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嵐の前の静けさ

改札階までのエスカレーターは距離が長く、壁はコミケの期間中になると来季の新作アニメや売り出したい漫画、ライトノベルの広告で染まる。コミケという、正にオタク文化の祭典会場の最寄り駅にこれほど相応しい装飾は無い。

 妹はポスターを眺めて感嘆の声を漏らしている。去年の冬コミは、コミケを一度は体験しておきたいと言う、別にオタクではない父と一般参加したのであるが、その父もこのエスカレーターの壁に貼られたポスター群には驚いていた。

 改札階に出ると、外の冷気が体にあたる。やはり寒い。天井が高く、混雑しているもののそこまで窮屈さは感じない。

「ちょっと、脇に行こう」

 私は妹の手を引いて、人の流れから外れて壁沿いに歩み寄った。普通、エスカレーターから登ってきたらそのまま誘導しているスタッフの指示に従って改札まで行くのであるが、私は事前に、トイレを済ませておきたかったのだ。妹は特に済まさせておきたい。この改札階にトイレはあるので、出たら今の場所に落ち合おうと、妹は女子トイレの列に並び、私も男子トイレの列に並んだ。男子トイレの列は、小であるというのも幸いして、スムーズに進んだ。用を足して待ち合わせ場所へ歩いて行くと、何と妹は未だ列の真ん中に立っていた。女子トイレの列の進みは牛より遅い、と言う事か。

 私はそのまま待ち合わせの場所で、本日出展する作家の動向や、フォロワーさんの呟きをツイッターで確認していた。

――あばずRED先生は会場入りしている。名無しの東北県人先生の新しい呟きはない。でも会場で設営していてもおかしくはなさそうだな。

 あばずRED先生とは、この年ツイッターでみかけたガルパンイラストの作家である。私はこのイラスト集を今日の目当ての一つにしていた。そして名無しの東北県人先生、こちらは「ウツテンカイ」と言う一次小説同人誌サークルを主宰している方で、オリジナル小説同人誌と言う「被差別ジャンル」において、画期的な成績を上げている実力派である。

 そうしている内に、妹が来た。私たちは揃って改札をくぐる。丁度埼京線直通の新木場行が到着してきたところで、ホーム階から大量の乗客が上がってきている。その波にもまれてのものであった。駅員やコミケスタッフの怒声にも似たアナウンスが一層多くなる。

「走らないで下さい。走らないで―。走るな!」

 遂にはこういう事になってしまう。因みにこのコミケスタッフは全員ボランティアである。コミケット準備会から給料が支払われているわけではない。同人誌即売会を知らない方には理解し難い事だが、スタッフもまた、「スタッフ参加者」という参加者である。

 サークルで参加する場合は「サークル参加」、同人誌を手にするために来場するのが、客ではなく「一般参加者」と呼ばれる。

 コミケにお客様は居ない。というのはこういう理屈なのである。全員が参加者なのだ。

 駅の外に出る。太陽は丁度建物の向こう側にすっぽりと隠れていて、駅前はまだ払暁のような淡い明るさである。三十分前の新木場―東雲間の車窓から見た東京湾の方が明るく感ぜられた。

 我々は今回目的のサークルが全て東ホールに固まっていたので、東側の待機列へ向かう人の流れに乗っていく。西ホールや企業ブースへ行く場合は、あの有名な逆三角形の東京ビッグサイトのシンボルタワー前の広場でブロックごとに並ぶ事になる。

 黒山の人だかりの中を歩いていると、そのシンボルマークである逆三角形の建物――会議棟が目に入った。駅側ではない、海沿いの東側が太陽光を受けて輝いているのが解る。

「ここに並ぶの?」

 妹が西側待機列を指さす。

「いや、もっと別の所だ。海沿いに行く」

 言いながら、何という酔狂な奴だ、とも思う。今から向かうのは普段駐車場として使用されている東側待機列で、隣は海である。対岸をよく見るとディズニーリゾートの施設があり、南へ目を向けると羽田から発着する飛行機が常に飛んでいる。水平線の彼方には太陽が我々参加者を照らしており、海からは冷たい風をモロに受ける。冬は寒く、夏は遮蔽物が無いので日差しをまともに受け続ける灼熱の場所である。もっと早く行くと、この時期は日の出が拝められた。

 妹はそんなことなど知らずに、私と一緒に待機列へ歩いていた。

 彼女の方は、早速いろいろな恰好をしている一般参加者やスタッフに興味の矛先を向けていた。

「あの人、自衛隊の人?」

 と、迷彩服コスの一般参加者を見て尋ねたり、

「あのシャツひど~い」

 と、防寒用インナーの上に着ているスタッフの「クソTシャツ」を見て笑っている。因みにそのTシャツには「まったく、駆逐艦は最高だぜ!」とあった。艦これは昨日だぞ。と私は声に出さず、「提督」へささやかな突っ込みを入れる。もっともこんな突っ込みは野暮以外の何物でもない。

 艦これ――即ち「艦隊これくしょん」というブラウザゲームは、私が初めてコミケに参加した時から、既にコミケの「台風の目」であった。今回は一日目が「艦これ」と言うジャンルのメインで、今日は少年ジャンプなどの少年誌やガルパン、BLがメインの日程となっている。

 横断歩道に近づいた。信号は青から赤への点滅を始めている時だった。

「はい、止まって―!」

と、スタッフは、両手に持っている工事現場などで目にするカラーコーンの棒を横に広げ、我々一般参加者を縁石ギリギリの場所までで制止させる。初参加時はこの棒を使用しているのが新鮮に見えたのだが、現在はもう慣れ切っていた。普通はこういう場合に使用するなら赤色誘導灯ではないかと思うところだが、寧ろ昼間であれば、「黄色と黒の長い棒」の方が珍しいので目立ちやすく、モノが長いから大人数に対応できるのでは、と自然に思えるようになっていた。こうしていつの間にかコミケに染まっていくんだな、と、コミケではよく見る光景に違和感を感じなくなっている(寧ろ懐かしさと高揚感を感じてしまう)自分に気が付くのだった。

信号が青になる。スタッフは棒を上げて、「走らないで歩いて下さい! 前の人との間隔詰めて!」と声を張り上げる。先の新木場駅の駅員と違って、このスタッフは声が嗄れていない。歴戦を潜り抜けてきた喉なのかと、私はすっかり駄目になった元演劇部の自らの喉に手を当てた。五十分舞台上に出ずっぱりで声を張り上げていた高校時代も、今では遠い昔である。

横断歩道を渡り、人の流れは右方向へ進んでゆく。そのまま直進して信号を渡り、左の道を行けば、東の待機列に到着するのである。

その信号のある交差点で、我々は再びに三人のスタッフに制止させられ、男性便所の注意書きのように

「一歩前へ詰めて下さい!」

 と言われた。それこそこの短時間で耳にタコができるほどだ。

 しかも言い方がまた凝っている。

「はい、未だあと薄い本一冊分は詰められますよ~!」

 と言う声には、流石に各所で笑い声が上がった。ここで言う「薄い本」とは、無論同人誌の事である。

 ふと右方向を見ると、逆三角形の会議棟が見えた。先程駅前で見えた場所と、丁度反対側である。朝陽を全身に受けて煌々と輝いている。

「お兄ちゃん、青だよ、青!」

 妹に言われ、はっとして前を向くと同時に、列は進みだした。会議棟に見惚れてしまっていたのである。これは気を付けなければならない。我々は走る訳でもなく、のろのろ歩く訳でもなく、速足かそれくらいのスピードで信号を渡りきる。その渡りきった場所でもスタッフさんは声を張り上げて

「ハイそのまま左へ進んでください!」

 と赤色灯で誘導している。横断歩道その他で列止めが必要なときは長さのあるカラーコーンの棒を使用し、今のような人の誘導の際は赤色蛍光灯を使うのであろう。

「この建物が、もう東ホールだよ」

 妹に言うと、流石にびっくりした表情で右手の建物を見上げる。鉄柵の向こう側にあり、更に木々で壁面は全く見えないが、その屋根の部分は見える。その屋根は、今自分たちの歩いている道にそって彼方まで続いている、少なくとも妹にはそう見えた。

「ここでやるの?」

「このホールでも、やる」

 この発言で、妹は今からとんでもない場所に行くのだという事を、漸く自覚できたようだった。彼女の十四年間の人生で、東京ビッグサイト並みの建物に入るのは今回が初めてである。また、その全ホールを使用するような大規模イベントに参加するのも全くの未経験であった。

 歩いていると門が見えて、サークル参加用の通路と一般参加者用の通路で二股に分かれている。我々は勿論後者の通路である。

「あれはアンテナ?」

 妹が指差したのは携帯電話会社の中継車である。コミケでは電波が繋がり難くなるため、大手携帯会社は大抵この会場に車を派遣している。既にコミケの風景の一部として溶け込んでいた。

 直進していくと、カタログの当日販売所が脇にあり、道が開けてようやっと待機場所が視認できた。

「ええっ?」

 妹は目の前に広がる光景に絶句する。

 広大な駐車場に黒山の人だかりができていた。こちら側にはまだ柵が有る。その柵と海の間にある広い駐車場のアスファルトの上に、東ホール入口近くの端から80メートル以上の間にまで一般参加者が、石を敷き詰めたようにブロックごとに並び、座っている。「石を敷き詰めたように」と形容したのは、そこに居た参加者の多くが座っていて、しかもその恰好が寒さに耐えるように丸まっていたからだった。私たちもすぐにあの中に加わり、後発のビギナーたちに驚かれる側に回るのである。

「こんなに居るの?」

「これと、西側にもいたでしょ。あの人たち全部参加者だよ」

「うわ……本当に二十万人が来るんだ」

 こればかりは体験しなければわからない数字であろう。

「信じられないけどね、本当なんだこれが」

 駐車場に入ると、私たちは『の-5』と書かれた紙がカラーコーンをつなぐ棒に貼られてある列に並ばされる。横だけで十メートル、縦になるとその数倍ある長さのブロックに、詰められるだけ詰めて並んでいく。最終的に真ん中あたりで、列の外側に落ち着いた。私が外側で、右隣に妹がいる。外側だと途中トイレに出やすい利点があるが、風邪がもろにあたる欠点もあった。しかし、直ぐに隣の列も埋まるだろうと踏んでいたので後悔はない。案の定すぐに隣の列『の‐6』も埋まりだした。先頭がスタッフのカラーコーン棒でそれ以上前に出ないようにされながら歩いて行く。そのあとは「人の塊」がゾロゾロと歩き続けた。漸く歩みが止まってもしばらくは座らない。「前から順番に座って下さい」というスタッフの指示に従って、みんな前から順番に腰を下ろしていく。

毎度のことながら、これだけの人数が来場するコミックマーケットで大事故や暴動が起こらないのは、一般参加者のマナーが良いからであると痛感させられる。こうしたスタッフの言う事を守る一般参加者が圧倒的大多数であるが故に、コミケは成立できているのだ。

 東日本大震災の時、被災地や、帰宅困難者が多く出た東京都内では暴動や略奪が起きなかったと海外メディアが驚きを以て報道していたが、このコミケ開場前の風景を取材していただければ、日本人の被災地での落ち着きを持った行動も納得して頂けるのではないだろうか。

 現在、8時前。これから二時間はこの寒空の下でひたすら会場を待ち続けることになる。私と妹はレジャーシートを畳んだ状態で地面に敷き、その上に腰を下ろした。スマホを出して操作をする際に、私は手袋が煩わしいので取るのだが、寒さで指が悴んだ。結果、何もしないでただじっと待つのが一番であるが、私はカタログを取り出さなければならなかった。と言うのも、宝の地図、即ちサークル配置図への書き込みが済んでいなかったのだ。

 今回はギリギリまでどのサークルを回ろうかと考えることになった。純粋に、チェックしていなかったサークルを調べなおすと、魅力がありそうなサークルが数多く出てきたのである。それらの名前と場所を、まだ配置図の方へ記入できていなかった為、持ってきていたボールペンと赤マーカーで書き込んでゆく。必然、利き手には手袋もはまっていない。作業をしやすいように、左手も手袋を外している。事前準備を怠っていたから、この寒い中手袋を外して記入をする羽目になる。もっとも、この作業はただ座して開場を待つよりは、大分良い暇つぶしにはなっていた。

 漸く記入を終えて一息つくと、いきなり背筋がブルッと震えた。尿意を催したのである。駅で確かに用を足した筈だったが、生理現象には抗えない。私は妹にトイレへ行く旨を告げてその場を立った。

 財布と携帯、定期入れはコートのポケットへ突っ込み、肌身離さず持ち歩くことは忘れない。

 列の外側なので、その場を離れやすかったのは幸運だった。隣の列との隙間を歩いてカラーコーンの置かれた最前列まで行き、棒に貼られた列の番号を念の為確認する。『の‐5』で間違いない。それを見ると私は簡易便所へと向かった。男性用便所は、男性向けの日に行くことが多かったせいで、毎回長蛇の列に悩まされたが、今日のような女性向け中心の日は、男性用便所もすいている。

 用を足して手洗い場に行く。実はこの手洗い場こそ隠れた曲者で、下手をするとトイレより並ぶ。水に限りがあるから、複数ある蛇口から出る水量は極僅かで、どんなに栓を緩めようが、強く息を吹きかけると吹き飛んでしまいそうな勢いと量しか出ない。「洗う」というより、「手を濡らす」と形容した方が正しい状態である。

 こうして「濡らした」手は、刺すような冷気に晒され、真っ赤になった。私はすぐさまハンカチで手をよく拭いて、ポケットに突っこんでいたカイロで指先を温める。

 列に戻ったら手袋をはめて、手をしっかり冷気から守る。

「今、寒いってお母さんにライン送った」

 妹は中々上機嫌である。寒さはあるが、この「嵐の前の静けさ」に満ちた、開場前の雰囲気に毒されている様子だった。

 

 開場時間が近づくと、待機列に並ぶ参加者は言われるまでも無くおもむろに立ち上がり、シートや折りたたみ椅子を片付け始める。私たちもそれに倣いシートをしまって開場に備える。

 時計の針が十時を指すと、俄かに拍手が起こった。開場の拍手である。私もスマホをポケットに入れ、拍手を送る。周りにはこの拍手の意味が解らず、ただ他の人に倣ってしている、という人も多々見受けられた。

 開場しても、列がすぐに動き出すわけではない。我々の待機列は十五分ほど全く動かなかった。スタッフが「動きまーす」と声を張り上げて、漸く我々の列も前進を開始する。

 途中、何度も止まりながら、東ホール入口へ向かう長蛇の列は進んでいった。妹は何度か隣に居たり斜め前になることもあったが、基本的には直ぐ傍に居てはぐれることはなかった。

 スタッフは「柵に触れないでください。推しのキャラを愛する気持ちで柵に接してあげてください」と、これまたとんでもない名言を言って参加者の笑いを誘っている。

 入り口付近に近づくと気分が高揚しだした。既に目の前には東ホールと、その壁沿いのサークルへ並ぶ一般参加者の列が広がっている。

 私たちは列の流れに乗ったまま、東ホールの入口をくぐった。広大なロビーに参加者の熱気や様々な声、アナウンスが充満している、正に喧騒、カオスの様相である。

 今回も来たんだな。

 その嬉しさに、私の顔は思わずほころんだ。

 隣にいる妹は、人出とホールの広さにただただ圧倒されていた。


つづく


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