救出
イブーロの街で、お金を出して女性と遊ぼうと思ったら、選択肢は二つあるそうだ。
一つは、街の中心地の南側、商店や市場が建ち並ぶ区画から西に入った辺りに、いわゆる歓楽街が存在している。
現代日本風に言うならば、キャバクラのような女性が接待する飲み屋や、買春目的の店が集まっているらしい。
前世でもボッチ高校生までしか人生経験のない俺では、足を踏み入れるにはハードルが高い場所だ。
そうした店が集まれば、当然裏社会の人達も集まっているらしく、セルージョからは用が無ければ行くなと言われている。
大人な関係の相手としては見られていないが、綺麗なお姉さんには不自由はしていないから足を向けるつもりはない。
二つ目の選択肢は、貧民街の路上だ。
倉庫街に接する貧民街の北側の路上には、夜な夜なお金に窮した女性達が生きるために身体を売っている。
歓楽街の女性達もお金を稼ぐために身体を売っているのだが、貧民街の女性とは待遇が大きく違うらしい。
報酬、安全面、衛生面、買う側にとっても売る側にとっても、一定の保証がなされている歓楽街と較べると、貧民街で遊ぶのはリスクが伴うそうだ。
当然、金払いやサービスを巡るトラブルは珍しくないそうで、時には命のやり取りに発展する事もあるそうだ。
ただし、そうしたトラブルが公の場で裁かれる事は殆ど無い。
貧民街に巣食う裏社会の人間が、闇から闇に始末を付け、表沙汰にはならないらしい。
そして、歓楽街の裏社会と貧民街の裏社会は、裏の裏で繋がっているそうだ。
「どうだ、ちゃんと見えてるか? ニャンゴ」
「はい、視界は狭いですけど、なんとか……」
「じゃあ、行くぜ……」
「はい、お願いします」
夕食の後、拠点で準備を整えて、セルージョと一緒に倉庫街の端まで来た。
セルージョはいつもと変わらぬ依頼に出掛ける時の服装で、今夜は左の腰に剣を吊っている。
俺は変装用に空属性魔法で作った外骨格に、拠点に残されていたケビンの服の中から目立たない物を選んで着込んでいる。
ローブのフードは、風で捲れて中身が空だとバレないように、シューレが仮面のベルトに縫い付けてくれた。
明るい場所では違和感を持たれてしまうだろうが、薄暗い貧民街ならば目立たずに済むはずだ。
「どっちだ?」
「左です……」
用心棒風の男に脅され、尻尾を巻いて逃げて来た後も、三回ほど倉庫街の屋根伝いに接近して兄貴の姿を確認している。
街娼が客待ちをする場所は、暗黙の了解で決められているらしく、兄貴はいつも同じ場所にいた。
周りには、別の猫人の姿もあるが、毛色が違うから間違う事はないだろう。
倉庫の屋根から眺めるのと違い、同じ高さの路上を歩くと、猥雑な空気がより濃密に押し寄せて来る。
化粧の香り、タバコや酒の匂いに混じって、饐えた匂いが澱んでいた。
「お兄さん、遊んでいかない?」
「野暮用を済ませてからな……」
荒れた肌と年齢を厚化粧で隠した女性達が声を掛けて来るのを、セルージョは愛想良く断って歩いていく。
俺は貧民街の道に足を踏み入れる前から緊張で喉がカラカラなのに、セルージョには全く気負った感じは見られない。
冒険者としても、一人の男性として経験の違いを見せつけられているようで悔しい思いもあるが、その何倍も心強い。
俺一人だったら、倉庫街の端で回れ右して戻っていただろう。
「まだ先か?」
「もう少し……あの街灯の先です」
兄貴の毛色と模様、周囲にいる街娼達の顔ぶれは、事前にセルージョに伝えてある。
交渉はセルージョが行い、その間俺は倉庫街の壁際で待機することになっている。
あと10メートルほどの距離まで近付いた所で二手に分かれる。
幸い、兄貴に客は付いていないようだ。
セルージョが兄貴に歩み寄り、俺は倉庫の壁にもたれて交渉の行方を見守る。
交渉の様子を聞けるように、空属性魔法で盗聴用のマイクを設置した。
「いくらだ?」
「銀貨三枚……」
「外に出られるか?」
「それは……」
兄貴が首を横に振ったのは、借金があるから外には出られないという意味だろう。
「いくらだ?」
セルージョが、路地の暗がりを顎で示して尋ねると、兄貴は不思議そうな表情を浮かべた後で路地へと入っていった。
程なくして、でっぷりと太った豚人の中年男と一緒に戻って来た。
セルージョを金づると見てか、豚人の男は媚びるような愛想笑いを浮かべている。
「旦那、買い取りを希望で?」
「値段次第だな」
「何にお使いで?」
「そんな事をペラペラ喋ると思うか?」
「これは失礼いたしました。金貨三枚でいかがでしょう?」
「他に同じような毛色で、手頃な奴は?」
「今は、これが一番お買い得でございます」
「金貨二枚でどうだ?」
「最近は、羽振りが良いと伺っておりますよ」
「ちっ、足元を見やがって……証文を持ってきやがれ」
「少々お待ちを……」
どうやら豚人の男は、セルージョが何者か知っているようだ。
冒険者として顔が売れているのか、それとも遊び人としてなのか、いつか機会があれば聞いてみよう。
豚人の男が路地へと入って行くのと入れ違いに、左の頬に大きな傷がある狼人の男が出て来た。
初めて貧民街を偵察しに来た時に、屋根の上にいる俺に何かを投げつけて来た用心棒風の男だ。
狼人の男はチラリとセルージョに視線を向けると、軽く頭を下げて路上へと出て来た。
倉庫の壁にもたれている俺に、射抜くような視線を向けてくる。
背中の毛が一気に逆立って嫌な汗が噴き出してきたが、狼人の男は倉庫の屋根へと視線を向けた後、街娼達が客引きをする方へ歩み去って行った。
シャツの隙間の狭い視界から男の姿が消えた後、身体を捻って追い掛けたい欲求を抑えるのには忍耐を要した。
もし死角から襲われたら、この胴体の強度は持ちこたえてくれるだろうか。
走り寄ってくる足音が無いか聞き耳を立て、身体の周囲には探知用のビットをばら撒いた。
俺が狼人の男に気を取られている間に、豚人の男が紙の束を持って戻ってきた。
「お待たせしました。こちらが証文になります……」
「これで全部だな?」
「はい、後はどうなさろうと、そちら様の自由でございます」
「金貨三枚だな……」
「確かにいただきました。おい、荷物をまとめて来い……」
豚人の男に言われて、今度は兄貴が路地の暗がりへと入っていく。
交渉は成立したから、後は兄貴を拠点に連れて帰るだけだ。
ほっと息をついた時だった。
「お兄さん、大丈夫ですかい?」
探知用のビットの範囲に入り込んで来た人物が話し掛けてきた。
シャツの隙間から見える服装は、さっきの狼人のものだ。
咄嗟に返事が返せず、パニックになり掛けた時にセルージョの声が響いた。
「俺の連れに何か用かい? こいつは人見知りが激しいもんで、何か用なら俺が代わりに聞くぜ」
「いえ、大丈夫なら宜しいんですよ。たまに野垂死にする野郎がいるもんで……」
「あぁ、そういう事か、心配いらねぇよ。ちゃんと連れて帰る」
「そうですか、失礼しました……」
言葉使いこそ丁寧だが、狼人の男の声には威圧感がこもっている。
狼人の男が路地の奥へと戻って行くのを見送った後、歩み寄ってきたセルージョが囁いた。
「大丈夫か、ニャンゴ」
「正直、チビるかと思いましたよ」
「あいつが、この前話していた奴だな?」
「はい、そうです」
「確かに、相当な腕前だ。剣での立ち合いじゃ俺でも敵わなそうだ」
やはり狼人の用心棒は、セルージョから見ても凄腕のようだ。
俺の変装を見破っていないか、セルージョほど顔は知られていないと思うが、兄貴との関係に気付いていないか少し心配だ。
「お前の兄貴が出て来たら、直ぐに拠点に戻る。打ち合わせた通り、拠点に入るまでは話し掛けるな」
「分かりました」
俺が正体を明かした時に、兄貴が同行を拒んだりすると面倒なので、とにかく拠点まで連れて行ってしまおうと決めておいた。
その辺りの心境の機微に俺は鈍いところがあるから、セルージョに任せることにしてある。
セルージョは路地の入口へと戻ったが、兄貴はなかなか戻って来ない。
既に金も払い終えて、借金の証文も全て手に入れたが、まだ何か問題が残っているのだろうか。
時間とすれば10分少々だったのだろうが、兄貴が再び姿を見せるまでの時間は酷く長く感じられた。
薄汚れた鞄を背負った兄貴は、オドオドとした様子でセルージョに訊ねた。
「あ、あの、どこに行くんですか?」
「いいから黙ってついて来い」
セルージョは、ぶっきら棒に言い捨てると、拠点の方向を顎で示して歩き出した。
頷いてみせるセルージョに並んで、俺も歩き出す。
後ろを歩く兄貴の姿は見えないが、とぼとぼと小さな足音がついて来る。
振り返って話し掛けたい気持ちと、何を話せば良いか戸惑う気持ちが胸の中でせめぎ合っている。
「どこ見てやがる! 気を付けろ!」
兄貴に気を取られていたせいで、前から歩いて来た男と肩がぶつかってよろけてしまった。
咄嗟にセルージョが支えてくれなかったら、倒れていたかもしれない。
「まだ気を抜くな……」
「すみません」
貧民街を抜けるまでの200メートルほどの道が、やけに長く感じられた。





