2章-1話 アストレア王国
「それでね。ここをこうやって折るんだよ。ほら、飛ばしてみて」
ルーシィーはエミリーや街の子供たちに、折り紙を教えていた。そばではジェシカも見よう見まねで、紙飛行機を折っている。子供が飛ばした紙飛行機は、思いのほか飛距離が伸び続け、ついには三軒隣にある家の屋根の上にまで飛んで行った。
ジェシカを含めたみんなで、ヨシュアの墓参りに行ってから、既に三週間近くが経過していた。ルーシィーはジェシカの護衛付きで街を出歩いている。街でルーシィーを迫害する輩は、ジェシカが優しく厳しく、もう二度とルーシィーを襲うことがないよう、”教育”してあげた。
ちなみにジェシカは行く当てが無かったため、クリスティ家で世話になっている。裕也たちと同じ身分だ。精神がやむ前、元々は面倒見のいい人物だったらしく、何かとルーシィーの世話を焼いている。これが、政財界を裏から支える六大魔女の一人なんて、誰も思わないだろう。
元々、自ら進んでルーシィーを迫害をしていた人々の数はそれほど多くはなかった。大多数の人は、周囲の環境に同調し、あるいは、周りの人と違うことをやるのを恐れて、迫害に加わっていただけだ。それはそれで、どうしようもない屑の思考だが、世間一般などそんなもの。
いつしか、ルーシィーにもエミリーを筆頭に少しづつ友達ができ、だんだんとその輪は広まっていった。相変わらず、ルーシィーを悪魔の子と蔑む者もいる。せっかく友達になってくれた子の中にも、母親が現れて、そんな悪魔の子と付き合うんじゃありませんと、連れ去られていった子も何名かはいた。
それでも、ルーシィーはもはや孤独ではなくなった。ルーシィーが紙飛行機を作って遊んでいると、裕也とリーアがやってきた。
「よぉっ、ルーシィー、前よりだいぶ飛ぶようになったじゃないか、紙飛行機」
「マスター、ボクもついに紙飛行機作れるようになったんだよ。もう折り紙は極めたも同然だね」
「いや、紙飛行機って誰でも作れる、一番シンプルな折り紙の基礎みたいなもんだから・・」
裕也の身もふたもない発言に、リーアは頬を膨らませて抗議し、裕也の頭のうえにのって髪をくしゃくしゃにする。
「ちょっ、リーアさん? 何してくれてるんですか?」
「ふん、マスターが意地悪するのが悪いんでしょ」
裕也が抗議の声をあげ、リーアを追い回していると、クレアがバスケットを持って裕也たちのもとにやってきた。裕也は、結局、教会に行ったとき以来、クレアとあまり上手く話せていない。
クレアも教会で、勢いで告白同然の思いを裕也に告げてから、気恥ずかしさゆえか裕也となかなか思うような距離をとれなくなっていた。バスケットを持ってきたのは、現状を打開するためのきっかけ作りのためだ。
「カレンに習って、お弁当作ってみたの。裕也さん、と皆さんのお口にあうといいんだけど」
「なんか、皆さんはおまけって口ぶりだね。ボク妬けちゃうなー」
リーアがすかさず茶化す。裕也はリーアを軽く小突き、適当な広場を見つけて、シートを引きその上に座った。バスケットから弁当を取り出す。オムレツと総菜、そして焼いた熱がほのかに残っているパン。ルーシィーやエミリーたちもやってきて、早くも争奪戦が開始される。バスケットの中が空になるまで、数分もかからなかった。
「裕也さん、後でクリスティさんのところに行ってあげて。ハルトさんのことで相談があるらしいの」
「クリスティさんが俺に?何の用だろ。分かった、後で行くよ。でも、その前に・・こんないい天気だし、クレアさんにお願いしたいことあるんだけど、いいかな」
「あら、なにかしら?」
裕也はクレアに耳打ちする。クレアは顔を赤らめるが、小さく首を縦にふる。クレアはシートの上に足を崩して座り、裕也はクレアの膝の上に頭をのせる。
「ああ、幸せ。最高に気持ちいいよ。生きててよかった」
「もう、大袈裟です。だいたい、天気がいいことなんて、あんまり関係ないじゃないですか」
そんなことはない。暖かい太陽の日差しを浴びながらの、クレアの膝枕。これ以上の至福の時がどこにあるというのだ。
「マスターはクレア姉だけのものじゃないんだからね」
クレアの膝枕で眠る裕也のさらに上にリーアが乗っかり大の字で寝る。裕也はこの世界に来て、最高の安らぎのひと時を味わっていた。
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「それじゃ、頼みますね、裕也さん」
裕也はクリスティから、当座の資金とハルトへの渡し物を受け取ると、クリスティの部屋をでた。
「アストレア王国かぁ。ボク行ったことないんだよね。すごく栄えてるらしいけど、最近はけっこう物騒になっているっていう話を聞くよ。マスター、気を付けてね」
「大都会だけど、治安悪いか。なんか懐かしいな」
裕也が元の世界で働いていた場所はまさにそんな場所だった。人も多く、様々な流行が飛び交う街。喧騒も多いが、活気がある。
クリスティの用事はいわばお使いのようなものだった。今も軍の最前線で戦っているハルトに、微力なら役立つアイテムやクリスティ家で所蔵している装備品を渡してほしいというものだ。
ハルトはアストレアからクリスティ家に来るまで、翼竜を使ったが、さすがのクリスティも竜までは持っていない。馬車を走らせて数日ほどの旅となる。裕也はクレアが作ってくれた、数日分の弁当を手に、旅立ちの時を迎えた。
治安の面では、ほとんど心配はなかった。クリスティの雇ってくれた腕利きの護衛が数名に、おそらくこの世界で最も頼れるボディーガードとなるであろう、六大魔女ジェシカが同行してくれることになった。山賊や野盗どころか、鍛え抜かれた軍の兵士が襲い掛かってきても、お釣りがくる頼もしさだ。リーアも当然同行する。
クレアとルーシィーが馬車に乗り込んだ裕也を見送ってくれた。土産をねだられたが、何を買ってくるか悩みどころだ。裕也たちを乗せた馬車は、瞬く間に速度をあげ、アストレアを目指して駆けていった。
アストレア王国への道のりは驚くほど順調だった。たまに小型のモンスターを見かけることはあったが、リーアやジェシカが出るまでもなく、護衛たちが剣を一振りするだけで片付いた。
王国に近づくにつれて、道がだんだんと整備されたものになっていく。アストレア王国は大国だけあって、商人たちの往来も激しい。中には一度に大量の物資をまとめて運搬する業者も存在し、裕也たちは十を超える馬車の大群とすれ違うこともあった。
アストレア王国に着くと、門番にクリスティの使いであることを説明し、アストレア王国の城下町へと足を踏み入れる。アストレア城下町の中央には、巨大な噴水が配置されており、その噴水を挟み込むように左右にシンメトリー上に建物が並んでいる。一軒一軒の店構えこそ個性豊かだが、街全体として見れば整然とした、観光客を感嘆させる造りになっている。
「ハルトは仲間二人と、この城下町の黒猫亭って店に宿をとってるらしい。一階が酒場と食堂を兼ね備えてるらしいから、そこで一息つこう。クリスティさんから聞いたんだけど、面白い吟遊詩人もいるらしいぜ」
「吟遊詩人かぁ、ボク、ちょっと楽しみ。マスター、早く行こうよ」
裕也の意見に反対するものもおらず、リーアの促しもあり、一行は黒猫亭を訪れ、数日間の予約を入れた。ハルトに届け物を渡すだけなら、一泊するだけでも十分なのだが、せっかく何日もかけてやってきた城下町だ。少しぐらいは観光したい。
それにハルトが宿をとっているといっても、目下戦争の最中。戦況は今のところ、双方にらみ合いの状態に陥っており、以前よりは落ち着いているらしいが、ハルトが毎日、宿に帰ってくるとは限らない。
裕也たちが荷物を部屋に置いて、酒場に顔を出すと、まだ夕方であるにも関わらず、既に半数以上の席が埋まっていた。店の中央で、木でできたウクレレのような楽器を持って、歌い続けている人物がいる。ホビット族で名をマルクと言い、黒猫亭の主人とは週二回の演奏で、客寄せを兼ねて契約しているらしい。
背丈は小さく、耳の先端がとがっている。白いズボンに緑色のジャケット。軽快なステップを交えて、楽器を演奏しながら歌い続ける。周囲に少しずつ人だかりが出来はじめてきた。マルクは一旦歌をやめ、集まってきた人々の周りを一周りする。
「よっておいで、見ておいで。さあさ、皆さんお立ち寄り。ちょいと昼から飲んでるお姉さん。ダメダメ、とぼけちゃ、あんたのことさ。その姉さんをじっと見ている、あんたもほら。みんなで輪をつなぎゃ縁もつながるかもだぜ」
リズムをのせた語り口調で、手拍子をたたきながら、人の注意をひきつけていく。さらに、人があつまったところで、派手に楽器を鳴らし、再び歌い始める。
「我らが猛きクルガン王。果てしなき夢追い、築く王国は千年の栄。民を尊び、国を守り、我らが栄光果てしなき・・」
アストレア王国の国王であるクルガン王を称える歌らしい。一人で楽器も踊りもこなすあたり、中々器用な立ち振る舞いだ。歌や踊りだけでなく、ジャグリングやマジックショーまでこなせるとのこと。彼のおかげで、黒猫亭は広いアストレア城下町においても、確固たる人気を確立している有名店となっている。
もっとも、黒猫亭の人気の秘密は、マルクだけじゃない。提供される料理も絶品で、宿に泊まらずとも料理だけを目当てにやってくる観光客も多い。マルクは一通り歌い終わると、裕也・・の隣に座っていたジェシカに目をつけ、呼びかけた。
「そこの綺麗なお姉さん。ちょいと、おいらを手伝ってくんないかい?今から、やるのは世紀の大魔術。いまからこの美人さんに布をふりかける。すると不思議、お姉さんの体はどっかに行っちまうって寸法さ。なぁなぁ頼むよ、お姉さん」
ジェシカに気軽に声をかけてくるマルクに対して、裕也は内心冷や汗をかいていた。相手は仮にも六大魔女の一人、ついこの前まで平然と人に襲い掛かっていたジェシカだ。マルクはそんなことは露知らず、ジェシカの手を恭しくとり、目の前に跪いて手の甲にキスをする。
「お姉さん、お願い。お姉さんみたいな美人さんが協力してくれたら、絶対、盛り上がると思うんだ。隣のお兄さんは、お姉さんの恋人なのかい?お兄さんからも頼んでおくれよぉ」
マルクは裕也も巻き込んで、頼み込む。どうしたものかと、悩む裕也だったが、意外にもジェシカはマルクの言うことを快諾した。
「いいわ、可愛い詩人さん。手伝ってあげる。それで、何をすればいいのかしら」
「やや、ありがとう、美人のお姉さん。それじゃ、こっち来て、そう、そこの位置。そこで立っててくれるかい?」
ジェシカはマルクの指示する場所に立つ。マルクはジェシカに素早く耳打ちをすると、黒く大きな布を取り出し、ジェシカの体に被せていく。ジェシカの体が完全に布で隠れると、マルクは持っていた楽器で短めの音色を奏でる。ドラムロールのようなものだろうか。マルクが布を取り外すと、ジェシカの体は忽然と消えていた。
マルクは今度は中央のテーブルに布を被せる。マルクが布を取り外すと、中からジェシカが現れた。
「奇跡の大移動マジックこれにて完了。さあさ、皆さん、協力してくれたお姉さんに盛大な拍手をどうぞ」
周囲から、一斉に拍手の嵐が沸き上がる。ジェシカは、拍手には特に興味がなかったようで、軽く髪をかき上げ、悠然とした足取りで裕也のもとに帰ってきた。
「あのテーブルの下に隠し通路があるの。私はそこを通ってきただけ。奇跡も超能力もないわよ。だいたい瞬間移動なら、普通にできるでしょうに」
「いやあのね、ジェシカさん。普通の人は瞬間移動できないから。まぁいいじゃないか、お客さんも満足してるみたいだし」
「あんなんで満足するなんて、おめでたいのね。あら、何かしら? 誰か入ってきたみたい。騒がしいわね、大勢人を連れてるわ」
裕也が、ジェシカの指さす方向を見ると、いかにも偉そうな態度の一人の禿げた初老の男性が入ってきた。全ての指に宝石指輪をはめており、いかにも高そうな赤い毛皮のコートを身にまとっている。男性の後ろから、部下と思われる、同じく偉そうに歩いている集団がついてくる。
「ふん、この店も質が落ちたもんだ。小さくて卑しいホビット族がクルガン王をだしにして、歌にして金儲けに走るなど、それだけで斬首に値する。ほかのホビット族のように集落でも作ってひっそりと暮らしておればよいものを。一人だけで和を乱しおって」
「全くですね。戦時に、そのホビット族の歌を有難げに聞いている民衆も、同類です。ささ、このような輩に関わっていたら、クヌルフ様の威信まで損なわれてしまいます。こんな下々の者が集う宿など、とっとと用事を済ませて引き上げましょう」
「ま、脱出マジックとやらに一役買っていた小娘ならば、酒でも注がせてやってもいいがな」
なんでだろう。どんな世界でも、必ずこういった類の輩は存在する。わざわざ言わなくていい陰険な物言いをするもの。身分差別をするもの。人と違うことをすることを許さないもの。誰の得にもならず、誰も喜ばないことを、何故わざわざ、するのだろうか。
「ちょっと、なんなのさ、あの偉そうな態度。マスター、ボクやっちゃってもいい?」
リーアも憤慨している。裕也も諸手を挙げて賛成したいところだが、リーアが店で暴れれば、他の客にも迷惑がかかるだろうし、悩みどころだ。出来れば、おとなしくこのまま帰ってほしい。
だが、そんな裕也の思いを裏切り、クヌルフはジェシカのもとにやってきて、勝手に隣に座り、嫌らしい目つきで全身をなめまわすように見る。裕也はまたしても、冷や汗をかくはめになった。マルクならともかく、このおっさんは完全にアウトだ。
ジェシカの一振りでクヌルフの首から上は、自分の胴と永遠におさらばすることになる。夕暮れ時に起こる大惨事の発生。黒猫亭が別の意味での有名店になってしまう。クヌルフがジェシカの肩にかけようとした手を、横から毛深く太い腕ががっしりと掴む。
「ちょっと、お客さんすいませんね、何の用か知りませんが、他のお客さんのご迷惑になるようなことは控えちゃもらえませんかね。ここは皆で楽しく飲み食いしながら、ささやかなショーを楽しむ場所なんでさぁ」
「なんだと、貴様。儂を誰だと思っている」
でた。やられ役の名台詞。"儂を誰だと思っている"。ドラマなどで語られることの多い、主人公にやられることが決まっている典型的な役者のセリフを生で聞く機会があるとは思わなかった。別に聞いても、楽しくもなんともないのが残念だが。
「こんな下々の者が集う宿の店主をやってるものでさぁ。用がないなら、いや用があっても、帰っちゃもらえませんかねぇ。お代は結構ですんで」
「ふん、少しは流行ってるようだがな。儂の一声でこんな店、明日にはたたませることも出来るんだぞ」
「やってみろよ、そんときはあんたも失脚だぜ、クヌルフさんよ」
突然、背後からかけられた声にクヌルフは青筋をたてて振り返る。だが声の主を見た瞬間、急速に青ざめて、出していた手を引っ込める。クヌルフは苛立ちを露わにして脇の椅子を忌々しげに蹴り飛ばすと、そのまま従者たちを連れて店を出ていった。裕也は久しぶりに見る友人の元気そうな姿に顔を綻ばせる。
「よぉっ、ハルト。元気そうじゃねぇか。タイミングよすぎだぜ、絶対狙ってただろ」
「バーカ、俺はおまえほど暇じゃねぇんだ。それよか、そっちがジェシカさんだろ。お袋から先に話は聞いてるぜ。どうやら伝書鳩の方が馬車よりも速かったようだな」
ハルトの後ろから、さらに二人の人影が姿を現した。短髪の青髪にレザージャケットをまとった男と、長い黒髪をポニーテールでまとめ、赤い軽鎧を身に着けた女。
「おう、ハルト。紹介するぜ。俺の腐れ縁で幼馴染のメイガンとルキナだ。メイガン、ルキナ、こっちは裕也。この前話したジェシカの一件を見事に解決した俺のダチだ。裕也の肩の上にのってんのがリーア。んでもって、そっちが、当人のジェシカさん」
「ほう、お前らが裕也にリーアか、話はハルトから聞いてるぜ。俺がメイガンだ。宜しくな。ジェシカさんも宜しく」
「私はルキナ。ハルトの馬鹿が世話になったみたいね。こんなやつでも、一応、少しは、ちょびっとくらいはいいとこもあるんだから、仲良くしてやってよね」
「おい、ルキナ。おめぇとは後でじっくり話し合う必要があるみてぇだな」
ハルト、メイガン、ルキナが裕也たちの座っている席に同卓し、この店一番人気のエール酒を頼む。ついでにつまみもいくつか注文し、手持ちの荷物をテーブルの端にまとめると、三人とも椅子の背もたれに思いきりよりかかった。
裕也は内心で密かに感心した。三名の中で、誰一人としてジェシカを責めるそぶりをみせるものはいない。それどころか、何事もなかったかのように、ジェシカを新たな友人として迎えている。
ハルトから喪服女の一件についていたならば、警戒するなり邪険にするなりしてもおかしくない。それはハルトも同様だ。流石クリスティさんの息子とその友人たちだ。この三人とは波長が合いそうだと思う。
「あー、しんどかった。ったく、ハルシオンの野郎、サンドウォームなんざ呼び寄せやがって。これじゃ、クフ王やパトラ女王がいくら援軍よこしてもきりがねぇよ」
「ほんとよね。私たちも死傷者が出てるわけじゃないけど、このままじゃ、じり貧だわ」
ハルトたちが、戦の愚痴をいいあっていると、黒猫亭の店主が大ジョッキをもってやってきた。
「さっきはありがとうよ。こいつは俺からの気持ちだ。まずは一杯やってくれや。すぐに飯も持ってくるからよ」
店主は大ジョッキをテーブルの上におろすと、マルクに向かって怒鳴り声をあげる。
「おう、マルク。さっきのクソつまらねぇやつらことなんざ、気にすんじゃねぇぞ。他のお客さんも、馬鹿どものせいでしらけちまってやがる。景気治しに一発盛り上がる曲頼むわ」
「あいよ、まかせてよ。それじゃ、"砂漠の女剣士"なんてどうだい?」
「いいじゃねぇか。派手に、好きなようにやってくれ。それじゃ宜しくな」
店主は厨房へと戻っていき、マルクの歌と演舞が再開された。周囲の客たちもすぐに熱気を取り戻し、その日裕也はハルト達と一晩中、飲み明かした。
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「どうしよう、おいらの楽器がない・・」
マルクは自分の大切な商売道具が目の前から忽然と消えたことに、慌てふためいていた。結局明け方近くまで、歌い続けたことは覚えている。流石に疲れ切って、部屋に戻った瞬間にそのままベッドに潜り込んだ。起きたのは昼を大幅に過ぎた時間だ。
マルクが目を覚ますと、確かに部屋に持ち帰ったはずの、マルクの相棒ともいうべき大事な楽器が、部屋から消えていた。
「なぁオイちゃん、おいらの楽器知らないかい、朝起きたら、消えていたんだ」
オイちゃんとは、黒猫亭の店主のこと。本名はロマレーヌ・オスカーという、店主の見た目には到底似合わない、優雅な名前を持っている。持ってはいるのだが、自他ともに全く似合ってないことを認めており、マルクは店主をオイちゃんと呼ぶようにしている。
「オイちゃん、オイちゃん、ってばさぁ」
「俺が知るわけねぇだろ。おめぇ部屋に帰るとき、だいぶ飲んでたじゃねぇか。ほんとに部屋に持って帰ったのかよ」
「間違いないって。おいら、いくらいい加減でも、いくら酔ってても、自分の楽器だけは手放したことはないんだ」
マルクは自分の商売道具がなくなったことで途方にくれていた。とりあえず、次の演奏をどうすればいいか、考えながら廊下を歩いていると、同じように廊下を歩いていた裕也の脇腹とマルクの肩がぶつかった。久しぶりの電気ショックを受けたような衝撃が裕也に襲い掛かる。
泥酔状態で黒猫亭の部屋に入っていくマルク。大事そうに抱えた楽器をベッドのわきにおき、眠り込む。マルクが部屋に入ってまもなくして、一人の少女がマルクの部屋に入ってきた。
少女は緑の長い髪を無造作に後ろに伸ばし、同じく緑色のチュニックを身につけていた。耳には鈴のついたイヤリングをしている。少女の頬には明らかに誰かに殴られたと思われるあざがあった。少女はマルクのベッドの前で、ごめんなさいと一言告げて、楽器を持ってマルクの部屋を出る。そこで映像はとぎれ、裕也は目を覚ました。
「お兄さん、ごめんよ。おいら、余裕がなくてぼうっとしてたみたいだ。あれ、お兄さん確か、昨日のマジック手伝ってくれた、綺麗なお姉さんと一緒にいたお人じゃないかい?」
マルクは裕也の姿を目にとらえ、昨日の出来事を思い出したようだ。裕也はマルクに挨拶すると、自分の部屋に一旦入り、自分の荷物を整理して、部屋から出た。まだ廊下をうろついていたマルクを見かけて声をかける。
「昨日はすげぇよかったよ。こんなとこでなにしてんだ? なんか慌ててるみたいだけど」
「おいらの楽器がなくなっちまったんだ。誰かに盗られたのかもしんない。なぁ兄さん、どこかで見かけたら、教えておくれよぉ、おいら、あれがないとおまんまの食い上げさぁ」
マルクは、その後も黒猫亭の中で自分が立ち寄ったと思われる場所を隈なく探したが、結局楽器は見つからなかった。
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路地裏に一人の男が腕組みをして、立っている。男のもとに少女は楽器を抱えて、やってきた。
「エレーナ、持ってきたか?」
エレーナは緑色の髪をかき上げ、目の前の男に楽器を渡す。男は楽器を乱暴に受け取ると、地面に思いきり叩きつけ、さらに上から足で踏みつぶす。
「これでクヌルフ様からの依頼は完了だな。あの吟遊詩人には悪いが、しばらく廃業しててもらおう」
「なぁ、ギッシュ。こんなことして、なにになるのさ」
エレーナは抗議の声をあげる。ギッシュはエレーナの頬を殴りつける。
「エレーナ、おめぇは黙って俺の言うこと、聞いてりゃいいんだよ。カシラ、いや、おめぇの兄貴に”あのこと”ばらされたくねぇだろう?」
エレーナは下唇をかみ、ギッシュを睨みつける。ギッシュはエレーナの顎をつかんでエレーナの前に迫ると、先ほどとは裏腹に猫なで声をだす。
「そう、怖い顔すんじゃねぇよ。上手くやろうぜ。俺たちゃ相棒みたいなもんだ。俺はこのままおめぇを上手く利用してギルドの幹部になる。おめぇは秘密が守られる。お互い得な関係を築いたほうがいいだろう?」
ギッシュの甘言にエレーナは辟易する。何が得な関係だ。ただの脅迫者のくせに。ギッシュも、ギッシュに依頼するクヌルフも、うんざりするような屑だ。そして、そんな屑に逆らうことが出来ない自分も同類。
エレーナはマルクの演奏を何度も聞いたことがある。彼の歌はみんなを幸せにする力があった。私やギッシュとは真逆。私たちは周囲を不幸にしかできない。エレーナは心の中で、尊敬すべき小さな吟遊詩人に謝罪した。