初めて垣間見る世界 後編(カバジェロ)
石鹸は初めて使ったが、泡が立って変な感じだし目に入ると酷く染みたが、確かに汚れは落ちるようだ。
最初真っ白だった泡は、俺の灰色の毛並みを潜り抜けると、濁った茶色に変わった。
水で洗い流した後で、ブルブルっと体を振って水気を飛ばし、大きなタオルで体を拭いた。
片腕になって手拭いを絞れなくて困っていたので、大きなタオルは有難い。
それでも背中を拭くのは、椅子に座って足も使わなければならなかった。
「てか、これ大きな人種用の半ズボンだろう……」
用意されていた着替えは、ギルドの訓練場の忘れ物のようで、猫人の体に合うものは無かったのだろう。
丈は余らないが腹回りはガバガバなのをベルトで無理やり締め、シャツは袖も丈も長すぎるのでナイフで切って詰めた。
ここまで来る時に着ていた服は、見当たらないから処分されたのだろう。
すでに服というよりも、小汚い布切れにしか見えなかったから未練は無い。
着替えを終えてミーリスの所へ向かったが、カウンターは昼の休憩時間で閉まっていた。
カードも金も預けたままなので帰る訳にもいかず、どうしたものかと思案していると声を掛けられた。
「すみません、ジェロさん。やっぱり大きかったですね」
「いや、猫人の冒険者なんて滅多にいないのだろう? 仕方ないさ……ボロ布よりはマシだ」
「すみません、仰る通り猫人の方で冒険者をなさっている方は稀なんです」
この後、ミーリスにギルドの商談エリアに連れていかれた。
ここはギルドに依頼を出す人間と職員が打ち合わせをするスペースだが、この時間に利用している者は俺達だけだ。
「どうぞ、よろしければ召し上がって下さい」
「い、いいのか……?」
ミーリスが、パンで具を挟んだものとお茶を出してくれた。
なんだか、すごく色々な良い匂いがしている。
恐る恐る、パンの端っこを齧ってみると、周りは香ばしく中はしっとりとしていて口の中に旨味が広がった。
間に挟まっている肉も野菜も、これまで口にしたことの無い旨さだった。
「うみゃい……うみゃい……うみゃ……」
「ジェロさん……」
気付けば俺は、ボロボロと涙を流しながらパンを頬張っていた。
襲撃に失敗して死んでいった仲間、オークの心臓を食って死んだ仲間、開拓村で飢えて死んだ爺さん、婆さん、みんなに食わせてやりたかった。
「いくら……いくら払えばいい? 大銀貨一枚か?」
「いえ、お金は結構ですし、そんなに高いものじゃないですよ。銅貨二枚です」
「えっ……これが銅貨二枚?」
貧しい開拓村で育った俺は、金を使って買い物をした記憶が無い。
そもそも村には店など無く、年に数回行商人が訪れては、商売にならないと馬鹿にされていただけだった。
「ジェロさんの手持ちのお金だと、百個以上買えますね」
「もの凄い御馳走じゃないのか?」
「普通の昼食ですよ」
「開拓村じゃ、こんな物は……」
「やっぱりジェロさんは開拓村のご出身なんですね」
反貴族派を率いていたダグトゥーレに聞いていたが、グロブラス領では農民が搾取され、特に開拓村は搾取の度合いが酷かったらしい。
ここカーヤ村は穀物の集積地なので、いわゆる商人の村なので他の地域に較べると景気が良いそうだ。
「カーヤ村の景気が良いといっても、それはグロブラス領の中だけの話で、他の領地の村や街とは較べものになりません」
確かに、脱走して逃げ込んだクラージェの街は、カーヤ村とは比較にならないほど賑やかで活気に溢れていた。
逃げる途中で盗みを働いたレトバーネス公爵領の農家は、グロブラス伯爵領の農家よりも裕福そうに見えた。
「それで、一つご相談なのですが……ジェロさん、他の領地に拠点を移してみませんか?」
「えっ……?」
ミーリスの申し出は予想外のものだった。
憐れみから手助けをして、登録の手続きの中で魔力が高く、ゴブリンなども討伐出来ると知り、使える人材だと思ったから引き留め工作をされているのだと思っていた。
「俺が拠点を他に移したら、これまでの行為が無駄にならないか?」
「無駄になんかなりませんよ。冒険者ギルドは、冒険者の皆さんが実力を発揮できるようにサポートするのが仕事です。それでですね……」
通常、登録したての冒険者には値段の安い下宿を紹介しているらしいのだが、ここカーヤ村には猫人を受け入れてくれる下宿が無いらしい。
「他の領地ならばあるのか?」
「レトバーネス公爵領は期待できませんが、エスカランテ侯爵領ならば大丈夫だと思います」
「ラガート領はどうだ?」
「はい、ラガート子爵領も大丈夫でしょう」
ミーリスの話では、エスカランテ侯爵領もラガート子爵領も民衆の暮らしは遥かに楽だそうだ。
「グロブラス伯爵の悪政を見てみぬフリをして、自分達だけ良い思いをしてるんだな?」
「ジェロさん、その話をどこで聞かれたのかは聞きませんが、領地を治める貴族の方であっても、他の領地を治める貴族の内情を糾弾する権利なんてございませんよ。領地というのは小さな国のようなもので、王国の法律は適用されますが、基本的には領主が責任を持って治める土地です」
ミーリスの話は、ダグトゥーレに聞かされていたものとは食い違っていた。
グロブラス伯爵の悪政は聞いていたものとほぼ一緒だったが、他の領主の役割が異なっていた。
取り調べを行ったラガート家の騎士も憎らしい片眼の猫人も同じような話をしていたが、自分達を正当化するための言い訳だと俺達は耳を塞いでいた。
「もしかして、王家や他の領主が密かに調べを進めているというのは……」
「そうした噂を聞いていますが、真実かどうかまでは分かりかねますが……十分に考えられますね」
冒険者ギルドは、あくまでも冒険者のための組織なので、そうした裏情報までは分からないそうだが、噂としての信憑性は高いらしい。
だとしたら、俺達はダグトゥーレに騙されていたのだろうか。
騙されていたのだとしたら、一体何のために関係の無い貴族を襲撃させられたのだろう。
そういえば、ダグトゥーレは襲撃の現場にも来なかったし、その後は音信不通のままだ。
俺達を利用するだけ利用して使い捨てたのだろうか、それともダグトゥーレ自身が捕らえられたり、何らかの事情があって連絡が取れなくなっているのだろうか。
「ジェロさん、どうされました?」
「いや、何でもない……とりあえず、エスカランテ侯爵領に行ってみる」
片目の黒猫人の言うことが正しいのか、ダグトゥーレの言うことが正しいのか、分からないなら自分の目で確かめるしかない。
「そうですか。では、お出掛けになる準備を整えた方がよろしいですね」
「準備……?」
「旅をなさるなら、着替えや携帯の食糧、雨具ぐらいは準備された方がよろしいですよ」
「そうか……そうだな」
恥ずかしながら、まともな旅などしたことが無いので、何が必要なのかも分からない。
そんな俺にミーリスは、旅の道具を整えるための店をいくつか紹介してくれた。
ギルドとして信用がおけると把握している店で、ギルドの紹介で来たと伝えれば法外な値段を請求される心配も要らないそうだ。
買い物に必要な金を下ろし、エスカランテ侯爵領に向かう地図をもらい、ギルドを出る。
「色々、世話になった……ありがとう」
「ジェロさんの道行が幸福でありますように……ご利用ありがとうございました」
ミーリスは、キッチリと頭を下げて見送ってくれた。
たぶん、もう会うことも無いのだろうが、開拓村以外で初めて人間として扱ってくれた彼女を生涯忘れることは無いだろう。
いや、あの憎らしい片目の黒猫人も、俺を人間として見て、真正面から向き合っていた。
冒険者ギルドに来るまでは、ダグトゥーレの言葉を疑いもしなかったし、片目の黒猫人の言い分など信じる気にもならなかった。
だが、俺は余りにも物を知らなすぎる。
ダグトゥーレの言葉も、言われるままに信じているだけで、それが正しいのか間違っているのか判断するだけの知識が無い。
「無いなら手に入れれば良い……行って自分の目で確かめれば良い……」
旅の道具を買いそろえに古道具屋へ行くと店主は渋面で俺を出迎えたが、ミーリスの紹介で来たと告げただけで態度を一変させた。
理由を聞くと、ギルドの紹介で来る者は、ちゃんと金を持っている客だからだそうだ。
駆け込みの客のように値段を吹っ掛けることは出来ないが、紹介を受けて来る客の多くはまとめ買いをするし、ギルドの期待に応えておけば、また客を紹介してもらえるらしい。
猫人の体にも合う古着、下着、雨具、小ぶりの鍋や携帯食、それらが収まる鞄、それと店の隅に転がっていた折れ曲がった鉄棒を杖代わりに購入して金を払った。
「兄ちゃん、買った服に着替えて、そっちは処分してやろうか?」
「いや、いい……みすぼらしい方が金を持っていなそうで狙われないだろう」
「ははっ、確かにその通りだが、物取り目的で猫人を襲うような奴はいないぞ」
「それもそうか……」
準備を整えて古道具屋を出た。
さぁ、まだ見ぬ世界とやらを見に行くとするか。





