第五節
怪物は、その大穴を拳の力のみで開けた。
その大穴の深い底は、真っ暗で見えはしないが、確かに銀霊シャドウはその中にいた。
ジッとゾンビはその大穴を見据えるようにしていたが、其の先にあるものが動かないのを確認すると、ギロリッと視線を変えルナへと標的を変えた。
「……ッ!?」
咄嗟に銃口を向け構える。
この行動を行うために、一体どれだけの勇気を振り絞ればよいのだろうか。
絶望的な相手へ敵意を向けることは、人間にも何者にも、到底難しいことである。
刹那。
彼女の弾丸が発砲された。
パンッ! パンッ! と、乾いた音が反響する。
ゾンビといえば、瞬時にそこから姿を消した。
明らかに人知を超えた速さに、銃弾は彼方の壁に衝突する。
グオンッ!!
まるで風を起こすかのように、ゾンビはルナの背後を捉える。
腕を彼女の首元まで伸ばそうと、グオンッという空気を裂く音が彼女に近づいていたのだ。
「……、」
ガキィッ!!
ゾンビの腕は衝突する。
だが、其れは彼女に激突した音ではなかった。
彼女の背後から、彼女とゾンビの間の空間を遮断するように、鎖が空間を裂いて防いでいた。
「……ッ!」
すぐさま銃口を後方へ移し、ゾンビに発砲する。
「―――ッッッ!?!?」
放たれた銃弾は、ゾンビの腹部に命中した。
当てられた事に驚いたのか、その激痛に顔を歪めたのか、ゾンビは咄嗟に距離を取る。
「……、」
ルナ・シュヴェルツェは、考え続けていた。
彼女は、窮地に来て今、自分に出来ることを見出していた。
それは唯、とても単純で、とても効果的であった。
鎖は、どこからでも出る。
だが、きっと彼女にとっては出る場所というのは、彼女の付近だけなのだろう。だからこそ彼女は、鎖を防御に使ったのだ。銃弾を矛とし、怪物が彼女の死角から襲って来るとしたとき、その死角を防御するために編み出した盾。ある種一つの戦術だった。
(たとえ一本で耐えられなくても、捕まえられなくても、この方法なら、倒せる!!)
ある種の賭けではあった。
だが、ここで絶望するなら、諦めない方が良い。
そう明確に思ったわけではなくとも、彼女の精神はきっとそう言っているのだろう。
ゾンビは、少しずつ戦い方の感覚を思い出していた。
壁にへばりつき、まるで蜘蛛のように彼女を観察していた。
だが、それよりも体が先に動いていた。
ゾンビは壁を足蹴にして彼女へと接近する。
ルナも片方の銃口をゾンビへと発砲し始める。
飛び出したゾンビは、空中では動くことはできなかった。
飛び出せば的になるのは確実であろうし、回避は極めて困難だった。そしてその結果、銃弾がその化け物へと直撃する。
微かに紅色が接触部から吹き出す。
きっと、血も十分に巡り出しているのだろう。
だが、それでよかった。
ゾンビは、喰らうことを前提で飛び出してきたのだ。
目の前で衝突を止めないゾンビに対し、ルナは急いで鎖を出現させ防御策に出る。
まるで編み上のハンモックのように形成された鎖が、ゾンビを包み込もうとするだろう。だが、ゾンビは止まらなかった。足が地面についた瞬間、また地面を足蹴にし、彼女へと迫ろうとしたのだ。
当然、ハンモック状の鎖が邪魔をするのだが、ゾンビには関係がなかった。
何故なら、端から避けようなどとはしていないのだから。
「……ッ!?」
ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎっと、迫ってくる目の前の怪物を止めるハンモックが悲鳴を上げている。
(まさか、力押しで?!)
ガギッ! バギッ! ギリギリギリギリッッ!!
幾つかの鎖が耐え切れずに一本、また一本と砕け始める。
「ならっ!」
ルナは瞬時に後ろ数歩へと下がると、両手に持っていた銃を投げ出し両手を仰ぐように広げる。そのまま、目の前にある何かを捕まえようとするように両の腕を目の前で勢いよく交差させた。
すると、空間から大量の鎖が、大蛇かのように出現するとゾンビを囲い締め上げ始める。
きりきりきりきりきりきりきりきりきりきりきりきりきりきりっっっ!!
鎖がこすれ合う音が辺りに響き渡る。大量に出現した鎖たちの郡は、いつの間にかゾンビの姿をも飲み込み、そしてその終には一つの鎖球体が完成していた。
「……ハァ、ハァ…」
息を吐く。
ここまでの瞬間、自分はちゃんと呼吸をしていたのだろうか? そう、錯覚してくなってしまうほどには、今その瞬間に息を整え始めていた。
厚さ一メートル近くの鉄壁の中にいるゾンビ。流石にこの拘束からは逃げられないだろう。今のうちにシャドウの方へと向おうとし、後ろへ向き直ったその時だった。
ガギィィィッッッ!!!!
轟音が鳴った。
まるで瓦でも割れたような音が、何重にも重なって耳の奥に響いてきた。
(……まさかッ!?)
予測は常に、嫌なものが一番当たりやすいのは何故だろうか?
この問には実は明確的な回答がある。
それは、それまでの行いが可能性の範囲で行われていたものであったからだ。
確定的な方法であれば、ただの作業のように当たり前に成功するだろうが、未知であり突発的なものは常に確率との勝負になる。
その中で最もその問に達してしまう理由として、その行動は極めて成功率が低いものであったからである。
そして、それは正に目の前で起きている現象であった。
相手は〝神の力の片鱗を振るう者〟の一人。そんな奴が、人の身体能力や物体との耐久力と比べ合わせたところで、比になるわけもない。建築物を壊すための大鉄球を片腕を振るうだけで破壊できる彼らに、人への対抗策では余りにも無力なのだ。
鎖が飛び散る中、ゾンビは動きを止めなかった。
瞬きも許さなかった。
彼女へと、その悪手が伸ばされようとしていたのだ。
その刹那。
轟音が響いた。