「私も行きたいな……」
1
2016年師走。年末に東京ビッグサイトで開催される冬のコミックマーケットに、私は今年も一般参加する事が出来ていた。私にとって、2013年の冬コミに参加してから7回目となる一般参加だったが、今回は、今までと全く違った状況に置かれていた。
一四歳になる、末の妹が私の隣に居るのだ。
歳は、きっかり十年離れている。
事の起こりは12月の頭である。私が仕事先から帰宅した時、
「お兄ちゃん、コミケ行くの?」
と、妹が唐突に訊いてきたのだ。
家族は、私がコミケに一般参加している事を全員知っていた。様々な事情により、家族にすら(寧ろ家族だからこそ)同人活動を隠してコミケに参加している参加者に比べると、非常に気楽である。
私は解らないと正直に答えた。私の二〇一六年現在の仕事はレジャーサービス業である。年末はかき入れ時なのだ。まだシフトが作成されておらず、休みがいつになるのかすら定かではない。最悪、今年の冬コミは参加できないかもしれないと諦めていた。
何故目の前の妹はそんな質問をしてきたのか。妹は確かにそこそこオタクの道に足を踏み入れている。しかし同人誌に興味があるそぶりは全くなかったように思う。確かに彼女は漫画が好きだったが、その程度であろうと、この時私は思っていた。
「お兄ちゃん、封神演義知ってるでしょ?」
この発言は全く想定していなかった。封神演義と言えば、殷周革命を題材にした古代中国の古典であるが、まさか中国史に興味が出てきた訳ではないだろう。恐らく、かつて少年ジャンプで連載されていた漫画の事だ。実は我が家では長女が全巻そろえている。
大方、長女の『封神演義』を読ませてもらって嵌ったのだろう。
事実そうだった。そして、Pixivで封神演義のイラストを探すようになり、その結果、ある同人誌作家のイラストに心を奪われ、ファンになった。
みゆき、と言う名前で同人誌活動をしている大学生である。先のコミケに出展するのは勿論、封神演義オンリー即売会にも参加されている実力派であった。
「その人のファンなのか」
「うん! 大好き!」
目を輝かせた妹は満面の笑みで答える。
私は、やはり年が離れても性格は似るものなのだな、と、この十年歳の離れた妹を見てしみじみ思う。
私も「作家」に憧れる傾向が強いのである。私はコミケや同人誌即売会へ行く時に、「贔屓の作家の商業単行本等にサインを頂く」という、余りにもミーハーな目標を毎回立てている。会場で私が贔屓にしている作家のブースに辿り着いたら、まずはそこで同人誌を買い、作家が忙しくなければその場で本にサインを依頼する、というやり方をとっている。そういうやり方でサインを頂けた本は十冊以上になり、現在私の宝物として大切に保管してある。
そして我が妹も、同人誌の世界に居る作家のひとりに心酔している。血は争えないと言う事か、と一人納得した。
カタログを調べると、みゆき先生は2日目に参加される予定でいた。念の為ツイッターで確認を取るが、御品書きのようなものが見当たらない。ひょっとしたら参加できなくなったという場合もある。一応ご本人に確認のツイートを送る。
――みゆき先生、初めまして、中嶋と申します。突然のツイート失礼致します。今年の冬コミには参加されますでしょうか?
2016/12/7
一応、リプライが返って来易いように、フォローもしておくと、早々に返信があった。参加予定であるという。
妹が大ファンで、私が参加できれば妹を引率していくと言うと、「当日来れなくても通販等が有るのでお気軽にお問い合わせください」
と返信を頂けた。みゆき先生の同人誌だけが目当てならばそれでもいいのだが、私はコミケそのものに行きたいのである。
シフトが解るのは15日なので、不安が拭えない。
結果的に30日が公休になっていたのは、幸運以外の何物でもなかった。
2
ここで、私と、初めてコミケに一般参加する女子中学生とについて幾つか話をしようと思う。
私の実家は、千葉県の松戸市と柏市の境目にある町である。1963年、その町の商店街で、私の祖父が営業写真館を開業した。以来父が後を継いで社長となり52年、写真館はこの地で営業を続けている。私はその家に長男として生を受けた。
父は映画好きで、私はその影響をもろに受けていた。幼稚園の頃から、私は父のレーザーディスクやビデオでゴジラ映画やスタジオジブリ、黒澤明の映画を観て育った。映画だけではなく、ウルトラ初期三作、サンダーバード、また当時NHKで放送されていた『カードキャプターさくら』等を観て、すべてに心を奪われ熱狂していた。後から生まれた妹たちも、私の趣味には少なからず影響を受けている。
妹は三人居て、上は現在大学3年生、二番目は高校1年生で、三番目の、件の妹は中学2年生である。
今回、一日20万人が来場すると言われているコミックマーケットに末の妹を引率するのは、正直かなり不安であった。
この三女は、軽い発達障害を抱えているのだ。
小学校に入るまで、家族は勿論、本人にもその自覚はなかった。だが小学1年生として学校に通うようになって以来、どうしても勉強についてゆけず、ふさぎがちな日々を送ってしまっていた。長女が軽度のアスペルガー症候群であるので、母は「もしかすると」と思い、妹を病院で診てもらった。
例えば妹が小6になったとする。しかしその時妹の理解力等は、実際には小3以下の状態である――。
母はそう言う言い方で我々兄妹達に説明した。
妹は現在、中学で特別支援学級に通っている。身障者を対象としたクラスである。妹はどちらかと言えばかなり軽度な方なので、むしろ一般学級にした方がいいのでは、と思えなくもなかったのだが、小学校以来特別支援学級で過ごしていたためか、学力が追い付かない状態にあった。一般学級に入れるのも酷である。
そんな妹は、私や長女の漫画を好んで読んでいた。『封神演義』にハマったのもそうした借りて読んだ漫画がきっかけだったのである。
この三女は、そうした中で生活してきて、実は満員電車にも乗ったことが無い。部活で都内遠征などに行くような生活を送っているわけではないので当然と言えば当然である。
そんな妹が、あのコミケの人混みに果たして耐えられるのか。更に言えば、ビッグサイトの広大な東1,2,3ホール、東4,5,6ホール、西ホール、新しくできた東7ホールなどの敷地内を歩き回る体力が、この妹にあるのだろうか……。
不安は尽きない。
12月30日払暁。
東の空に未だ朝日も顔を出していない時間帯に、私は「戦場」へ赴く支度の総仕上げを行っていた。早い話が持ち物チェックである。
必要なものは、何をおいてもまず、軍用金だ。
一週間前に銀行で下した3万円は、その日のうちに千円札30枚に両替しており、封筒に入れていた。また、普段使用している財布には一万数千円が入っており、この4万円弱が今日の私の資金である。3千円分のチャージを済ませたスイカと、免許証が入ってある高校時代から愛用している定期入れも忘れていない。
コミックマーケット開催期間中、国際展示場の切符売り場は、切符を買う客と交通系ICカードにチャージをする客で毎回大混雑する。だからこそ、カードには前もって余分にチャージをしておくのが大切なのだ。妹にもその点はきつく言ってあり、昨日の内にチャージを済ませたらしかった。
運転免許証を持っているのは、普段から定期入れに入れているからだが、これは成人向け同人誌を買う際の年齢確認証にそのまま使える便利なアイテムとなる。それに、仮に不測の事件や事故、災害に巻き込まれて「もしも」の事があった際、顔写真付きの身分証は身元確認に大いに役立つ。
何故3万円を千円札に両替していたか、疑問に思われる方もいらっしゃると思われる。釣り銭対策だ。
コミケのサークルには、壁沿いに出展している大手のサークルや、「島中」と呼ばれる場所に出展する中堅~少部数サークルがある。私は島中サークルばかり回るので特に重要なのだが、なるべくお釣りの無いように買うのがマナーの一つである。少部数サークルだとそこまで多くの釣り銭は中々用意できないからだ。(逆に、午後になると高額紙幣が重宝される場合がある。午前中にたまった小銭を釣り銭としてさばける為である)
同人誌の値段は、別に決まりがある訳ではないが、5百円や千円の、割り切りやすい値段付けが多い。無論、中には3百円、4百円の値段の物もあるが、基本5五百円、千円と考えて良い。だから、千円札を持っていくのもいいのだが、本来ならば、5百円玉を持っていくべきなのだ。なぜ今回はそうしなかったのかと言うと、買う予定の同人誌を考えての事だった。
今回は小説や評論系の同人誌が多く配布される日でもある。それらの同人誌は値段が千円代のものが多いというのが、何度かの同人誌即売会で感じた事だった。漫画同人も購入予定だが、どちらかと言えば今回の目当ては小説等であったので、私は千円札を優先したのである。
次に必要なのが防寒着である。実は今回、私は我ながら馬鹿だと思うのだが、スーツでコミケに一般参加したのである。コートは私がボーナスで購入したロングコートで、丈は脛の半分まで届く。ナチスドイツの将校が着ていたようなデザインのコートで、即ちかなり「かっこいい」。これは非常に気に入っていたのだが、中々着る機会に恵まれず、ならばと、コミケに着ていくことにしたのだ。
貼るタイプと手に持つカイロを鞄に詰め、マフラーと手袋も確認する。
その後に肌着を二枚重ねにして、上にワイシャツ、背広を着て取敢えず完全に起床した。カタログと目当てのサークルを記入したサークル配置図(俗に『宝の地図』と呼ばれる)と敷物も鞄に詰めこんだ。(敷物は、開場までの時間並んでいる時に座るときに使用する。折りたたみ椅子も持っているのだが、嵩張るので今回は持っていくことをやめる)
先程から物が詰め込まれている鞄は、ドンキホーテで購入した、そこそこ容量が大きいトートバッグである。それの他に同人誌を入れる、とらのあなで同人誌を購入した時に入れるビニール袋を三枚持った。この中に冊子を入れて、更に会場でコミケ限定の紙袋も買う予定でいた。前回の夏コミで初めて購入したが、思いのほか重宝できたので、今回も会場の紙袋を頼ることにする。
洗面所に行くと、妹が髪をとかしていた。
「お早う」
「うん、お早う」
すっかり目が覚めている状態だった。人生初のコミックマーケット参加に気分が高揚しているのだろうか。
私も寝癖をとかし、髭を電気剃刀で剃っていく。折角賞与で買ったお気に入りのコートを着て、慣れないお洒落をするのであるから、身だしなみは整えておきたい。
一階リビングに下りると、祖母が既に台所に立っている。
今回は母が車で八柱駅まで送ることになっていて、バスの時刻を気にする必要はない。
祖母の切ってくれたリンゴを食べながら、私は妹の持ち物に不備が無いか確認した。
今回、みゆき先生のブースに行くのが第一目的と言う事で、事前に妹へある提案をしていた。
「そんなにみゆき先生の絵が好きなら、スケブ描いてもらったら」
同人誌即売会ではスケブを描いてもらう事はよくあるが、初参加の妹は、そのような事が出来るなど夢にも思っていない。
スケッチブックは、未だ何も描かれていない真っ新な新品を妹が持っていたので、そちらを持っていくことになったのだ。
「ちゃんとリュックに入ってるよ」
普段通学にも使用している大きめのリュックである。
財布、交通系ICカード、カイロ、マフラーや手袋といった防寒具、レジャーシートなど、一応私が「持って行け」と言ったものはリュックに収まっているようだった。
私はカップラーメンを二つとって、お湯を注いだ。
「ラーメン?」
祖母が訊いてくる。
「そう。朝食は絶対に摂っていかなきゃ。夏コミは特にだけど、冬でも案外汗は掻くから」
カップ麺の塩分は濃い。だから、私はよく夏コミの朝などはカップラーメンを食べてから出かけている。塩分を蓄えておくためだ。
コミケのカタログには、何十ページにも渡って漫画の一コマレポート、「まんレポ」なるものが有るのだが、その中で夏コミ終わりに担担麺を食べた人が、「全く味がしなかった」と書いていたのである。それ程汗や水分が流れ出ていたという訳だ。それを読んで以来、コミケの朝は濃い食べ物や飲み物を口にしている。
「ちゃんと食えよ」
「はーい」
妹はカップ麺が嫌いではないので、文句も無く食べ始める。
その後、私たちは母にJR武蔵野線八柱駅まで送ってもらった。
車から出ると、北風が吹き付けてきた。まだ東の空がほんのり白んでいるだけである。最も寒い時間帯と言えるが、防寒対策をしっかりしていたお蔭か、耐え切れない寒さではない。
「人ごみに慣れてないからね、しっかり引率してよ、お兄ちゃん」
母は帰る間際、私にそう言った。半分冗談で半分は本気である。
振り向くと、妹は上着のポケットから交通系ICカードを取り出して、改札口近くで私を待っていた。
「今行く」
私は改札へ駆け足で向かった。東京行の電車は五分後に出ると掲示板に表示されている。年末の早朝とは言え、思ったより駅は人が多かった。この中で、誰がコミケまで行くのだろう。いつも思う事である。
そういう我々はどうなのか。はたから見れば、ロングコートに身を包んだ黒づくめの青年と、ピンクのジャンパーを着た少女と言う組み合わせのこの二人が、コミケに行くなどとはとても想像はできまい。いくら変人の多いコミケであっても、この二人組は浮くだろう。これだけは確実に想像できた。
3
――寝過ごしたぁ。
と、ツイッターのフォロワーさんが呟いていた。らあだというアカウント名の女子高生で、漫画家CLAMPの大ファンである。女子高生で『東京BABYLON』が大好きというのは中々の筋金入りである。そうそう居るものではない。(尤も、私も中学時代にCLAMPの『東B』含む初期作品を読み漁っていた訳であるが)フォローして以来何度かツイッター上で絡んだことはあったが、今回初めてコミケの会場で会う事になっていた。朝の入場から一緒にいるわけではなく、会場内で顔を合わせる、という程度のものである。だから彼女が寝過ごそうが時間通り家を出ようが、我々にはあまり関係が無い。
武蔵野線は、かなり混んでいた。朝六時半の東京行武蔵野線だから、混むのは当然であろうが、年末30日でこれはどういう訳か。
妹は案外嫌な顔をしていない。この程度の込み具合は想定内のようだ。
「この中で、何人コミケに行くのかな」
妹が小声で訊いてくる。
「何人かカタログ持ってる人がいたし、下手するとこの乗客の半分は行くかもね」
と、冗談半分に行った。
乗客は、若い層が非常に多かった。何名かはどうもコミケに行くには若いような気もしたが、「ある駅」に到着した時、私は納得した。
車両の半数の乗客がその駅で降りて行ったのである。
その駅こそ、舞浜駅だった。
「みんなディズニーランド目当てか」
健全な若者たちの後姿を車窓から眺めていると、何人かの家族連れや学生が、我々の乗っている車両を見ていた。
「あの人たちは何処へ向かうんだろう?」
と言った表情を浮かべている。私は心の中で応える。あなた方と同じ、夢の国へ行くのだと。その代り、人口密度はそちらの二倍以上で、辛さもこちらの方が上でしょうが……。
私はこの時、コミケへ行ける嬉しさのせいで、テンションがおかしなことになっていた。この時私はFace BookとLineの「文芸部」と言うグループへ、このような文章を投稿している。
さ〜て、今回の冬コミは〜?
(BGMサザエさんの予告の曲)
中村です。コミケの会場に向かう武蔵野線の道中、舞浜駅でティーンエイジャー達がドッと降車していきました。
私は本日、即売会という夢の様な場所に行きますが、彼ら彼女らもまた、浦安の夢の国で青春を謳歌するんだなぁと思うと、何だか非常に感慨深い気持ちになって参ります。
さて本日は、
中村、コミケに中二の妹を引率する
カタログに挟んでいた宝の地図が見当たらない
カイロの袋に穴が空く
の3本です。
今年はお世話になりました。来年もよろしくお願い致しますね。
じゃん、けん、ぽい
ウフフフフ。
すいません。コミケという事でハイになっております。
我ながら、頭のねじが吹っ飛んでいたとしか思えない。そしてこんな投稿に「いいね」をつけた「友達」が五人もいたのはもっと異常事態であったと思う(因みに文中の「中村」とは、筆者・中嶋條治の名字である)。
「本日の三本」も、後半二つは完全なる創作である。
Lineグループ「文芸部」では、ツイッターのフォロワーさんであり、私をこのグループへと招待してくれたM氏が反応をして下さる。
この反応に気をよくし、スマホ画面に集中し過ぎていたせいで、うっかり車内のアナウンスを聞き逃していた。舞浜を出たと言う事は、新木場駅まではもうすぐの筈である。
外を見ると、電車は既に駅のホームへ入っている。駅の看板を見たいが、何分看板が小さいのは致命的だった。しかし、見慣れたホームではある。
「しんきば~。しんきば~」
よし、新木場だ!
「降りるぞ」
「え? あああああ……」
妹は私の予告なしの降車宣告に困惑した。しかし、そんなものは彼女にとって次の瞬間、何でもなくなる。
「人、多っ……!」
この妹の感想は、2013年のコミケ初参加時の自分を見ているような気持にさせられる。
駅のホームは人で文字通り溢れていた。京葉線直通の東京駅へ向かう列車で、舞浜で降りずに残っていた乗客の八割以上が、この新木場駅で一気に降車するのだ。必然的に、改札へ向かう下り階段、エスカレーターには長蛇の列ができる。これが、我々が本日最初に体験した行列となった。尤も、直ぐに歩みは進んで、エスカレーターに乗れた。
歩いて降りようとした妹の肩をしっかりと掴む。
「コミケはエスカレーターの通行禁止だよ。これは駅のエスカレーターでもそうだ」
「何で? 会場じゃないのに!」
「御尤も。でも、『家に帰るまでが遠足です』って学校で習っただろうが。コミケもそうだ。家から出て、家に帰るまでがコミケだ。それにこの新木場駅はコミケ参加者がめちゃくちゃ利用する。最早『準会場』と思っていい。コミケのマナーをわきまえて行動しろ」
あくまで作者個人の感想である。
「コミケのマナーなんて、言われてないよ」
「まあな。お前さんの普段の行いを見ていたら、言う必要もないと思ったんだ。それくらい、常識的なルールなんだから」
この妹は、学力は小学生並みであるが、マナーや常識力はそれを上回っている。決して年齢相応だと自信を持っては言えないが、その辺りの心配はしていない。
そう言いあう内に、エスカレーターは我々を改札階まで運び終えようとしていた。
「流れを止めちゃだめだ。Suica出しとけ」
と、妹に言った。改札口の真ん前でICカードや切符を出すのにまごついて大渋滞を引き起こす、と言ったトラブルの前始末である。
妹はすぐSuicaを取り出して、エスカレーターを降りた。私も定期入れを手にし、改札を抜ける。残高は2千5百円以上。目的地――即ちりんかい線国際展示場駅までと、その駅から我が家の最寄り駅までノーチャージで十分行ける額である。
「残高、いくらだ?」
妹は2千円くらい。と答える。曖昧な返事だが、少なくとも問題はない。
そのままJR京葉線の改札を出ると、我々は人の流れに乗って左手に向かう。東京臨海高速鉄道りんかい線新木場駅の改札口である。
改札をスムーズに通り抜け、駅のホームへ降りていく。駅員さんの「走らないでください」という掛け声は、早くも嗄れ気味である。まだ2日目の朝なのに、と読者の方は思うかもしれないが、無理もない。一日目の混雑も相当なものであったはずだ。一日少なくて17万人、多くて20万人が来るイベント会場の中継駅である。我々のような黒山の人波がずっと続くのだ。舞台役者や歌手でもない限り、声も嗄れる筈である。
駅のホームに降りると、既に大崎行の電車がホームで停車していた。新木場は始発駅なので、実はコミケの日でも座れる場合がある。
階段を降りたばかりの車両は駄目だったが、前方へ歩いてゆくと、直ぐに空席が目立つようになる。我々は手ごろな二人分のスペースを見つけると、ドッカリと腰を下ろした。
暫くして、電車は発車した。妹は臨海の景色に大した興味が無いらしく、持参していた『封神演義』の単行本を読んでいる。
私は新木場~東雲間の臨海地区を眺めていた。時刻は七時。まだ太陽は建物の陰に隠れて見えないが、その明かりは早くも東京湾や建物を煌々と照らしている。空模様は、雲がほとんどない、「ピーカン」という撮影用語がピッタリな日和である。未だ「青い」と言うには暗すぎる、群青色とも言うべきだが、今日は晴れそうだというのは解った。
東雲駅を通過し、地下へ車両が潜っていく。駅はもうすぐであった。
「おし、行くか」
妹はコミックスから顔を上げて、「うん」と返事をした。
リュックに『封神演義』をしまっている内に、電車はホームに入っていた。
「戦場に着いたぞ」