鷹の目亭
研究棟でレンボルト先生への説明を終えて学校を出る頃には、東の空は暗くなり始めていた。
急いで今夜の宿を確保しなければ、イブーロの片隅で野宿する羽目になる。
ギルドで紹介してもらった三軒の中から選んだ宿は、一番宿泊料金が安い『鷹の目亭』という宿だ。
街の中心部からは少し離れているが、学校からは余り離れていないので、治安の悪い地区ではないだろう。
ギルドで教えてもらった道順を辿ると、目玉を模した看板が見えてきた。
鷹の目亭は少し古びた建物だが、荒れているような感じはしない。
「こんばんは……」
盛大に軋み音を立てる扉を開いて中へと入ると、正面のカウンターには髭面の犬人のオッサンが座っていた。
オッサンは仏頂面のままジロリと三白眼をこちらに向けて、品定めをした後で皺枯れ声で尋ねてきた。
「何の用だ」
「えっと、部屋は空いてますか?」
「……何日だ?」
「とりあえず、今夜一晩……」
「……飯は?」
「お願いします」
「……朝飯もか?」
「はい……」
「銀貨四枚、先払い、それと身分証……」
犬人のオッサンは、仏頂面のままで笑顔の欠片も無い。
これは選択ミスしたかと思ったが、奥からは良い匂いが漂ってくる。
一階の奥は宿の食堂兼酒場になっているようで、既に二つのグループが酒を飲んでいる。
オッサンは無愛想だが、食事はそこそこ美味いのだろう。
ギルドのカードを出すと、記載されている内容を見たオッサンは、ハッとしたような表情で俺の顔を見直した。
再び頭の天辺から足の爪先まで、少し濁った三白眼で品定めをされた。
「お前、ブロンズウルフを討伐した奴か?」
「俺だけの手柄じゃないですよ」
「ふーん……」
銀貨四枚を支払うと、オッサンは木札の付いた鍵を差し出した。
「二階の一番手前の部屋を使え。水浴びしたきゃ井戸は階段下の扉を出た外だ」
「どうも……」
色々と言いたいことはあるけれど、今は寝床の確保の方が重要だ。
二階には階段を上った突き当たり側に五つ、廊下を挟んだ反対側に二つのドアが見えた。
たぶん部屋の大きさが違うのだろう。
耳を澄ますと物音が聞こえたので、他にも宿泊客がいるようだ。
階段から一番近いドアの鍵を開けて入ると、ベッドと小さなテーブル、それに椅子が一脚だけの殺風景な部屋だった。
窓にはカーテンすら掛かっていないが、ギルドの推薦とあって掃除はされているようだ。
明かりは魔道具ではなく、壁に掛けられたランプのみ。
オイルは入っているようだが、燃やすと匂いが出るので、空属性魔法で明かりの魔道具を作った。
明かりの魔道具は日頃から使っているので、もう大きさも明るさも自由自在だ。
部屋に明かりを灯して、これから始めるのは教わってきたばかりの魔法陣の活用だ。
今日、手に入れた魔法陣は雷と温度操作だが、使うのは温度操作の方だ。
これまでも、冷やす魔道具はゼオルさんの冷蔵庫から魔法陣を模写して習得済みだが、逆の温める方法は火の魔道具しか持っていなかった。
火の魔道具と風の魔道具を組み合わせてドライヤーも作ったのだが、近づき過ぎたり、出力の設定を間違えると毛が焦げてしまうのだ。
それに、火の魔道具は水の魔道具と相性が悪く、鍋に入れた水を熱することは出来ても、組み合わせると火が消えてしまい温水を作れなかった。
「ではでは、温める魔道具……ん? おぉぉ……温まってきたぁ!」
温める魔法陣の形に魔素を含んだ空気を固めると、温度が上昇する。
魔素が増えるように空気を圧縮するイメージで作ると、更に温度が上がって魔法陣の形に赤熱した。
何度か圧縮率や厚さを変えて基準を決め、風の魔道具と組み合わせると、ドライヤーの温度調節も楽になった。
温度を下げたければ温める魔道具を減らし、逆に温度を上げたい時には増やせば良い。
「よし、夕食前にもう一仕事しちゃおう」
下を格子状にしたケースを作り、その中に布団と枕を放り込んだ。
「レッツ、ダニ取りモード!」
ケースの下にドライヤーを並べて、布団も枕もまとめて加熱した。
確か天日干しした程度ではダニは死なないけど、60度を超えれば死滅するはずだ。
この状態で数分維持してやれば、ダニも退治出来るし、湿気も抜けてフカフカになるはずだ。
これを応用すれば、雨の日でも洗濯物を乾かせる。
ダニ退治をしている間にベッド自体も掃除して今夜の寝床を整え終わった頃、階下から食事が出来たと告げる声が響いてきた。
「お客さ~ん、夕食が出来たよ! 冷めると不味くなるから早く食べておくれ!」
声の感じは中年女性のようだったので、この宿の女将さんかもしれない。
昼間食べたマルールのムニエルほどの味は期待できないだろうが、さっきから胃袋が不満を訴えているので早速食堂へと向かうことにした。
ドアを開けると、丁度階段を降りようと歩いてきた人と鉢合わせになってギョっとした。
漆黒の髪はシャンプーのCMに出て来るようなストレートのロングヘアーで、黒い革のジャケットとパンツ、足下は黒い革のコンバットブーツ、浅黒い肌の黒ヒョウ人の女性は見上げるほどの長身だった。
「あっ……ど、どうぞお先に」
黒ヒョウ人の女性は俺にチラリと視線を向けたが、直ぐに目を逸らすと無言で階段を下りていった。
ごついブーツを履いているのに、階段を下りる足音が聞こえない。
キュッと引き締まった腰の後ろには、黒鞘の短剣が吊られている。
ツヤツヤ、モフモフの太い尻尾に触れようとしたら、バッサリやられそうな感じだが……モフりてぇぇぇ。
俺の尻尾も素晴らしい触り心地だけど、あれは更に上をいってそうだ。
全身黒ずくめで一瞬殺し屋かと思ったけど、たぶん冒険者なのだろう。
一方俺の服装は、カーゴタイプのハーフパンツに普通のボタンダウン、そこらにいる子供と変わらない。
ナイフとか持っていた方が冒険者っぽく見えるのだろうが、空属性魔法でいくらでも作れるし手入れをする手間も要らない。
それに、武器とか持っていない方が相手も油断してくれそうだから、やっぱり必要なさそうだ。
一応、部屋のドアにカギを掛けて階段を下りる。
負けたくないからクッションを利かせたステップまで使って、微かな足音さえ立てなかった。
部屋のドアの内側と部屋の戸棚の前には空属性のシールドを設置してあるので、破ろうとすれば分かるし、余程の事が無ければ破られる心配はない。
食堂には四人掛けのテーブルが四つと、二人掛けのテーブルが三つ、それに六人ほどが座れるカウンター席があり、黒ヒョウ人の女性はカウンター席の端に座っていた。
少し迷ったが、カウンター席の逆の端っこに腰を落ち着けた。
「お願いしまーす」
「坊やは……あぁ、さっき着いたお客さんだね。あたしは女将のネルバだよ。飲み物は何にする?」
カウンターの向こう側、厨房に立っているネルバさんは恰幅の良い猪人の女性で、年齢は四十代ぐらいだろう。
「えっと……ミルクで」
「あいよ!」
酒場のお約束的展開を期待したけど、だれも聞いていなかったらしい。
黒ヒョウ人の女性も、こちらに視線を向けることもなく、カップを傾けていた。
「はいよ、お待たせ!」
ネルバさんはトレイに載せた夕食を、先に黒ヒョウ人の女性に出した後、俺の前にも持って来てくれた。
メニューは蒸したデルム芋とトマトベースのシチュー、黒パンだ。
デルム芋は、アツーカ村でも栽培されている八ツ頭に似た芋で、濃厚な味わいが特徴だ。
バターが添えられていて、いっそう味わいが深くなっている。
トマトベースのシチューは、人参やキャベツ、豆などと一緒にモツを煮込んだものだ。
何のモツか分からないが、とろけるくらい柔らかく煮込まれていた。
「うみゃ! でも熱っ! ふぉぉぉ、溶けたよ、モツが溶けた、うみゃ!」
「騒々しい子だねぇ、でも口に合ったようで何よりだよ」
「ネルバさん、このモツは何のモツなんですか?」
「それはオークのモツさ。二回ほど煮こぼして、昨日の晩からコトコト煮込んだものだよ」
「凄いトロトロで、濃厚で、こんな煮込みは初めてです……熱っ、でもうみゃ!」
「はははは、煮込みは逃げたりしないから、ゆっくりお食べ」
ネルバさんと話しながらチラリと視線を横に向けると、黒ヒョウ人の女性が煮込みをスプーンで口元に運び、ビクっとした後でフーフーしていた。
ギロっと睨まれたけど、慌てて目を逸らして知らない振りをする。
めちゃめちゃクールに見えたけど、やっぱり猫舌なんだね。
煮込みをお代わりして、黒パンまで追加してもらい、お腹がパンパンになるまで夕食を楽しんだ。
黒ヒョウ人の女性は、俺がネルバさんと話し込んでいるうちに先に部屋へ戻って行った。
俺の後ろを通って行く時、ふわりと良い香りがしたが、足音は聞こえなかった。





