らせる。
親父は確かに社会人としてはあまり優秀な人間ではない。
けれど、消防団の副団長を務めるくらいには、この町に貢献している人間だ。むしろ、この町のことに構い過ぎたばかりに、社会的な成功を収められなかった人だ。
ずっと彼は、この町の平和を守ってきたのだ。
同時に、この町の闇と向き合ってきたのだ。
だからこそ、甘い見通しがどんな悲劇を生むか、よくわかっている。
希望的な観測が、些細なボタンの掛け違いを起こし、取り返しのつかない事態を引き寄せる虚しさと悲しさを誰よりも知っている。
本当に、よく分かっているのだ。
気持ちが悪いくらいに。
「口にしなきゃいいってもんじゃねえ。よくある話だ。消防団なんてやってりゃあな、そういうのはいくらでも見てきてんだよこっちは。いいか、考えすぎなんてことは少しもねえんだ。狭い町だ、こういう時こそ協力しなくてどうする」
「俺もあっちゃんの意見に賛成だ。自殺するかもしれねえという線で、町のみんなで美香の嬢ちゃんの様子を見た方がいい」
「……誠一郎さんまで」
男二人に睨まれて、黙るババアを俺は久しぶりに見た。
いつもならばこの二人に言いくるめられることなんてありえない。
キャリアウーマンとして、経営者として、確固たる地位を築いた彼女だ。
ほぼ無職の二人に何を臆することがあるだろう。
だが、この地域に根差した人間としては、この地域のセーフティーネットを担う人間としては、彼女はまだ何も貢献していない。力もないに等しい。
これまで消防団の活動を通して、この町に住む人々の命を救ってきた二人の言葉はやはり重みが違った。
なにより。
「千ちゃん。お父さんたちに任せましょう。陽介の時のこともあったでしょう」
「……そうだが。しかし、美香に限って」
「誰かに限ってなんてない。死は誰にでも平等に訪れるし、不幸もまた同じだ」
「千寿ちゃん。お前さんたちが強いのは俺もよく知ってるが、まだまだ人間としての強さがなんなのか、お前さんたちは分かってない。ここはまぁ、俺たちに任せておきな。なに、悪いようにはしねえ。坊主の時もそうだったろ」
引き合いに出された通りだ。
俺もこの二人にギリギリのところで命を救われているのだ。
こっちに戻って来て半年ちょっと経った頃だ。
廸子とちょくちょく話をするようになって、外も出歩けるようになって、あれ俺大丈夫じゃん、人間やれてるじゃんて思った瞬間――魔が差した。
けどやっぱり俺は病気なのだ。
病気で大きな傷を負ってしまったのだ。
これから生きていても、どうやっても幸せになることはできない。
ただ、周りを不幸にするだけだ。
そんな思いが唐突に頭をよぎったのは、回復したと思って薬を断ったからか。
それともまだ完全に回復していなかったからか。
気が付いた時、俺は山に入って首を吊ろうとしていた。
その時、山道を奥へと分け入ろうとしていたところを、俺の失踪に気が付いていち早く動いて助けたのが、親父と誠一郎さんだ。
二人に捕まえられて、俺の自殺未遂はことなきを得た。
あれからかれこれだいぶ月日が経った。
今となっては、どうしてあんなことをしたのかと思う。
だが、実際俺は自死を考えたし、山にロープを持って入った。
そして、直前の行動をつぶさに観察され、こうするだろうと予想した二人の手により、それを実行する前に保護されたのだ。
あの時、二人が真剣に止めてくれたことを、俺は本当によかったと思っている。
なんだかんだと文句をたれつつ、親父と誠一郎さん二人が凄いことを、俺はその時からずっと思い知っている。
こんなこと、普通の人間にできるもんじゃない。
どれだけ悲しみと向き合ってくれば、防ぐことができるのだろうか。
親父も誠一郎さんも、涙こそ流していなかったが、保護してくれた時のなんとも言えない悲しい顔を、今でも俺は思い出しては申し訳ない気分になる。
だから、俺も二人の意見に異議はない。
親父と誠一郎さんを信じろ。
美香さんのことに狼狽えるババアに、俺はそんな視線を送った。
「誠ちゃんの言うとおりだ、お前は人間って奴に幻想を抱き過ぎだ。どんだけ鍛えてもな、人間ってのは所詮人間。誰だって些細なことで壊れちまうんだ」
「あとは俺たちに任せとけ。大丈夫だ、陽介の時もそうだし、他の奴の時もだいたいそうだった。必要なのは時間だよ。今必要なのは、一方的な善意じゃない。美香の嬢ちゃんが回復するのを、信じて待ってやる時間だ」
「父さん、誠一郎さん」
ぐすり、と、姉が鼻をすする。
祖父と旦那の匡嗣さんが死んだ時しか見せなかった涙が頬を伝っている。
彼女は身体の正面を二人の方に向けると、ゆっくりとその頭を下げる。
長い黒髪が静かに揺れて、それから、かすれるような声がそこから漏れた。
嗚咽交じりの、それは懇願。
「美香を。どうか美香の奴を、よろしくお願いします」
美香さんが姉貴を想っているように。
姉貴も美香さんを想っている。
そうでなければ、頭を下げることなどできない。
早川家のお家騒動に、美香さんの退職騒動。
どうしてこう、せわしないことが立て続けに起こるのか。
けれども、俺たちには、俺たちができることをしていくことしかできない。
そう、俺たちができることを。
ちょっと失礼と俺は家族会議を抜けて玄関に出る。
初夏の気を帯びて、暖かくなってきた夜。
スマートフォンを取り出して、そこからとある知り合いの電話番号にコールをすると、まばゆい玉椿の夜空を見上げながら、俺は吐息を吐き出した。
息は、涼しい風とカエルの鳴き声にかき消される。
そしてコール音もすぐに消えた。
「もしもーし。どした陽介ぇ。俺、いま女の子と楽しいことしてるんだけれど、切っていいかなぁ。いや、やっぱりね、女の子と遊んでるときは、こういう無粋なのはなしかなって。どうせ大した用事じゃないんだろう。なぁ、また明日にして」
「松田ちゃん、ごめん。ちょっと、真面目な相談があるんだ」